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スキルを失ったあとに。  作者: カミツキ
第一章 裁定の内側

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第16話 もう一日

鶏が鳴いた。


 一度。


 二度目の声が出る前に、井戸の横で桶が倒れた。少年が腕を伸ばしたが、指先が届く前に縁が土へ当たり、水が足元へ広がる。


「また間に合わなかった」


 少年が桶を起こす。通りの向こうでは焦げた匂いが流れ、パン屋の女が窓を押し開けた。


「焦げた!」


 山の斜面には細長い雲が掛かっていた。東端は岩へ触れ、西端は一本の杉を覆っている。風が梢を揺らしても、雲の形は変わらない。


 村の入口に立つ木札には、同じ日付が刻まれていた。


【王暦二百三十一年 桜月十三日】


「七百二十九日目」


 桶を抱えた少年が、エイルの背後に立っている。


「何がですか」

「同じ朝」


 少年は漆喰の壁へ後頭部をつけ、手にした炭で髪の上へ線を引いた。古い線と重なる。


「毎日、測っていますか」

「朝になると消える。でも、今日は伸びてるかもしれないから」


 壁に残った線は一本だけだった。


 エイルの足元から伸びた藍色の糸は、村の奥へ真っ直ぐ進まなかった。


 井戸の石組みへ沈み、水面の下から村の水路へ枝分かれする。一本は橋脚(きょうきゃく)の亀裂を通り、一本は畑の土へ潜り、別の一本は斜面から崩れた土砂の中へ消えていた。


 離れた糸は村の中央で重なり、半分埋まった石造りの家へ入っている。


 傾いた屋根の(はり)が、残った壁へ引っかかっていた。


 その下に、十二歳ほどの少女がいる。腰から下を石と木材に挟まれ、脇腹には開いた傷があった。血は赤いまま、傷口から流れ出る手前で止まっている。


「おはよう、ミア」


 白い衣を着た女が、少女の額へ濡らした布を置いた。淡い金髪の下、首元には王国聖堂の印を削り取った痕が残っている。


「おはよう、聖女様」

「痛みは」

「昨日と同じ」


 女の指が、脇腹を覆う布へ触れた。


「今日も始めます」


 崩れた家の周囲には、村人が集まっていた。梁を支える者、縄を握る者、石を運ぶ者。床には、消した線と書き足した線が重なる配置図が広げられている。


「三番の縄を先に引きます。梁が二寸落ちたら、北側へ支柱を入れてください」

「昨日は三寸だった」


 縄を持つ男が結び目を締め直した。


「三寸なら、腰の石を抜きやすい」

「そのとき、ミアの脚へ重さが掛かりました」

「一瞬だ」

 梁の下で、ミアの指が敷布を掴む。

「二寸にします」


 男は縄へ顔を戻した。


 井戸、橋、畑、土砂を通った藍色の糸が、白い衣の女の胸へ入っている。


小森千紗(こもりちさ)


