第13話 敵がいない
東門の鐘が、短く鳴り続けていた。
三つの影が屋根を横切り、翼から落ちた風が瓦を剥がした。広場へ破片が降り、買い物籠を抱えた女が子供の腕を引いて路地へ入る。
「飛竜だ!」
「地下通路を開けろ!」
ギルドの扉から冒険者たちが走り出した。剣を持つ者は広場へ散り、弓兵は時計塔へ、術師は東門の前へ集まっていく。
先頭にいた女が盾を構えた。
短い赤髪。左頬には、牙で裂かれた傷が残っている。胸の銀章には、剣と封印杭が交差していた。
「第一班は西側へ! 住民を路地から出さないで!」
副長兼封印管理官のセラが剣を抜いた。
一体のドレッドウォックが翼を畳み、広場へ落ちてくる。露店の天幕が爪で裂かれ、倒れた柱のそばでは老人が石畳へ膝をついていた。
飛竜の喉に火が集まる。
セラが老人へ走った。
「まだだ」
ギルドの屋上から声が落ちた。
黒川拓真が縁へ片足を掛けている。黒い外套の下には、魔王の角から削り出した剣があった。
「ギルド長!」
「待て」
拓真の前に金色の文字が浮かぶ。
【対象指定】
【灰翼飛竜】
【勝利条件――討伐】
ドレッドウォックの首筋へ金色の線が走り、石壁の亀裂と、煙突の脇を抜ける風と、拓真の足元を一本の道で結んだ。
【勝利確定】
「今だ」
拓真が屋上を蹴った。
ドレッドウォックの炎が広場を走る。拓真は火の中へ入り、金色の線に沿って剣を振った。
炎が左右へ割れた。
飛竜の首が、老人の手前へ落ちる。
拓真は石畳へ降り、外套に残った火を手で払った。皮膚にも服にも傷はない。
残る二体が時計塔へ向きを変える。
【対象追加】
【勝利条件更新――三体討伐】
【勝利確定】
屋根から吹き下ろした風が拓真の背を押した。拓真は石壁を蹴って一体目の翼を断ち、落下する身体へ足を置く。そのまま二体目の尾を潜り、胸へ剣を入れた。
二つの影が、城壁の外へ落ちた。
鐘が止まる。
広場に歓声が戻った。
「拓真様!」
「英雄だ!」
「ギルド長!」
拓真が剣についた血を払うと、木剣を持った子供が駆け寄って腕を上げた。
「俺もギルドに入る!」
「十年早い」
拓真が子供の頭へ手を置き、周囲から笑い声が上がる。
広場の端では、セラが老人を起こしていた。老人の袖は焼け、右腕に赤い筋が走っている。
「治療班、こちらへ!」
二人の治療師へ老人を預けると、セラは落ちたドレッドウォックの首へ戻った。鱗の下から鉄の首輪を引き出す。
西の飼育塔を示す刻印があった。
壊れた錠の隙間には、銀色の破片が挟まっている。
「ギルド長」
拓真は広場の人々へ手を上げている。
「この個体は、西の飼育塔から出ています」
「管理官へ聞け」
「塔の三体が消え、予備鍵もなくなりました」
「ドレッドウォックは倒した」
拓真がギルドへ向かう。
「死者はいない。それで十分だ」
「放されなければ、負傷者も出ませんでした」
歓声が拓真の背中を越えていく。
「何が言いたい」
セラは首から飼育塔の統括鍵を外した。
「私の鍵はここにあります」
拓真の外套の内側で、金属が鳴った。
「見せてください」
「命令するな」
「副長として確認します」
拓真は周囲へ顔を向けた。笑っていた人々の口が閉じ、治療師が老人の腕へ布を巻いている。
外套から出した統括鍵は、先端の一部が欠けていた。
セラは首輪から抜いた銀の破片を、欠けた場所へ重ねる。
形が合った。
「ドレッドウォックを放したのは、あなたですか」
拓真は答えず、セラの向こうを見た。
白い服の女が、人の間を歩いてくる。誰も道を空けていない。それでも女から伸びる藍色の糸は、拓真の胸へ入っていた。
