第15話 自分の言葉
長机の中央に、二本の剣が置かれていた。
片方の柄には赤い石、もう片方には青い石が嵌め込まれている。刃は鞘へ収まっていたが、向かい合う男たちの手は腰の剣から離れていなかった。
「東岸の砦は、我が国の領土だ」
赤い外套の男が地図を叩き、指先を川の東へ置いた。
「三代前の国境協定にも、そう記されている」
「同じ協定には、砦へ常駐兵を置かないともある」
青い軍服の男が身を乗り出した。
「十二年前、そちらは砦へ兵を入れた」
「盗賊を追っただけだ」
「百二十人で?」
椅子の脚が石床を擦り、壁際の兵が剣の柄を握った。
瀬川直樹は二人の間に立っていた。
赤い外套の胸元に、白い文字が浮かんでいる。
【我が国の犠牲を認めてほしい】
青い軍服の喉元にも、別の文字があった。
【敗北ではなく、選択だったと残したい】
二人には見えていない。長机を囲む文官にも、壁際の兵にも。
直樹だけが読める。
「十二年前、東岸で亡くなった兵の多くは、赤旗の下にいました」
赤い外套の男が直樹を見る。
「その死を、盗賊討伐の一言で終わらせるべきではありません」
地図を押さえていた手が離れた。
直樹は青い軍服の男へ顔を向ける。
「砦の返還は、敗北とは記録しません。川を国境と定め、双方の商船を通す。その利益を選んだと記録します」
青い軍服の男が椅子へ背を戻し、壁際では兵の指が剣から離れた。
赤い外套の男は、机の中央に置かれた条約書を見る。
「東岸へ慰霊碑を建てる」
胸元の文字が変わった。
【両国の死者を分けないでほしい】
「碑には、両国の死者の名を刻んでください」
赤い外套の眉が動き、青い軍服の男が条約書へ指を置いた。
「港の税は」
「五年間は同率。その後、両国で再協議を」
「砦の監視兵は」
「双方から二十名ずつ。指揮権は半年ごとに交代します」
質問が出るたび、望まれている答えが白い文字になる。直樹がそれを言葉へ変えると、男たちの肩から力が抜けていった。
最後に、二人が机の剣を取った。
鞘からは抜かない。
柄を向かい合わせる。
赤と青の石が触れた。
文官が条約書を差し出し、二本の羽根ペンが署名欄を進んだ。
部屋の外で鐘が鳴る。
一度。
続いて、王都の別の塔からも音が返った。
戦争の終わりを告げる鐘だった。
兵たちが息を吐き、文官が赤と青の紐で綴じられた紙束を机へ載せた。
「慰霊碑へ刻む名簿です」
赤い外套の男が赤い紐の束へ手を置き、青い軍服の男も自国の名簿を引き寄せる。
直樹は二つの紙束を中央へ戻した。
「分けないでください。所属ではなく、亡くなった場所と名前を同じ面へ刻みます」
文官が赤い紐を解く。
「ガルド・メイエン。赤旗第三歩兵隊」
扉の前に、白い服の女が立っていた。
女は自分の手の甲を見る。
【瀬川直樹】
その下に、新しい文字は増えない。
「ロイス・アーレン。青旗河川守備隊」
二人目の名が読まれても、白い皮膚には直樹の名だけが残っていた。
女は扉脇の記録台から羽根ペンを取り、手の甲へ最初の名を書いた。
ガルド・メイエン。
最後の文字を書き終える前に、手首から青白い線が走った。
枝分かれした光が黒いインクの上だけを通る。皮膚も羽根ペンも焼かれない。
書かれた名前だけが薄れ、消えた。
鐘は鳴り続けている。
直樹の目が女で止まった。
胸元に文字はない。
「どなたですか」
「天使エイルです」
白い文字は浮かばない。
直樹は文官へ名簿の整理を任せ、隣室の扉を開けた。
「こちらで聞きます」
エイルが入る。
直樹も続き、扉を閉めた。
「なぜ、俺の名前だけが残っている」
エイルは手の甲にある文字へ触れた。
「この手が記録するのは、私の回収対象です」
「ガルドは?」
「対象ではありません」
「回収対象でなければ、記録しないのですか」
エイルは名前が消えた場所へ指を滑らせた。
「この手には残りません。書き加えた名前も拒まれました」