 女が振り返った。


「その名前は、もう使っていません」

「何と呼べばよいですか」

「セレステ・ラウル」

「セレステ・ラウル。スキルを回収します」


 縄を握る手が止まり、梁の下でミアが瞬きをした。


「来てくださったのですね」


「はい」


 セレステは額の布を畳んだ。


「回収してください」


 村人たちが一斉に振り返る。


「聖女様」

「今、取られたら村が」

「橋も落ちるぞ」


 セレステは声の方を見なかった。


「終わらせるために、待っていました」


 エイルが手を伸ばす。


「明日の朝まで待ってください」


 指が止まった。


 セレステは配置図を持ち上げる。


「今日一日で、最後の確認をします。昨日、北側の石が割れました。支柱の位置を変えれば、ミアの脚に掛かる重さを減らせます」


「七百二十八回、確認しています」

「昨日までは、昨日の問題を知りませんでした」

「明日には、今日見つからなかった問題が出ます」


 図面を持つ指が紙の端へ食い込む。


「それでも、明日は解除します」


 梁の下から声が届いた。


「明日?」


 セレステが膝をつく。


「明日の朝です」


 ミアは天井を見る。七百二十九回、朝ごとに戻ってきた木目だった。


「分かった」


 敷布を握る爪の下から血が滲んでいる。


 エイルはその指を見た。


 ミアには尋ねなかった。


「一日、待ちます」


 村人の間から息が漏れた。


* * *


 三番の縄が張り、梁が二寸落ちた。


 ミアの顔が歪む。


「止めて」


 セレステが手を上げた。


 梁が止まった。


 支柱へ落ちかけた石も、布から流れ出しかけた血も、縄を引く村人の腕も動かない。


 セレステだけが止まった村を歩き、支柱の位置をずらした。縄の結び目を一つ下へ移し、ミアの脚と石の間へ薄い板を差し込む。


「再開します」


 時間が動いた。


 石が支柱へ当たり、梁は二寸の位置で止まる。


「腰の石を」


 父親が手を差し込む。


 石は動かなかった。


「角度が足りない」

「南側の板を外します」

「壁が落ちるぞ」


 セレステは配置図へ新しい線を引いた。


 夜が終われば、梁も支柱も縄も、人の立つ位置も朝へ戻る。


 図面から消した線も戻る。


 残るのは、セレステと村人たちの記憶だけだった。


 昼を過ぎると、村人が一人ずつセレステの家を訪れた。


 最初の女は、大きな腹を両手で支えている。七百二十九回の朝を迎えても、腹の形は変わっていなかった。


「明日、本当に解除するのですか」

「はい」


「この子が生まれます。産婆は、難しいお産になると言いました」


 女の手が腹を撫でる。


「もう一日あれば、呼吸の練習ができます」


 次に来た老人は、妻を背負っていた。妻の胸が一度持ち上がり、次の呼吸まで長く空く。


「解除すれば、夜までは持たん」

「はい」

「孫が村へ向かっとる。停滞を解けば、昼には着く」


 老人は妻の膝を抱き直した。


「最後に顔を見せたい。もう一日だけ持たせてくれ」


 三人目はミアの父親だった。肩へ救助用の縄を掛けている。


「北側の支柱を増やしたい」

「朝には元へ戻ります」

「位置は覚えられる」

「今日も覚えました」

「まだ足りない」

 父親は崩れた家を見る。

「失敗すれば、あの子が死ぬ」

「成功しても、右脚は残せない可能性があります」

「分かってる。だから、あと一日だ」


 セレステは机の上の配置図を見た。


 部屋の隅にいるエイルへ、誰も顔を向けなかった。


 夕方、机には三枚の紙が並んだ。


 出産の手順。


 老人の妻へ与える薬。


 ミアの救助配置。


「解除すれば、すべてが同時に動き出します」

「はい」

「私は時間を止めることしかできません。傷も、出産も、死も止められても、その先を変える力はない」

「はい」


 セレステの爪が紙の端を削る。


「一日あれば、もう一度練習できます」

「今日も練習しました」

「足りませんでした」

「明日も足りないものが見つかります」

「それでも、今日よりは」


 窓の外では、朝に炭の線を引いた少年が、もう一度壁へ頭をつけていた。


 線はまだ消えていない。


「あなたが待つと言ったから」


 セレステの指が止まる。


「もう一日、頼めると思いました」


 エイルは答えなかった。


* * *


 夜。


 村の灯りが一つずつ消え、崩れた家には油灯だけが残っていた。


 ミアは梁の下で目を開けている。父親は入口の壁へ寄りかかり、縄を握ったまま眠っていた。


 エイルは少女の横へ腰を下ろした。


「眠れませんか」

「眠ったら、朝になるから」

「朝になってほしくありませんか」


 ミアの目が、梁の木目を追う。


「朝になったら、またここにいる」

「明日は回収します」