「黒川拓真」
拓真の肩が動く。
「その名前を知る者は、この世界にはいない」
「エイルです」
拓真の前へ金色の文字が浮かぶ。
【対象指定】
【天使エイル】
【勝利条件――】
最後の行が崩れ、文字が最初から組み直された。
【勝利条件を設定できません】
「お前か」
拓真の右手が剣の柄へ触れる。
「俺に力を寄越した天使」
「スキルを回収します」
拓真は治療を受ける老人へ一度だけ目を向けた。
「今日は忙しい。次の予定もある」
「ジェネシックドラゴンですか」
拓真の指が柄から離れた。
セラは銀の破片を握る。
「なぜ、その称号を」
ジェネシックドラゴン。
古代語で、始まりに属する竜。現存する竜種の祖とされ、確認されている個体は一体だけだった。
その存在を知るのは、王家とギルド長、封印術師に限られている。
拓真から伸びた金色の線が石畳へ沈み、ギルドの地下を抜けて山の奥へ続いていた。
「《必勝》が封印の中へ道を作っています」
「ギルド長」
セラが拓真との間を詰める。
「地下で何をしたんですか」
「何もしていない」
「六基の封印塔へ触れられるのは、あなたと封印管理官だけです」
「なら、お前を疑えばいい」
セラは欠けた統括鍵と、銀の破片を拓真の前へ並べた。
「飼育塔の鍵を壊したのは、私ではありません」
拓真はエイルを見る。
「回収は、いつまで待てる」
「待ちません」
「ジェネシックドラゴンを倒すまでだ」
「討伐してはいけない竜です」
「俺なら倒せる」
セラの指が胸の銀章へ触れた。
「心臓を壊せば、蓄えられた魔力が地脈へ逆流します。山は崩れ、北の川は沸騰する。王都の地下魔術網まで焼けます」
「封印者が残した予測だ」
「だから、眠らせ続けているんです」
「誰も倒せなかったからだ」
「倒せば終わる相手ではありません」
拓真はギルドの向こうにある山を見上げた。頂上は雲へ入り、斜面には六基の封印塔が間隔を空けて立っている。
「魔王を倒した。北方の巨人王も、海底の蛇も倒した」
広場には、三体のドレッドウォックが横たわっていた。
「こんなものでは、もう線が短すぎる」
「線?」
拓真の右手が開く。
金色の輪は浮かばない。
「敵がいなければ、剣を振る場所も、踏む石も、吹く風も見えない。朝から依頼書へ印を押し、揉め事を聞き、倉庫の数を確かめる」
何もない空中へ指を伸ばす。
「そこには《勝利確定》の文字が出ない」
「私たちが望んだ世界です」
「お前たちのだ」
拓真の指が閉じた。
「何をしても、正しかったか分からない」
「だから、敵を作ったのですか」
「敵がいれば答えが出る」
倒れたドレッドウォックへ顔を向ける。
「倒せば、俺が正しかったと分かる」
老人の腕へ巻かれた布に、血が広がっていく。
「死ぬのは、あなたとは限りません」
「最後には俺が勝つ」
「山と街が残る保証はありません」
「ジェネシックドラゴンが死ねば終わる」
「終わるのは、あなたの勝負だけです」
セラの手から銀の破片が落ち、石畳へ音を残した。
「私を助けた日も?」
拓真がセラを見る。
「森で魔獣に襲われた日です。あの魔獣も、あなたが放したんですか」
「違う」
返事は途切れなかった。
「あれは偶然だ」
「では、あの日のあなたは、本当に私を助けた」
「ああ」
セラの指が左頬の傷へ触れる。
「いつからですか」
広場のドレッドウォックへ顔を向けた。
「助ける相手まで、自分で作るようになったのは」
ギルドの入口には冒険者たちが集まり、木剣を持った子供の腕は下がっていた。
