第94話 ここは、人のために作られていない
六つ目の結晶を据えると、滲んでいた像が、ほんの少しだけ晴れた。
レインは、目の前に立ち上がった壁の輪郭を、しばらく言葉もなく見ていた。
通路ではなかった。少なくとも、人が歩くための通路ではなかった。
壁には、太い管が何本も埋め込まれていた。腕で抱えても届かないほどの太さの管が、床から天井へ、天井からまた床へと、規則正しく折り返している。管と管の間には、炉のような窪みがいくつも並び、その縁が、長い年月で黒く焼けていた。
「なんだ、これ」とドルクが、低く言った。
「坑道でも、訓練場でもねえ。俺は鉱山も見てきたが、こんな造りは見たことがねえ」
『管です』とセレスが言った。『太い管が、この区画をぐるりと一周しています。そして、ところどころで炉のような窪みに繋がっている。像はまだ滲んでいますが、これは……何かを通すための構造です』
「何かを通す」とレインは繰り返した。
「水か」
『水とは限りません』とセレスが言った。『魔力かもしれません。あるいは、その両方かもしれません。ただ、はっきり言えることが一つあります。この管は、人が通るためのものではありません。人より細い場所もあれば、人では入れない熱を持っていた跡もあります』
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ミストが、堪えきれずに前へ出た。
『すごい』と彼は、ほとんど叫ぶように言った。
「ミスト」とレインは呼んだ。
「縄から離れるな。一度に一人だ」
『あ……すみません』とミストは足を止めたが、声の興奮は収まらなかった。『でも、レインさん、見てください。この管の折り返し方。無駄がない。冷ますためと、温めるためで、通り道を分けてある。これ、設計です。誰かが、ちゃんと考えて組んだものです』
「設計」とレインは、その言葉を口の中で転がした。
ミストの言う通りだった。崩れた瓦礫の山ではない。朽ちてはいるが、組み方には筋が通っている。何かを冷まし、何かを温め、ぐるりと回して、また戻す。
レインは、自分が毎日やっていることと、それが妙に似ていることに気づいた。
「これは」と彼は、ゆっくり言った。
「冒険者のために作られた場所じゃない」
『……というと』とノアが聞いた。
「訓練層は、初心者が死なないように作られていた。資源層は、採集導線のために整えた。どっちも、人が入って、何かを持って帰るための場所だ」とレインは言った。
「だが、ここは違う。ここは――人に何かをさせる場所じゃない。何かを保守して、回しておくための場所だ。人が使う側じゃなくて、人が、この仕組みを世話する側に回る場所だ」
誰も、すぐには答えなかった。
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ドルクが、管の一本に手を当てて、すぐに引いた。
「かすかに、震えてる」と彼は言った。
「壊れて止まってるんじゃねえ。まだ、生きてやがる。弱々しくだが、何かが、この管の中を流れてる」
『私も検知しています』とセレスが言った。『微弱な脈動です。一定の間隔で、強くなって、弱くなる。心臓の鼓動に、少し似ています』
レインは、その脈動の間隔を、セレスに記録させた。そして、ふと思いついて、別のものと並べさせた。
「セレス。上の層で、ずっと続いてた異常な。入口が狂ったり、水脈が変な音を立てたりしてた、あの周期と――この脈動の周期を、重ねてみてください」
しばらく、間があった。
『……重なります』とセレスが、声を落として言った。『完全に、とは言えません。精度が低いので。ですが、上層の異常が強くなる周期と、この管の脈動が強くなる周期は、ほぼ同じです』
「同じ」とレインは言った。
「つまり、上で起きてたことの大元が」
『この区画の、さらに奥にある可能性が、高いです』とセレスは言った。
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ミストの目が、奥の暗がりへ吸い寄せられた。
『行きましょう』と彼は言った。『源が近いなら、もう少しで――』
『推奨しません』とノアが、間を置かずに被せた。
『用途の分からない機構に、これ以上近づくのは危険です。この管が何を通しているのか、触れたら何が起きるのか、私たちは何も知りません。知らないものには、触れない。それが、止まる条件です』
『でも、ここまで来て止まったら、源が分からないままです』とミストが食い下がった。『分からないままにしておく方が、よっぽど危ない』
『分かろうとして壊すのは、もっと危ない』とノアが返した。
二人の声が、霧の中でぶつかった。どちらも、間違ってはいなかった。レインは、片方を黙らせる気にはなれなかった。
「両方、正しい」と彼は言った。
「ミストの言う通り、源を放っておけない。ノアの言う通り、用途の分からない機構に手を突っ込むのも駄目だ。だから――今日は、触らない。見るだけにする」
『見るだけ、ですか』とミストが、不満そうに言った。
「触れば直せる、というのが、俺のいつものやり方だ」とレインは言った。
「だが、ここでは、その手が通じる気がしない。直す前に、まずこれが何なのかを、ちゃんと知らないといけない。順番を間違えると、たぶん、取り返しがつかない」
レインは、触れる代わりに、見えるものを片端から記録させた。
「セレス。管の太さ、折り返しの数、炉の窪みの位置。読めるものは、全部、図にしておいてください」と彼は言った。
「ミストは、その図に、気づいたことを書き足してくれ。どこが冷ますための道で、どこが温めるための道か。お前の見立てでいい」
『……それなら、やります』とミストが、少しだけ機嫌を直した声で言った。『触らなくても、見れば分かることは、まだたくさんあります』
「それでいい」とレインは言った。
「触らずに分かることを、先に全部、集める。手を出すのは、それからだ」
ガルムが、縄の結び目に、布の切れ端を一つ結びつけた。
「ここまで来た、っていう印だ」と彼は言った。
「次に来るときは、この布までは、もう調べ終わってる場所だ。同じところを、二度、おっかなびっくり進まずに済む」
ドルクが、管の震えを最後にもう一度だけ確かめて、首を振った。
「変わらねえな」と彼は言った。
「俺たちが何をしようと、こいつは、勝手に脈打ってやがる。見られてることにも、たぶん、気づいちゃいねえ」
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帰り道、縄を伝いながら、レインは何度も後ろを振り返った。
淡い結晶の光が、管の連なりを、頼りなく照らしていた。冷ますための道と、温めるための道。回して、戻して、また回す。誰が、何のために組んだのか。それを世話していた者は、どこへ行ったのか。
「ミスト」とレインは、前を向いたまま言った。
「お前の興奮は、分かる。俺も、あれを見て、少しわくわくした」
『……でも、止めた』
「ああ」とレインは言った。
「俺の得意なのは、壊れたものを直すことだ。原因を見つけて、安全にして、導線を引いて、二度と壊れないようにする。今までは、それで全部、何とかなってきた」
彼は、一度言葉を切った。
「でも、あそこにあるのは、壊れてるものじゃない。弱りながら、まだ動いてるものだ。直す対象が、どこにも見当たらない。俺の手が、初めて、空を掴むかもしれない」
ドルクが、ふんと鼻を鳴らした。
「珍しいな。お前が、自信なさそうにしてるのは」
「自信がないわけじゃない」とレインは言った。
「ただ、いつもの手が効かない場所に、足を踏み入れたって分かっただけだ。それが分かってるのと、分からずに突っ込むのとじゃ、雲泥の差だよ」
霧の向こうで、管の脈動が、また一つ、ゆっくりと強くなった。そして、弱くなった。
近づくほどに、レインの得意な「改善」が、少しずつ、形をなくしていく。その気配だけが、はっきりとあった。