「聖女様も、そう言ってた」

「はい」

「お父さんは、もう一日って言ってた」


 ミアの指が敷布を握る。


「エイルは、どっち?」

「明日、回収します」

「今日もできた?」

「はい」

「どうしてしなかったの」

「準備の時間が必要だと判断しました」


 ミアは梁からエイルへ目を動かした。


「私も、必要って言わないと駄目だと思った」

「誰に」

「みんなに」


 油灯の芯が音を立てる。


「みんな、私を助けるためにやってる。痛いって言ったら、お父さんが急ぐ。急いだら、失敗する」

「だから、待てると答えましたか」

「うん」


 敷布が指の中で捩れる。


「本当は?」


 ミアの唇が閉じた。


 止まった血は、傷口に赤い色だけを残している。


「もう、待ちたくない」


 声が梁の下へ残った。


「今日も痛かった。寝ても、朝になったら同じところから始まる」


 父親は目を覚まさない。


「脚がなくなってもいい」


 ミアは天井を見た。


「死んでもいいから、朝へ戻りたくない」


 エイルは少女の傷を見る。


「今日、私はミアへ尋ねませんでした」

「うん」

「待つと決めたのは私です」

「うん」


「明日の朝、回収します」


「戻る前にはできない?」


 エイルは眠る父親と、家の外に並ぶ灯りを見る。


 井戸、橋、畑、土砂を通る糸は、村全体を同じ朝へ結びつけている。


「今解除すれば、準備のできていない人がいます」


「そっか」

「はい」

「じゃあ、朝まで待つ」


 ミアは目を閉じなかった。


 エイルも、その場を離れなかった。


* * *


 鶏が鳴いた。


 一度。


 油灯が消えた。


 父親は家の入口に立ち、縄は壁へ戻っている。支柱も図面も昨日の朝の位置にあり、ミアの手から敷布が消えて脇腹の横へ戻った。


 井戸の横で桶が倒れる。


 少年の指は届かない。


 パン屋の窓から、焦げた匂いが流れる。


 同じ雲が、山の同じ場所へ掛かっていた。


 セレステが広場へ出ると、村人たちが待っていた。


 腹の大きな女。

 妻を背負った老人。

 縄を持ったミアの父親。


「今日で最後にします」

「孫が昼には着く」

「もう一日あれば」


 声が重なる。


 セレステはエイルを見る。


「昨日より準備はできています」

「はい」

「今日一日あれば、さらに進められます」

「明日は、今日より準備できます」

 セレステの唇が閉じる。

「俺たちは望んでいる」

「誰も村を出たいとは言っていない」

「この村は救われている」

「聖女様を連れていくな」


 エイルは崩れた家へ向かった。

 村人たちも続く。


 ミアは同じ梁の下にいた。


「おはよう、聖女様」


 セレステの足が止まる。


「ミア」

「今日、終わる?」


 父親が娘へ近づいた。


「もう一日だけだ。今日、最後の練習をすれば」

「嫌」


 父親の足が止まる。


「失敗したら、お前が死ぬんだぞ」

「ずっと痛い」

「助けるためだ」

「もう朝に戻りたくない」


 ミアの指が床を擦る。


「脚がなくなってもいい。死んでもいい。ここにいるより、終わってほしい」


 父親の手から縄が落ちた。


 セレステが膝をつく。


「昨日、言えなかったのですか」


「聖女様が待つって言ったから、私も待つって言わないといけないと思った」


 セレステの手が床へ落ちた。


 村人の声が消える。


「私が頼みました」


 セレステがエイルへ顔を向ける。


「はい」

「この子へ、もう一日待たせたのは私です」

「待つと決めたのは私です」


 エイルは手の甲にあるセレステの名を見る。


「昨日、私はミアへ尋ねませんでした」

「天使様」


 父親が前へ出た。


「まだ間に合う。今日一日だけあれば」


 エイルはミアを見る。


「回収します」


「村の全員が望んでいる!」


「ミアは望んでいません」

「子供だ。怖くなっているだけだ」


「はい」

「なら、落ち着くまで待てるだろう」


 エイルは梁の下にいるミアを見た。


「昨日、私はミアへ尋ねず、皆さんの準備を選びました」


 父親の手が縄を握り直す。


「準備は必要だった」


「その一日を、ミアへ返すことはできません」


「今日なら助けられる!」


「今日、ミアは終わらせると答えました」


 エイルはセレステへ手を伸ばす。


「その答えを、もう他の誰かのために後ろへ置きません」


「胸に触れます」


 セレステは逃げなかった。


「回収してください」


 父親がエイルの腕を掴む。白い袖が引かれ、靴が土の上を滑った。


「離してください」


「娘が死ぬ!」


「お父さん」


 梁の下からミアが呼ぶ。


 父親の指が止まった。


「もう、いいよ」


 腕が離れた。