「去年、南門に出た岩獣も?」
「訓練のつもりだった」
「三人死にました」
「予定より壁を越えた」
「あなたが出さなければ、誰も死ななかった」
「俺が倒した」
「あなたが出した!」
セラの声が広場の壁へ返る。
拓真の手が剣へ伸びた。
「誰に向かって口を利いている」
「私を救った人にです」
セラは剣を抜かない。
「ギルドを作った人に」
一歩進む。
「南門で三人を死なせた人に」
拓真の剣が鞘から半分出た。
【対象指定】
【セラ】
【勝利条件――】
金色の文字が揺れる。
拓真は剣を鞘へ戻した。
「地下へ行く」
セラが道を塞ぐ。
「封印鍵を渡してください」
「どけ」
「ジェネシックドラゴンは解放させません」
「封印は永遠には持たない」
「現在の出力なら、百年以上持ちます」
「百年後に、誰が倒す」
「百年後の人たちが決めます」
「俺なら今、倒せる」
拓真がセラの肩を掴む。
「俺がいるうちに終わらせる」
セラは動かず、肩へ食い込んだ指を見る。
「終わらせたいのではありません」
拓真へ顔を戻した。
「始めたいんでしょう」
山の中から、石を擦る音が届いた。
広場の噴水へ波が立ち、井戸の水が縁を越える。屋根から瓦が落ち、ギルドの地下で警報板が鳴り始めた。
街を囲む森から鳥が一斉に飛び立つ。
セラの顔が山へ向いた。
「何をしたんですか」
拓真は外套から、青黒い石の鍵を出した。表面に刻まれた一本目の角だけが砕けている。
「第一封印塔の接続を切った」
山頂の岩盤が、内側から持ち上がった。
斜面を走った亀裂が第一封印塔の下へ届き、塔の青い光が消える。残る五基の光が細くなった。
砕けた岩の間から、六本の角が現れた。
続いて頭部と首が山から持ち上がり、岩盤に近い鱗が土と木を押し退ける。片方の翼が斜面を破って開き、先端が雲へ入った。
もう片方の翼と四本の脚、山中へ伸びた尾は、残る五基の封印塔につながる青い杭に押さえ込まれている。
金色の目が開いた。
ジェネシックドラゴンが首を動かすだけで、地面がうねった。
北側の家の壁が通りへ倒れ、地下通路の天井から石が落ちる。広場の女が子供を抱え、噴水の陰へ伏せた。
時計塔の封印術師が杖を上げた。先端に集まった青い光は術式へ入らず、細い筋となって山の口元へ吸い上げられる。
ジェネシックドラゴンの身体から剥がれた古い鱗が、山肌を転がる。
鱗の隙間から四本の脚が伸び、二、三メートルほどの獣へ変わった。翼はなく、岩盤状の背を持つ。
「ジェネシックドラゴンの眷属、裂鱗獣です!」
時計塔の封印術師が叫ぶ。
スケイルハウンドは街の人間には向かわず、山から北壁へ降り、封印塔へ魔力を送る導管へ爪を立てた。
第二封印塔の光が揺れる。
「第二塔、出力低下!」
「三基目が落ちれば、原初炎が街へ届きます!」
街中の鐘が鳴り始めた。
拓真は倒れた家ではなく、山から現れたジェネシックドラゴンを見ていた。
口元が持ち上がる。
「やっとだ」
「ギルド長の指揮権を停止します」
拓真がセラを振り返る。
「何を言っている」
「全員、封印事案へ移行! 討伐はしません。封印術師は地下盤、戦闘班は北壁でスケイルハウンドを導管から離してください!」
冒険者たちが動いた。
拓真の横を通り過ぎ、地下と北壁へ分かれていく。誰も拓真の指示を待たず、誰も剣を渡さない。
「待て!」
「救助班は北区画へ! 第二班は避難を続けて!」
セラはギルドへ走り、広場には拓真とエイルが残った。
山の上から、ジェネシックドラゴンの目が街を見下ろしている。
