第92話 灯りを一つ消して、奥を一つ開ける
朝、レインは一覧に三つだけ印をつけて、管理室へ持って行った。
ひと晩かけて削ったのは、上層の演出照明、第1層北回廊の夜間自動巡回、それと宿舎区の夜間装飾灯だった。どれも、無くても人は死なない。だが、どれも、無くなれば誰かが「不便になった」と口にする。そういう三つだった。
「この三つを、一時的に絞ります」とレインは言った。「ここから捻出した中枢魔力を、深層入口の部分開放に回す」
『収支を確認します』とセレスが応じた。『演出照明、夜間自動巡回、夜間装飾灯。この三系統を最小化すれば、第3層入口を一区画分、観測可能な状態まで開けられます。ぎりぎりですが、足ります』
「ぎりぎり、で開けて大丈夫ですか」とレインは念を押した。
『余裕はありません。ですが、一区画を超えて欲張らなければ、破綻しません』
ミストが横から口を挟んだ。
『たった一区画ですか。どうせ魔力を回すなら、もう二系統ほど絞って、入口を広く取った方が……』
「広く取りません」とレインは遮った。「広く開けるほど、絞る灯りが増える。住民の生活を削ってまで、一度に開ける必要はない。一区画ずつ、と決めたはずです」
『……分かりました』とミストは渋々引いた。
ノアが、止まる条件の覚書を差し出した。
『絞った三系統のどれか一つでも、住民の安全に支障が出た兆候を検知した場合、深層アクセスを即時中断し、魔力を上層へ戻す。この線を守れるなら、私は反対しません』
「守ります」とレインは言った。「灯りを消すのは、深層のためです。住民の安全のためなら、いつでも灯りを戻す」
問題は、ここからだった。
絞ると決めるのと、住民に呑んでもらうのは、別の話だ。レインは掲示の文面をベルダと詰めた。
「で、いつから暗くするんだい」とベルダが聞いた。
「今夜から、と言いたいところですが」とレインは言った。「先に、貼り出してからにします。何でこうするのか、いつまでなのか、それを読んでもらってから消す」
「殊勝じゃないか」とベルダは鼻を鳴らした。「で、いつまでなんだい。それが書いてないと、住民は『ずっとか』と思って腹を立てるよ」
レインは詰まった。深層の観測がいつ終わるかは、開けてみないと分からない。
「……正直、いつまで、とは言い切れません」
「ほらごらん」とベルダは紙を指で叩いた。「それがいちばん人を不安にさせるんだ。終わりが見えない我慢ほど、こたえるものはない」
「では、こう書きます」とレインは言った。「『地下の異常を抑えるための作業中。一区画の確認が済みしだい、灯りは順に戻す』。終わりの日付は約束できない。けれど、何が済めば戻るのか、その条件なら書ける」
ベルダはしばらく文面を睨んでから、「まあ、嘘よりはましだね」と言って、太い字で清書を始めた。
その晩、上層の灯りが、三系統だけ落ちた。
演出用の柔らかな光が消え、北回廊の見回りの足音が止まり、宿舎区の飾り灯が暗くなった。命に関わる照明――退避線の光石も、即死罠の警報も、炊事場の灯りも、そのまま残してある。だが、暗くなった通路は、それでも住民の目につくには十分だった。
翌朝、受付台には案の定、苦情が並んだ。
「勝ったばかりだってのに、なんで暮らしが不便になるんだ」と、商人のひとりがベルダに食ってかかった。「客足に障るぞ。暗い宿に誰が泊まる」
「掲示は読んだかい」とベルダが返した。「地下の異常を抑えるためさ。あんたの宿が水浸しになるのと、飾り灯が消えるのと、どっちがましだい」
商人は口ごもった。第1層の異常がこのところ続いていたことは、ここの誰もが知っている。