 エイルは袖を直さず、セレステの胸へ掌を置く。


 藍色の糸が村中で浮かび上がった。


 井戸の水から一本。


 橋脚の亀裂から一本。


 畑の土と、埋まった家と、斜面の奥からも細い糸が現れる。


 家。


 橋。


 畑。


 空中に止まった砂粒。


 傷口から流れ出せない血。


 母親の腹の中で、次の動きを待つ赤子。


 老人の妻の肺。


 土の中で割れかけた種。


 すべての糸が、セレステの胸へ集まっていた。


「待って」


 腹の大きな女が腹を抱く。


「まだ心の準備が」


 老人が妻を背負い直す。


「孫が来ていない」


 ミアの父親が縄を拾う。


「支柱を入れてからにしてくれ」


 セレステの指が、胸へ集まる糸へ伸びた。


「もう一日なら」


 エイルは掌を離さなかった。


「昨日、私は一日待つと決めました」


 井戸から伸びた糸が、セレステの胸から抜ける。


「そのため、ミアは一日長く梁の下にいました」


「私が頼んだからです」


「決めたのは私です」


 橋から伸びた糸が抜け、石の亀裂に水が入り込んだ。


 三本目。


 四本目。


 畑の土が膨らみ、止まっていた種殻へ亀裂が走る。


「スキル、《停滞(ステイシス)》を回収します」


 最後の糸が、エイルの掌へ入った。


 村を覆っていた朝が剥がれた。


 梁が落ちる。


「縄を引け!」


 父親が三番の縄を掴み、村人たちが続いた。


 梁が二寸落ちる。


「北の支柱!」


 板が差し込まれ、石が割れた。


 ミアの脇腹から血が流れ出す。


 セレステが布を押し当てた。


「腰の石を先に!」


「動かない!」


「南側を外せ!」


 橋の方角から木の折れる音が響き、川へ何かが落ちた。


 腹の大きな女が膝をつく。


「来た」


 産婆が駆け寄る。


 縄を引いていた男が振り返った。


「行ってください」


 エイルが男の位置へ入り、縄を握る。


 麻縄が掌へ食い込んだ。


「天使様、離すな!」


「はい」


 父親と並んで引く。靴が土を削り、掌の皮が裂けて縄へ赤い色がついた。


「支柱が入った!」


「石を抜け!」


 村人たちがミアの腰へ手を伸ばす。


 老人の背で、妻の呼吸が崩れた。


 一度。


 二度。


 次の息が来ない。


「起きろ」


 老人が妻の頬を叩く。


「孫が来る。今日、来るんだ」


 セレステは振り返らなかった。ミアの傷を押さえる両手へ血が広がっていく。


「聖女様」


 ミアがセレステを見る。


「ここにいて」


「います」


 治癒の光は出ない。


 布を押さえる指だけが残った。


「今だ!」


 梁が持ち上がる。


 村人たちがミアの身体を引き出した。右脚は膝から下が潰れていたが、少女の身体は梁の外へ出た。


 空の見える場所へ運ばれる。


 山に掛かっていた雲の端が、風に削られていた。


「動いた」


 ミアの唇が開く。


 雲は杉から離れ、形を変えながら山の向こうへ流れていった。


* * *


 夕方、村に赤子の泣き声が響いた。


 産婆が血のついた布を家から運び出す。母親は生きていた。


 老人の妻は昼を待たずに息を引き取り、孫が村へ着いたとき、その身体には白い布が掛けられていた。


 橋は半分が川へ落ち、斜面では家が一軒、土砂へ沈んだ。


 ミアの右脚は残せなかった。


 寝台の横には父親が座り、少女の胸は上下している。


 村の壁では、少年が朝の線へ頭をつけていた。髪の先が、炭の線より上へ出ている。


 少年はその上へ新しい線を引いた。


 古い線とは重ならなかった。


 セレステは井戸で手を洗っていた。爪の間から赤い色が落ちる。


 向かいでは、エイルが裂けた掌を水へ浸している。


「昨日、回収していれば、ミアは一日早く梁の外へ出られました」


「はい」


「老人の奥様も一日早く亡くなり、赤子も一日早く生まれていた」


 セレステは爪の間に残った血を見る。


「待ったことは、間違いだったのですか」


「分かりません」


「では、何が間違っていたのですか」


「ミアへ尋ねずに決めたことです」


 セレステの指から水が落ちた。


「私は、村のためだと思っていました。ミアのためだと」


「はい」


「聞けば、終わらせなければならなかった」


 セレステは井戸の縁へ両手を置く。


「私は、聞きたくなかった」


 エイルの手の甲が熱を持つ。


【セレステ・ラウル】


 名前の下へ、二つの印が浮かんだ。


 大地。


 輪。


「裁定を行います」


 セレステは輪を見る。光の中に、顔のない赤子がいた。


「再転生すれば、忘れますか」


「はい」


「妹のことも。この村も。ミアも」


「すべて忘れます」


 白い病室が、井戸の向こうへ重なる。