【対象指定】
【ジェネシックドラゴン】
【勝利条件――討伐】
【勝利確定】
「俺が倒す」
拓真が剣を抜いた。
エイルは正面へ立つ。
「どけ」
「回収します」
「勝利は確定している」
「あなたの勝利だけです」
拓真が踏み込み、剣を振る。
刃が白い服へ届く前に、エイルの掌が胸へ触れた。
金色の線が、拓真の全身から世界へ伸びる。
剣先からジェネシックドラゴンの喉へ。
喉から山中に埋まった胸へ。
岩盤の下にある心臓を貫いた線は、そこで幾つにも分かれた。
山の根。
北の川。
街の井戸。
王都へ続く地下魔術網。
金色の光が、すべてを一本の勝利へつないでいる。
時計塔の弓兵が構えた矢にも、スケイルハウンドに削られる魔力導管にも、地下で封印盤へ魔力を送る術師の胸にも線が走っていた。
術師の前にある支柱へ亀裂が入る。
その亀裂を通った線が、ジェネシックドラゴンの心臓へ届く。
拓真が勝つための道だった。
その先に、街の勝利はない。
「待て」
拓真がエイルの腕を掴む。
「今、取るのか。封印が落ちれば街が焼けるぞ」
エイルは、術師の胸と地脈を通る線を見た。
「この人たちが死に、山が崩れても、あなたは勝ちます」
「ジェネシックドラゴンを倒せば終わる」
「川も王都の魔術網も残りません」
「それでも、ジェネシックドラゴンは死ぬ」
「終わるのは、あなたの勝負だけです」
「俺にしか倒せない!」
エイルの指が胸へ沈む。
金色の線が、風から、石から、矢から剥がれ始めた。術師の胸と地脈を通っていた光も外れ、一本ずつ拓真の身体へ戻っていく。
「返せ!」
最後に残った文字が、拓真の前で揺れる。
【勝利確定】
「スキル、《必勝》を回収します」
勝利確定の文字がほどけ、金色の糸となってエイルの掌へ流れ込んだ。
風は拓真の横を通り過ぎた。
石畳の亀裂は、どこにも続いていない。
ジェネシックドラゴンの心臓と地脈から金色の印が消えた。
スキルを回収した。
拓真の腕が下がり、剣の重さが両手へ移った。
ジェネシックドラゴンが口を開いた。
喉の奥で、地脈から吸い上げた魔力が白く熱を持つ。胸郭は山中へ固定されている。それでも、広場まで届く熱が空気を歪めた。
残る封印杭が首を引き、ジェネシックドラゴンの顔を山側へずらす。
プロトフレアが斜面を走った。
岩が溶け、第一封印塔へ続く石段が赤く崩れ落ちる。炎は山裾で途切れたが、熱だけが北壁へ届き、兵の盾と石を焼いた。
拓真は剣を持ったまま動かなかった。
「勝てるのか」
「分かりません」
「俺は、あれより強いか」
エイルはジェネシックドラゴンと、拓真の剣を見た。
「分かりません」
「弱点は」
「見えません」
拓真は空中へ手を伸ばした。
時計塔の旗は南へ倒れている。
「俺を勝たせる風は」
指が何もない空間を掻いた。
ギルドの地下から青い光が上がり、残る五基の封印塔を結んだ。封印杭がジェネシックドラゴンの首へ沈み、片翼を山肌へ引き戻す。
北壁からセラの声が届く。
「第一封印塔の導管を確保! 交換石を地下へ!」
術師たちは地下盤へ魔力を送り、戦闘班はスケイルハウンドを導管から引き離している。
拓真の指示はない。
ギルドは止まらなかった。
「俺が行く」
拓真が北壁へ走った。
エイルは、術師の胸から消えた金色の跡を見たあと、その背を追った。
* * *
北壁の外側を、スケイルハウンドが駆け上がっていた。
四本の爪が石の継ぎ目へ入り、壁の上にある魔力導管を目指している。