直樹は、隣室に残した二つの名簿へ顔を向けた。
「なら、石へ残す」
「はい」
「消されない場所へ、全員分を刻む」
直樹の胸元に文字は出なかった。
「俺を覚えていますか」
「はい」
白い空間。
仕事帰りの夜。
取引先へ余計な言葉を返し、上司から黙っていろと叱られた日。
『次の世界で、何を望みますか』
『誰も傷つけない言葉が分かればいい』
『それが願いですか』
『嫌われない言葉を知りたい』
あの日も、天使の胸元には文字がなかった。
「スキルを回収します」
直樹はエイルの顔を見る。
何を言えば考えを変えるのか、どこにも表示されない。
「今、停戦条約を結んだところです。この力で三つの戦争を止めました。王国間の交渉も、裁判も、反乱兵の投降もまとめた」
「聞いています」
「回収すれば、次の交渉で人が死ぬかもしれない」
「その可能性はあります」
「それでも取る?」
「回収します」
「あなたが与えた力です。必要だと分かっているのに」
「与えた責任があります」
エイルは直樹の胸へ伸びる藍色の糸を見る。
「回収する責任もあります」
「どちらも、あなたが決める」
「はい」
「俺が何を言っても変えないなら、聞く意味はあるのですか」
「同意を求めるためには聞いていません」
直樹の口が止まった。
「では、何のために」
「あなたが何を望んでいるかを、私が知らないままにしないためです」
扉の向こうでは、停戦を祝う声が廊下まで届いている。
直樹は言葉を探した。
誰の胸にも、答えは出ない。
「妻と話す時間をください」
「なぜですか」
「話したいからです」
誰にも求められていない言葉だった。
「分かりました」
* * *
王宮の東棟に、直樹の執務室があった。
壁には赤と青の線が引かれた二国の地図が掛かり、棚には条約書と戦場から届いた手紙が並んでいる。窓の前には、濃い茶色の髪を結び、停戦式典の正装を着た女が立っていた。
妻のリアナ。
机には二人分の杯が置かれている。
「終わったのね」
リアナの胸元へ文字が浮かんだ。
【もう誰も死なないと言ってほしい】
「ああ。もう誰も死なない」
リアナは酒瓶を持ち上げた。
「それは本当?」
文字が変わる。
【少なくとも、今日からは】
「少なくとも、今日からは」
「そう」
二つの杯へ酒を注ぎ、一つを直樹へ渡す。もう一つを持ったまま、リアナはエイルを見る。
「その人は?」
「天使エイルだ」
杯の縁に置かれた指が止まった。
「あなたへ力を与えた天使?」
「そうだ」
「取りに来たのね」
直樹はリアナの胸元を見る。
【怖がらせないで】
「心配しなくていい」
リアナの目が直樹へ戻った。
「今のは、私が聞きたかった言葉?」
白い文字は消えない。
「何の話だ」
「あなたの力」
リアナは杯を机へ戻した。
「相手が聞きたい言葉が分かるのでしょう」
「誰から聞いた」
「十六年、一緒にいるのよ」
左手の指が、右手の指輪へ触れる。
「私が泣く前には慰めた。怒る前には謝った。子供を持たないと決めた日も、私が必要としていた言葉を全部くれた」
「本心だった」
「どうして分かるの」
直樹の口が閉じる。
リアナの胸元へ、新しい文字が浮かんだ。
【一度だけ、分からないと言って】
「分からない」
リアナの唇が動く。
「今の言葉も、私が欲しかったから?」
文字は残っている。
「分からない」
二度目も、白い文字を見たまま出た。
リアナは椅子へ座った。
「今日の条約を、あなたは正しいと思ってる?」
【これ以上の流血を防ぐために必要だった】
「これ以上の流血を防ぐために必要だった」
「正しいと思ってる?」
直樹の指が杯を握る。
「同じことだ」
「違う。東岸は、どちらの国の領土だと思ってるの」
文字が出ない。
直樹は壁の地図を見る。
川。
砦。
十二年前の進軍経路。
赤と青の線。
