第95話 改善では止まらないもの
三日後、レインは同じ縄を伝って、もう一度、深層第一区画の前に立っていた。
今度は、見るだけでは済まさないつもりだった。
上層の異常は、緩衝も止血もないまま、じわじわと広がっていた。第1層の警報がまた一つ誤作動を起こし、第2層の水脈が夜中に音を立てた。利用者の足が、わずかだが鈍り始めている。
その上、外の窓口は相変わらず返事を待っていた。王都評価委員会の報告期限、領主側の定期報告、カルデン市の試験契約の更新。ベルダの台帳は、深層に人を割いた分だけ、滞っていた。
「奥に何日もかかると、こっちが持たないよ」と、出がけにベルダは言っていた。
「責めてるんじゃない。ただ、上の用事は、奥の都合を待っちゃくれない。それだけは、頭の隅に置いといてくれ」
その言葉が、縄を握るレインの手に、重しのように残っていた。早く止めたい。早く戻りたい。レインの中で、いつもの順番が立ち上がっていた。原因を見つける。安全にする。導線を引く。二度と起きないようにする。それが、これまで全部、何とかしてきたやり方だった。
今日は、エルメアも縄の手前まで来ていた。
「人を奥へ入れるなら、わたしも近くにいる」と彼女は言った。
「あの脈動は、ただの揺れじゃない。近くにいた者が、決まって頭の重さを訴える。どこまでなら入れて、いつ引くか。それを測るのが、わたしの仕事だ」
「頼む」とレインは言った。
「無理はさせない。だが、今日はもう一歩、奥に踏み込む」
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脈動源は、管が一番太く束ねられた窪みの、さらに奥にあった。
レインは、そこにいつもの手順を当てようとした。
「セレス。上級解析を一段、開ける。中枢魔力をこっちへ回して、脈動の出どころを直接読む」
『……開けます』とセレスが言った。『ですが、警告します。この区画は中継結晶の精度が低い。霧の中の像を、無理に拡大するようなものです。輪郭がぶれます』
「ぶれてもいい。当たりさえつけば、止め方が分かる」とレインは言った。
彼の頭の中では、もう図が描かれていた。脈動の源を特定し、流れを一度堰き止め、安全な迂回路へ逃がし、再発しないよう蓋をする。地上の水脈でも、罠の暴走でも、その形で直してきた。
『推奨しません』とノアが、低く言った。
『直す対象が、まだ特定できていません。直せない場所に手順を当てるのは、手順ではなく、当てずっぽうです』
「当てずっぽうにしないために、今、読んでる」とレインは返した。
彼は、自分の声が少し急いているのに、気づいていた。
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セレスの解析が、奥へ伸びた。
霧がかった像の中に、脈動の核らしき光が、ぼんやりと浮かんだ。一定の間隔で、強くなり、弱くなる。レインは、その「弱くなる」一瞬を狙って、流れに小さな堰を入れる指示を出した。壊れた設備なら、止まった隙に手を入れる。それが定石だった。
『……今です』とセレスが言った。
ルカが、自動化機構を介して、束ねられた管の一本に細い制御を差し込もうとした。
だが、像がぶれた。
『弱くなる、の周期が――ずれました』とセレスが、声を硬くした。『精度が、足りません。今のは、谷ではなく、山の手前でした』
堰が、強くなる流れの真正面に入った。
管が、鈍く鳴った。窪みの縁の黒い焦げが、一瞬、赤く明るんだ。ルカの差し込んだ制御が、跳ね返されるように弾けて、束の根元から熱を帯びた蒸気が噴いた。
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「下がれっ」
叫んだのはガルムだった。
彼は、来る前に退避線をもう一本、奥へ足していた。誰よりも先に、その線の方向を指で示していた。レインがミストの像を呼び戻すより早く、ガルムの腕が、近くにいた作業員の襟をつかんで後ろへ放っていた。
蒸気は、ガルムが引いた線の、ぎりぎり手前で止まった。