セラが一体目の爪を盾で受け、隣の冒険者が前脚へ剣を入れた。負傷者が下がると、次の班が空いた場所へ入る。
「第二班、治療へ! 四班が前へ! 封印術師から離さないで!」
拓真が階段を駆け上がる。
「俺が前へ出る!」
「北東導管を守ってください!」
「俺がジェネシックドラゴンを倒す!」
「討伐はしません!」
一体のスケイルハウンドが、導管へ両手を置く封印術師へ跳んだ。
拓真は石壁を蹴り、首へ剣を振る。
金色の線はない。
刃が岩盤状の鱗へ当たり、外側へ滑った。持ち上がった腕の下へ尾が入り、拓真の身体が壁の上を転がる。
剣が手から離れ、スケイルハウンドの牙が顔へ近づいた。
横からセラの剣が顎の下へ入り、首を断った。
黒い魔力が拓真の頬へ散る。
セラが刃を引き抜いた。
「立てますか」
手は差し出さない。
「俺が仕留めるところだった」
「次が来ます」
セラは背を向け、空いた場所へ入った。
拓真は剣を拾い、石壁へ手をついて立ち上がる。周囲では班が入れ替わり、負傷者が運ばれ、空の矢筒が新しいものへ交換されていた。
封印術師は導管へ手を戻し、運搬班が青い封印石を地下への階段へ渡していく。
誰も拓真の名前を呼ばない。
「交換石、地下盤へ到着!」
「第一封印塔、再接続に入ります!」
山の斜面では、消えていた第一封印塔の根元へ青い光が戻り始めた。
ジェネシックドラゴンの頭部が岩の中へ引かれ、開いていた片翼も斜面へ沈んでいく。
自分が倒さなくても、封印は戻る。
最後のスケイルハウンドが壁から落ちると、セラは盾を別の班へ渡し、封印室へ向かった。
拓真は剣を拾った。
北壁を下りる途中で、皆が使う階段を外れる。ギルド長だけが知る保守用の扉を開き、山の下へ続く狭い階段へ入った。
エイルは、そのあとを追った。
* * *
地下の封印室では、術師たちが円形の盤を囲んでいた。
中央から六方向へ伸びる溝のうち、第一封印塔へ向かう一本だけが暗い。運ばれてきた青い封印石を、最前列の術師が欠けた受け口へ差し込んでいる。
「出力を維持してください! 接続まで十秒!」
青い光が封印石へ集まり、暗かった溝を山の方角へ進む。
セラは術師の横で、石がずれないよう両腕を添えていた。
封印盤の裏側にある扉が開く。
拓真が出てくる。
「ギルド長?」
最前列の術師が振り返った。
拓真は答えず、剣を振り下ろした。
刃が封印盤を割った。
六基へ分けられていた魔力が行き場を失い、剣を伝って逆流する。青い光が最前列の術師の胸へ入り、その身体を柱へ叩きつけた。
後頭部が石へ当たり、術師は床へ落ちた。
動かない。
第一封印塔へ伸びかけていた光が消え、五基の封印塔も一斉に明滅した。
山中でジェネシックドラゴンが身体を持ち上げる。
片翼が再び岩を破り、第二封印塔の杭が首の鱗から半分抜けた。
封印室の天井から砂と石が降る。
「閉じるな」
拓真は割れた盤から剣を抜く。
「俺が倒す」
セラが倒れた術師の首へ指を当てた。
脈を探していた指が止まる。
拓真は階段に立つエイルへ剣を向けた。
「必勝を返せ!」
「返しません」
「これを閉じたら」
拓真の呼吸が石壁へ当たる。
「俺は必要なくなる」
割れた封印盤から漏れる青い光が、倒れた術師の顔を照らしている。
セラの手が首から離れた。
「そのために、この人を?」
拓真は答えない。
「ギルドは、あなたがいなくても封印を戻していました」
「運がよかっただけだ」
「あなたがいなくても」
「俺が作ったギルドだ!」
声が石壁へ返る。
「俺が育てた。俺が救った。俺がいなければ、お前は森で死んでいた!」