十六年間、両国の人間が望む言葉を返してきた。砦を返せと言われれば古い協定を語り、守れと言われれば、そこで死んだ兵を語った。
「考えたことがない」
リアナが顔を上げる。
「戦争を止めることしか?」
「それが仕事だった」
「あなたが何を思うかは、仕事ではなかった?」
直樹は答えなかった。
地図の横に立つエイルへ、リアナが顔を向ける。
「回収すると、どうなりますか」
「相手が望む言葉は見えなくなります」
「今まで言った言葉は」
「残ります」
「本心だったかは?」
「私には分かりません」
リアナは直樹へ向き直った。
「あなたは?」
胸元へ白い文字が現れる。
【すべて本心だった】
直樹は文字から目を離した。
「俺にも分からない」
リアナの手が指輪から離れる。
「なら、回収されたあとに聞く」
「リアナ」
「あなたの力でしょう」
「俺の力だ」
「残したいの?」
白い文字が変わる。
【失うのが怖い】
「失うのが怖い」
直樹の声が出た。
リアナの眉が寄る。
「今のは、誰の言葉?」
直樹は胸元を見る。文字は消えていない。
エイルが一歩近づいた。
「胸に触れます」
「回収は拒否します」
「回収します」
「俺が何を言っても?」
「回収の判断は変えません。ただ、触れることは伝えます」
エイルの掌が、直樹の胸へ触れた。
白い文字が皮膚の下から浮かび上がり、床から壁へ広がった。
王。
兵士。
罪人。
母親。
子供。
敵国の使者。
リアナ。
誰かが求めた言葉が白い帯となり、直樹の胸へ集まっている。
【あなたは悪くない】
【必ず帰る】
【信じている】
【愛している】
【もう大丈夫】
【分かっている】
【あなたのためだ】
直樹が文字へ手を伸ばす。
「待て。この言葉で、人が救われた」
「はい」
「俺へ剣を向けた兵が武器を置いた。母親が死んだ子供を埋葬できた。敵国の王が停戦へ署名した」
指の間を白い文字が抜けていく。
「なら、残せ」
「回収します」
「本当の言葉なんて、何の役に立つ」
エイルの指が、白い帯の根元へ入った。
「役に立つ言葉だけが、あなたの言葉ですか」
直樹は口を開いた。
兵へ返した言葉があった。
【お前は国を守った】
子供を失った母親へ返した言葉。
【あなたのせいではない】
リアナへ返した言葉。
【愛している】
どれを口にすれば、エイルが手を止めるのか。
文字は出ない。
「俺は――」
舌が動かなかった。
王へ忠誠を求められたときの言葉も、兵へ勇気を求められたときの言葉も思い出せる。そのどれにも、直樹自身の顔はなかった。
胸へ手を当てる。
鼓動だけが掌へ返った。
「俺は、これを……」
残したいのか。
失いたくないだけなのか。
人を救うためなのか。
必要とされなくなるのが怖いのか。
直樹はエイルからリアナへ顔を動かした。二人の胸元には何もない。
答えを置く者はいなかった。
「分からない」
声が喉に引っかかった。
息を吸い直す。
「自分が何を言いたいのか、分からない」
白い文字のない声が、部屋へ残った。
「スキル、《代弁》を回収します」
白い帯が直樹の胸から剥がれ、壁を埋めていた文字が崩れてエイルの掌へ流れ込む。
王の言葉。
兵士の言葉。
リアナの言葉。
最後の一文字が色を失った。
スキルを回収した。
リアナが直樹を見る。
「今、何を考えてる?」
直樹は彼女の目と、机へ置かれた指と、息をするたびに動く唇を見る。
どこにも文字はない。
「怖い」
「何が」
「お前が何を聞きたいのか、分からない」
「聞きたいことは言った」
「正しい答えが分からない」
リアナは机の縁へ指を置いた。
「私を愛してる?」
十六年間、何度も答えた言葉だった。
熱を出した夜。
喧嘩のあと。
指輪を渡した日。
どのときも、白い文字があった。
今はない。
「分からない」
リアナの指が机の縁を押す。
「そう」
「お前は」
直樹は息を吸った。
「俺を愛してる?」
窓の外で、停戦を祝う鐘が鳴っている。