 前世の妹が、細い腕を布団の上へ出していた。呼吸器の音とともに、表示された数字が一つずつ下がっていく。


『治らなくてもいい』


 千紗は妹の手を握った。


『これ以上、悪くならないで』


 機械音が一本になった。


「忘れれば、また同じことをしますか」


「分かりません」


「残れば、ここで償えますか」


「分かりません」


「村へ残るべきですか」


「それも、私には決められません」


 セレステの口元が動いた。


「本当に、何も選んでくれないのですね」


「はい」


 村人たちが井戸の周囲へ集まっていた。


「聖女様は残るんだろう」


「橋を直すまで」


「子供たちの病気はどうする」


「今度は、止める以外の方法を探してくれ」


「スキルは回収しました」


 エイルの声で、村人たちの口が閉じる。


 セレステは大地の印を見る。


「残ります」


「この村に?」


「いいえ」


 人の間から声が上がった。


「見捨てるのか」


 白い布を抱いた老人が前へ出る。


「妻が死んだばかりだ。お前が止めたから、二年も孫に会えなかった。それでも出ていくのか」


「手当てと引き継ぎが終わるまでは、ここにいます」


「そのあとを聞いている」


「村を出ます」


「見捨てるのか」


 白い布を抱いた老人が、セレステとの間を詰めた。


「お前が時間を動かしたから、婆さんは死んだ」


 布の下で、妻の腕が老人の身体へ当たる。


「止めたのも、動かしたのもお前だ。二年も孫に会わせず、会えないまま死なせた」


「はい」


「何が、はいだ!」


 老人の手がセレステの白い衣を掴んだ。


「もう一度止めろ。孫が来る朝まで戻せ」


「できません」


「二年も聖女と呼ばれて、今さらできないで済むか!」


 ミアの父親が縄を地面へ投げた。


「脚を元へ戻してから行け」


「戻せません」


「なら、ここに残れ。あの子が歩ける方法を探せ!」


「探します」


「ここで探せ!」


 腹に布を巻いた女が、戸口から声を出した。腕には、生まれたばかりの赤子がいる。


「私は、あなたがいなければ死んでいたかもしれない」


 赤子の口が開き、小さな声が布の中から漏れた。


「だから行かないで。今度は止めなくていい。そばにいるだけでいいから」


 セレステは女と赤子を見る。


「そばにいれば、次に何かが起きたとき、皆さんは私へ答えを求めます」


「求めて何が悪い!」


「悪くありません」


 老人に掴まれた衣が、首元から引かれている。


「私も、また答えようとします」


「なら答えろ!」


「相手へ尋ねる前に、助ける方法を決めます」


 老人の指が布へ食い込む。


「それでも残れ」


「残りません」


「見捨てるのか」


「はい」


 セレステは老人の顔を見る。


「皆さんがそう呼ぶなら、私は皆さんを見捨てます」


 村人の間から罵声と息を呑む音が重なった。


「手当てと引き継ぎはします。橋を渡る縄も張ります。ミアの傷が塞がるまでは、布を替えます」


「そのあと逃げるのか」


「はい」


 セレステは、掴まれた白い衣へ自分の手を重ねた。


「私は聖女ではありません。セレステ・ラウルです」


 老人の手が衣から離れる。


「皆さんの明日を止める人には、戻りません」


「この世界への残留を望みますか」


「はい」


「残留を受理します」


 輪が消え、大地の光がセレステの足元へ沈んだ。


【セレステ・ラウル】

【スキル回収】

【裁定完了】

【残留】


 表示が消える。


 村の時計が、二年ぶりに夕刻の鐘を鳴らした。


* * *


 七日後。


 村から続く道を、セレステとエイルが歩いていた。


 セレステの背には小さな鞄がある。聖女の白い衣ではなく、茶色の上着と革の靴を身につけていた。


 道の分かれ目で足を止める。


「私は東へ行きます」


「はい」


「診療所で、働く人を募集しているそうです」


「治癒のスキルはありません」


「知っています」


 セレステは自分の手を見る。


「布を押さえることはできます。湯も運べます」


 村から続く泥の筋が、道端で途切れていた。


 その端から細い芽が出ている。割れた種殻が根元に残り、二枚の葉のうち、片方の先は茶色くなっていた。


 セレステがしゃがむ。


「育ちますか」


 エイルは芽を見る。


 根は土の中にある。


 雲は流れている。


 明日の形は見えない。


「分かりません」


 セレステが立ち上がりかける。


「水は必要です」


 足が止まった。


 鞄から水筒を出し、芽の根元へ傾ける。


 細い水が乾いた土へ落ちた。


 水を吸った土が、色を変えた。

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