「はい」
セラが立ち上がる。左頬の傷が、歯を噛む動きで引かれた。
「あなたに救われました」
「なら」
「だから、あなたが壊したものを直します」
胸の銀章を外し、倒れた術師の隣へ置いた。
「もう、ギルド長ではありません」
剣を抜く。
「黒川拓真。剣を捨ててください」
拓真がセラへ剣を向ける。
目の前に文字は出ない。
床にも、剣先にも、勝利へ続く線はない。
「スキルのせいですか」
エイルは倒れた術師を見る。
「《必勝》がある間、あなたは勝てると分かって危機を作りました」
拓真の手が剣を握り直す。
「俺だから勝った」
「今は、勝てるか分からなかった」
「それでも俺なら」
「ギルドだけで封印できることも見ました」
拓真の剣先が止まる。
「それでも、自分が必要になるように封印盤を壊しました」
セラの背後から冒険者たちが封印室へ入った。二人が拓真の腕を押さえ、もう一人が剣を奪う。
刃が床へ落ちた。
「予備盤を運べ!」
「術師を交代させろ!」
「残る五基へ出力を戻せ!」
誰も剣の音を振り返らず、割れた盤を囲む。
拓真は両腕を押さえられたまま、人が自分の横を通り過ぎるのを見た。
「俺も行く」
セラは予備の分配盤を受け取る。
「必要ありません」
「戦力が足りない」
「あなたが減らした分です」
予備盤が割れた場所へ入り、六方向の溝へ青い光が戻り始めた。
エイルの手の甲に名前が浮かぶ。
【黒川拓真】
「セラを救ったことは消えません」
拓真の動きが止まる。
「魔王を倒したことも、ギルドを作ったことも」
「なら」
エイルは、白い布を掛けられた術師へ顔を向けた。
「この人を殺したことも消えません」
* * *
最終封印が閉じたのは、夜が明ける前だった。
最後に第一封印塔の光柱が戻り、六本の青い光が山を囲んだ。
ジェネシックドラゴンの片翼が岩の中へ沈み、首と六本の角も山肌の下へ消えていく。封印杭が鱗へ戻り、山中の尾が動くたびに続いていた地鳴りも止まった。
街に歓声はなかった。
北区画では崩れた壁の下から住民が運び出され、井戸の周りには濁った水が残っている。北壁の石はプロトフレアに焼かれ、表面が黒く溶けていた。
負傷者がギルドの広間へ並び、その中央へ白い布を掛けられた術師が運び込まれた。
拓真は柱の前へ座らされ、両手と足に枷を付けられている。
セラが正面へ立った。
「街へ公表します。ドレッドウォックを放したこと。南門の岩獣。第一封印塔の接続を切ったこと。再接続を止めるため封印盤を破壊し、封印術師を殺したこと」
「ギルドが終わるぞ」
「終わらせません」
「俺の名で人が集まった」
「今度は、私たちの名前で残します」
拓真は壁を見た。
魔王討伐の絵が掛かっている。中央では拓真が剣を掲げ、その背後に仲間たちが並んでいた。絵の下にある金板には、拓真の名だけが刻まれている。
「俺を閉じ込めるのか」
「裁判へかけます」
「俺が救った人数の方が多い」
「数えません」
「比較しろ」
セラは白い布を見た。
「助けた人数が多ければ、この人を殺していいんですか」
拓真の枷が鳴った。
エイルの掌に三つの印が浮かぶ。
大地。
門。
色のない白い枠。
拓真の顔が門へ向いた。内側には、日本の夜道が映っている。転移した場所にあった店はなく、見覚えのない建物の明かりが並んでいた。
「送還しろ」
拓真が枷を引きずり、門へ身体を向ける。
「日本なら、また始められる」
「何を始めますか」
「何でもだ」
セラが拓真の枷へ手を伸ばした。
「この世界へ残してください。ギルドで監視します」