「私も、分からない」
「怒らないのか」
「怒ってる」
「何に」
「今まで、私に考えさせなかったことに」
「選んだのは、お前だ」
「あなたが選びやすい言葉を全部置いた」
リアナは指輪を外さず、右手で覆った。
「私も、それを選び続けた」
「これからは」
「今日は決めない」
「夫婦を続けるかも?」
「決めない」
直樹は返す言葉を探した。喉の奥には何も上がってこない。
「待てばいいのか」
「それも、自分で考えて」
リアナは椅子から立ち、扉へ向かう。
「あなたの言葉を探すなら、私が隣にいると、また私の顔を見るでしょう」
「出ていけということか」
「そう聞こえた?」
「分からない」
「私も、まだ分からない」
扉へ手が掛かる。
「リアナ」
足が止まった。
「今日の条約は、必要だったと思う」
「正しかった?」
直樹は壁の地図を見る。
「分からない」
「その答えは嫌い」
「ああ」
「でも、今のはあなたの言葉に聞こえた」
扉が閉じた。
* * *
夜。
王宮の庭には祝宴の灯りが並び、赤い旗と青い旗が同じ柱へ結ばれていた。
直樹は人のいない回廊の端に座っている。杯も料理も持っていない。
エイルの掌に、二つの印が浮かんだ。
大地。
門。
門の向こうには、夜の街がある。高い硝子の建物の入口には、直樹が知らない社名が掲げられ、壁の表示には転移した年から十六年後の日付が出ていた。
「裁定を行います」
直樹は門を見る。
「向こうでも、十六年が過ぎたのか」
「はい」
「身体は」
「今のままです。記憶も残ります」
「ここに残れば」
「スキルを失った状態で、この世界に残ります」
「外交官を続けられると思いますか」
「分かりません」
「リアナとは」
「二人が決めます」
直樹は門へ近づいた。硝子の扉を、知らない制服の男が通り過ぎる。
十六年前にいた会社は、もう見えない。
「向こうへ戻れば、ここで何をしたか知る者はいない。三つの戦争を止めたことも、リアナへ言葉を返し続けたことも」
「はい」
「逃げることになる?」
「その可能性はあります」
「否定しないんだな」
「しません」
直樹は庭の向こうにある東棟を見る。リアナの部屋には灯りがついていた。
「ここに残れば、王も兵も、また俺へ答えを求める」
「はい」
「スキルがなくても、十六年間の癖は残る。顔を見て、欲しい言葉を探すと思う」
「はい」
「向こうへ戻っても、同じことをするかもしれない」
直樹の指が門の光へ入る。
「帰れば変われるとは思っていない。それでも、俺が王国の舌ではない場所で、自分の言葉を探したい」
東棟の扉が開いた。
リアナが灰色の上着を羽織って庭へ出てくる。直樹の前で足を止めると、エイルの掌に浮かぶ二つの印を見た。
「これは、直樹だけの選択なの?」
「はい」
「私には?」
エイルは反対の掌をリアナへ向けた。
何も浮かばない。
大地も、門も、色のない枠も現れなかった。
「あなたへ出せる印はありません」
「私も向こうへ行くことは?」
「できません」
「直樹をここへ残すことも?」
「あなたが決める裁定ではありません」
リアナの指が、右手の指輪を覆った。
「十六年一緒にいても?」
「裁定対象は、瀬川直樹です」
「天使の記録には、私の十六年は入らないのね」
エイルは名前の消えた手の甲を見る。
「印には残りません」
「あなたには?」
青白い線が消した場所へ、エイルの指が触れた。
「覚えます」
リアナは直樹へ顔を向ける。
「帰るの?」
「ああ」
「私から逃げるため?」
「それもある」
「ここに残ってほしいか、聞かないの」
「聞けば、その答えに従おうとする」
「私が残ってと言っても?」
「帰る」
「なら、聞いても同じでしょう」
「同じでも、今は聞かない。これは俺が決めることだから」
リアナは直樹を見る。
「十六年は?」
「なくならない」
「私を愛していたかは?」
「今は分からない」