レインは受付の脇で、ひとりひとりの不満を聞いた。論で抑え込むのではなく、何が不便かを書き留めた。暗くなった北回廊で足元が見えにくい、という声があれば、それは安全に関わると判断して、ガルムに相談した。
「夜の北回廊な」とガルムは腕を組んだ。「自動巡回が止まった分、暗くて足を踏み外しそうだと。なら、当面は人を回す。俺と若いのとで、夜に二度ばかり見て歩く。機械の灯りは消えても、人の目があれば、転んだ奴を見つけられる」
「手間をかけます」
「かまわねえ」とガルムは言った。「機械を止めるなら、止めた穴は人で埋める。それが筋だ。お前が安全だけは削らねえと言うなら、こっちはその安全を、足で守るまでよ」
レインは頷いた。灯りを一つ消せば、必ずどこかに穴があく。その穴を、ベルダが言葉で、ガルムが足で、埋めてくれている。自分ひとりで深層を開けているわけではなかった。
三日が過ぎると、苦情は目に見えて減った。
暗い通路にも、人は慣れた。理由が貼り出され、見回りの人影があり、戻す条件が示されている。それだけで、同じ不便でも住民の顔つきは違った。ベルダの言ったとおりだった。
「文句は言うさ。でも、納得して言う文句と、わけが分からず言う文句は、別物なんだよ」とベルダは台帳を繰りながら言った。「あんたのおかげで、あたしの仕事が増えたけどね」
「……すみません」
「謝るくらいなら、早く地下を片付けな。灯りを早く戻せれば、それがいちばんの詫びさ」
レインは苦笑して、地下へ向かった。
第3層へ続く封鎖隔壁の前で、ドルクとガルムが待っていた。捻出した中枢魔力は、もう深層方向へ回り始めている。セレスが、隔壁の制御に魔力が通ったことを告げた。
『部分開放、可能です。一区画分だけ、封鎖を緩めます』
「やってください」とレインは言った。「一区画だけ。それ以上は、開けない」
隔壁が、低い音を立てて、わずかに動いた。何十年も閉ざされていた古い空気が、隙間から流れ出してくる。湿って、冷たく、かすかに金属の匂いがした。ドルクが鼻をひくつかせ、「上の層とは、においが違う」と低く言った。
開いたのは、人ひとりがやっと覗ける程度の隙間だった。だが、確かに開いた。灯りを三つ消して、ようやく一つ、扉を開けた。
セレスが、開いた区画へ観測の糸を伸ばし――すぐに、行き詰まった。
『……届きません』とセレスが言った。『開けた範囲の、手前までしか分析できません。少し奥は、霧がかかったように何も読めない』
「踏査済みのはずでは」とレインは聞いた。
『開けただけでは足りないようです』とセレスが続けた。『この区画には、私の目を中継するものがありません。上層には、長年の運用で観測の足場が網の目に張られています。ですが深層には、それが無い。私が見るには、見るための足場を、奥へ置いていく必要があります』
『足場、ですか』とルカが食いついた。『それなら、僕の領分かもしれません。中継できる結晶を、一区画ごとに置いていく。置いた分だけ、セレスの目が届く。一度に全部は無理でも、一歩ごとになら、観測網を伸ばせます』
「中継結晶を、置きながら進む」とレインは繰り返した。一区画開け、結晶を置き、そこが見えるようになってから、次の一区画へ。ドルクの言った坑道の作法と、同じ形をしていた。
『置けば、見える』とセレスが言った。『見えれば、私の分析できる範囲になる。データの外を、一歩ずつ内側に変えられます』
レインは、隙間の奥の暗がりを見た。霧の向こうに、まだ何があるか分からない。だが、見るための道具が見えた。灯りを一つ消して開けた扉の奥に、上級機能を解放していく糸口が、確かに一本、伸びていた。
「結晶を、用意してください」とレインは言った。「次は、置きながら、奥へ一歩だけ進みます」
隔壁の隙間から、冷たい風が、答えるように細く鳴った。