「いつまでですか」
「生きている間、ずっと」
「あなたが?」
「はい」
「セラ」
拓真の口元が上がる。
「やっぱり、お前には俺が必要だ」
セラの手が止まった。掌には乾いた血がつき、剣を握っていた場所の皮膚が裂けている。
エイルはその手を見る。
「あなたが、この人の檻になる必要はありません」
セラの指が枷から離れた。
「この人を見張るために、残りの時間を使わないでください」
拓真の笑みが消える。
「送還しろ」
門へ腕を伸ばした。
「ここの裁判からも逃げられる。お前にも都合がいいだろ」
エイルは、白い布と割れた封印盤の欠片を見た。
「スキルを失ったあと、ギルドだけで封印を戻せると知りました」
拓真の腕が止まる。
「それでも、あなたは封印盤を壊しました」
「俺が倒すためだ」
「勝てる保証は、もうありませんでした」
白い布の下から、術師の手が覗いている。
「この人を殺し、再び自分が必要になる危機を選びました」
「違う」
「《必勝》が選ばせたのではありません」
エイルの掌で、大地の印が消えた。
「力を失ったあとの、あなたが選びました」
門も閉じる。
白い枠だけが残った。内側には光も影もない。
「残留も、送還も認めません」
拓真の足が下がり、枷が床を擦る。
「何だ、それは」
「天獄です」
「牢獄か」
「苦痛を与える場所ではありません。眠りも、死も、終わりもありません」
「中に何がある」
「何もありません」
「人は」
「いません」
「敵は」
「いません」
拓真の呼吸が速くなる。
「待て。ここに残る」
セラへ顔を向けた。
「裁判を受ける。封印も直す。ギルドを立て直す」
セラは動かない。
「俺ならできる。そうだろ」
返事はなかった。
「言え!」
拓真が立ち上がろうとし、枷に足を取られて膝をついた。
エイルの掌が額へ近づく。
「何もしなくてよい場所へ送ります」
「嫌だ」
「敵を探す必要はありません」
「やめろ」
「勝つ必要も、必要とされる必要もありません」
拓真が頭を振る。
エイルの指が額へ触れた。
「黒川拓真」
白い枠が開く。
「あなたを天獄へ送ります」
拓真の身体が、色のない内側へ引かれた。
床を掴んだ爪が割れる。
「セラ!」
初めて、命令ではなく名前だけが広間へ落ちた。
「助けてくれ!」
セラは動かなかった。
「お前を助けた! 俺がいなければ、お前は――」
指が床から離れる。
「敵を寄越せ!」
顔が枠の内側へ沈む。
「何でもいい! 倒させろ!」
口が消え、声が途切れた。
白い枠が閉じる。
【黒川拓真】
【スキル回収】
【裁定完了】
【天獄】
エイルが文字へ指を伸ばす前に、表示は消えた。
* * *
朝になっても、魔王討伐の絵は広間に残っていた。
若い冒険者が梯子を抱え、セラの隣へ立つ。
「外しますか」
絵の中央では、拓真が剣を掲げている。その背後に並ぶ仲間たちの名は、どこにも刻まれていない。
「今は置いておく」
「英雄として?」
セラは絵の下にある金板を外した。
【英雄 黒川拓真】
若い冒険者へ渡す。
「後ろにいる人たちの名前を調べてください」
金板のなくなった場所には、同じ幅の空白が残った。
広間の外では、封印の修復が始まっている。焼けた梁が運ばれ、割れた石と新しい魔力導管が山の麓へ集められていた。
セラは外へ出る。
「次の石を」
石工が欠けた封印石を渡した。
二人で持ち上げ、第一封印塔へ続く荷台へ載せる。
歓声は上がらない。
誰の勝利にもならない。
石は一つずつ、元の場所へ戻されていく。