「これから分かる?」
「分からない」
リアナの口元が下がる。
「嫌な言葉ばかり」
「ああ」
「でも、あなたが言ってる」
「ああ」
リアナは指輪を外さなかった。
「私は、あなたに残ってほしいのか、帰ってほしいのかも分からない」
「分かった」
「分かってないでしょう」
「そうだな」
直樹は門へ向き直る。
「リアナ」
「何」
「俺は帰る」
「聞いた」
「君が何を望んでいるかは、分からないまま帰る」
「そう」
「それでも、十六年をなかったことにはしない」
リアナは答えなかった。
直樹も、答えを引き出す言葉を探さない。
エイルが門へ手を触れた。
「この世界への残留を望みますか」
「いいえ」
「元の世界への送還を望みますか」
「望みます」
「送還を受理します」
大地の印が消え、門の光が広がった。
【瀬川直樹】
【スキル回収】
【裁定完了】
【送還】
直樹は腰の剣帯を外し、鞘ごと回廊の石床へ置いた。
一度だけ振り返る。
リアナは庭に立っていた。
直樹はその表情から答えを探さず、門の中へ入った。
* * *
夜の風が頬へ当たった。
直樹は硝子の建物の前に立っている。
王宮の石床ではない。
足元には白い線の引かれた歩道があり、車が走り去り、信号機から音が鳴っていた。
建物の入口には知らない会社名があり、その下に十六年後の日付が表示されている。
自動扉から出てきた警備員が足を止めた。
「大丈夫ですか」
直樹は王宮の式典用に仕立てた上着と革靴を見る。
「分かりません」
「具合が悪い?」
「それも、分かりません」
警備員が近づく。
「座れますか」
「はい」
建物脇の石へ腰を下ろすと、警備員は無線を取り出した。
「救急車を呼びます」
断る言葉も、受け入れるべき言葉も浮かばない。
「お願いします」
* * *
病室の壁には、現在の日付が表示されていた。
何度見ても、十六年が過ぎている。
検査を終えた医師が端末を閉じた。
「身体に大きな異常はありません。今夜は経過を見ます」
医師が出たあと、警察官が病室へ入ってきた。手には十六年前の写真がある。
「瀬川直樹さんと同じ氏名、生年月日の行方不明者届が、十六年前に出されています」
写真の中では、若い直樹が会社の名札をつけていた。
「この十六年間、どこにいたか話せますか」
王宮。
戦場。
停戦の鐘。
リアナ。
「今は、話せません」
「話したくないということですか」
「どう話せばいいか、分かりません」
警察官は写真を伏せた。
「分かりました。今日は休んでください」
翌朝、同じ警察官が病室へ来た。
机の上へ録音機を置き、十六年前の写真をその隣へ並べる。
「昨日は、話せないとのことでした」
「はい」
「今日は話せますか」
直樹は写真を見た。
会社の名札をつけた自分。
その先にあるはずの十六年は、一枚も残っていない。
「話します」
警察官の指が録音機の上で止まった。
「無理に話す必要はありません」
「信じてもらえる内容ではありません」
「それでも、記録しますか」
直樹は病室の窓を見る。道路を走る車も、向かいの建物も、十六年前とは違っていた。
「記録してください」
録音機に赤い灯りがつく。
「では、瀬川さん。失踪した夜から、どこにいたのですか」
相手が納得する答えは分からない。
記憶喪失と言えば、話は早く終わるかもしれない。誘拐されたと言えば、捜査はその形へ進む。
どちらも、直樹の言葉ではなかった。
「別の世界にいました」
警察官のペンが止まった。
「別の世界、ですか」
「はい」
「それを、事実として話している?」
「はい」
警察官は直樹の顔を見る。何を求めているのかは文字にならない。
「信じてもらえるとは思っていません」
直樹は写真へ指を置いた。
「それでも、俺がいた十六年を、なかったことにはしません」
警察官は録音を止めなかった。
録音機の赤い灯りは、消えなかった。