誰も焼かれなかった。だが、もう一歩前に立っていたら、と思うと、レインの背中が冷たくなった。
「全員、無事か」とレインは言った。
「無事だ」とガルムが言った。
「だが、紙一重だぞ。退避線を一本多く引いといて、よかった。お前の読みが当たってたら、こんなもん要らなかったんだがな」
その言葉は、責めるためのものではなかった。だからこそ、こたえた。
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エルメアが、作業員の一人の脇に膝をついていた。
「この子、立ってられない」と彼女は言った。
「焼けたんじゃない。脈動だ。近くで強い波を浴びて、頭の芯がやられてる。吐き気と、目まい。これ以上ここに人を置けば、焼ける前に倒れる」
「……分かった」とレインは言った。
「撤収する。今日は、ここまでだ」
『データは取れました』とセレスが言った。『ただし、止血には至っていません。むしろ、脈動を一度乱しました。しばらく、上層の異常は強く出ると思われます』
それは、いちばん聞きたくない報告だった。直そうとして、悪くした。レインの手順が、初めて、裏目に出ていた。
頭の中で、二つの締め切りが同時に鳴っていた。奥は思い通りにならず、上の窓口は待ってくれない。両方から引っ張られて、つい、谷を待たずに手を出した。焦りが、精度の足りない解析を「足りる」と言い張らせたのだ。レインは、自分の声が急いていた理由を、ようやく正面から認めた。
エルメアが、倒れた作業員に肩を貸しながら、レインを見上げた。
「あんたが急ぐ気持ちは、分かる」と彼女は言った。
「だけど、人の頭は締め切りじゃ動かない。この子がここに何分いられるか、それは上の用事とは関係なく決まってる。次に来るときは、入る前に、いられる時間を先に決めて。途中で延ばすのは、なし」
「……それは、守る」とレインは言った。
それだけは、はっきり約束できた。守れる線を一本でも引けたことが、今日唯一の収穫だった。
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帰りの縄を伝いながら、レインは長いこと黙っていた。
ミストが、めずらしく口を開かなかった。ノアも、非推奨を繰り返さなかった。誰も、慰めようとしなかったのが、かえってありがたかった。
「ドルク」と、レインはようやく言った。
「あんた、地下の水番を長くやってきた。詰まった水脈を、力ずくで開けようとして、痛い目を見たこと、あるか」
「あるさ」とドルクは言った。
「若い頃にな。詰まりを突こうとして、逆に山を鳴らした。死にかけた。それからは、突かなくなった」
「どうした」とレインは聞いた。
「付き合うようにした」とドルクは言った。
「地下ってのは、直す相手じゃねえ。生きてるんだ。こっちの都合で止めようとすりゃ、必ず暴れる。だから、いつ強くなって、いつ弱るか、癖を覚えて、弱るときにそっと手を添える。それだけだ。直したんじゃねえ。付き合ったんだ」
レインは、その言葉を、胸の奥で何度か転がした。
直す対象が、どこにもない。壊れていないものを、壊れたものとして扱おうとしたから、弾かれた。あれは、止める相手ではなかった。付き合う相手だった。
これまでレインがやってきた改善は、いつも「壊れている」という前提から始まっていた。壊れた箇所を見つけ、正しい形に戻す。だから、戻すべき正しい形が分からない相手には、最初の一歩から踏み外していたのだ。深層の機構には、戻すべき形がない。劣化しながら、それでも自分なりの周期で回り続けている。それを乱したのは、向こうではなく、こちらだった。
『……記録しておきます』とノアが、静かに言った。『「直せないものには、直す手順を当てない」。今日の失敗から確定した、新しい基準です。これは、無駄な失敗ではありません』
「明日から」とレインは、前を向いたまま言った。
「やり方を変える。止めるんじゃない。癖を、覚える」
管の脈動が、霧の奥で、また一つ、ゆっくりと強くなった。
今度はレインは、それを止めようとは思わなかった。ただ、その間隔を、もう一度、最初から数え直した。




