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第90話 水脈が、聞いたことのない音を立てる

 翌朝、第2層の地下水脈層から報告が上がってきた。


 レインが降りていくと、ドルクが水際にしゃがんで、流れを睨んでいた。採集者が数人、手を止めて遠巻きに見ている。


「水位だ」とドルクが言った。「昨日の夜から、説明のつかねえ上がり方をしてる。雨も降ってねえ。上流が詰まった様子もねえ。なのに、ここの水が増えたり引いたりしてる」


 レインは水面を見た。確かに、岸の濡れた跡が、今の水位より少し高いところに残っている。短い時間で上下している証拠だった。


「水質も変だよ」と、後ろからエルメアが言った。薬師の道具袋を肩にかけている。「いつもの濁りとは違う。泥でも、鉱泥でもない。澄んでいるのに、飲ませる気にならない。匂いが、いつもと違う」


「季節的な増水ではない、ということですか」


「増水なら、濁る。これは澄んでる。増水じゃない」とエルメアは短く言い切った。


 レインは端末を出した。


「セレス、第2層の水位と水質のログを」


『記録します』とセレスが応じた。『ただし、変動の原因は踏査済みのデータでは特定できません。劣化、汚濁、季節変化、いずれのパターンとも一致しません』


 昨日と、同じ答えだった。


――――――


 ドルクが、水際から少し離れた壁に手を当てた。


「レイン。耳を貸せ」


 レインはしゃがんで、壁に近づいた。かすかに、低い音がある。水の流れる音ではない。もっと下から、断続的に響いてくる。


「これは」


「地下の音が変わったんだ」とドルクは言った。「長年坑道にいりゃ、岩がどう鳴くかは体で分かる。崩れる前の音、水が来る前の音、ガスが溜まった音。……これは、どれとも違う。聞いたことのねえ音だ」


「どこから来ていると思いますか」


「上の話じゃねえ。もっと下だ」とドルクは床を指した。「お前さんが直してきたのは、ここまでだろう。この音は、その下から来てる。直した場所が壊れてるんじゃねえ。直してねえ場所が、鳴ってる」


 レインは黙った。


 昨夜、第1層で同じことを考えた。源は下にある。第2層より、さらに下。踏査していない領域。それを、地下を知り抜いた老坑夫が、岩の音だけで言い当てている。


「エルメアさん。水の匂いが違うと言いましたね。何が混じっていると思いますか」


 エルメアは小瓶に水を汲み、光にかざした。


「毒じゃない。腐ってもいない。ただ……水に、脈がある」


「脈、ですか」


「指を浸すと、とくとく、と来る。心の臓みたいに。水が脈打つなんて、聞いたことがない。汚れているんじゃない。何かの力が、水に乗って流れてきてる。私が言えるのはそこまで。これ以上は、薬師の領分じゃないよ」


 魔力を帯びた脈動が、水に乗っている。レインの中で、それは一つの異常信号として記録された。汚濁ではない。劣化でもない。下から、何かが脈を打って上がってきている。


――――――


 それでもレインは、まず手近な対処から試した。


 採集者の安全がかかっている。水位が読めないなら、採集区を一時的に水際から離す。水質が変なら、汲み上げを止めて、地上の貯水から回す。いつもの手順だ。問題が起きたら、まず被害を出さない形に整えてから、原因を追う。


「ベルダさんに伝えてください。第2層の採集は、今日は上の乾いた区画だけに絞ります。水際の班は、地上の水を使うよう切り替えを」


 指示はすぐ通った。採集者たちは不満そうだったが、水が変だという話は彼らも肌で感じていたらしく、大きな抵抗はなかった。


 だが、ドルクは首を振った。


「応急でしのげるのは今日明日だ」と老坑夫は言った。「水際から離したって、水位は勝手に上がってくる。汲み上げを止めたって、岩が鳴るのは止まらねえ。お前さんが今やったのは、濡れねえように傘を差したようなもんだ。雨そのものは、止まっちゃいねえ」


 レインは反論できなかった。その通りだった。今打った手は、被害を遅らせるだけで、源には何も届いていない。


「分かっています」とだけ言った。「ただ、人を危なくしたまま原因を追うわけにはいかない。傘を差してから、雨の出どころを探します」


「それでいい」とドルクは言った。「だが、傘じゃ足りねえと、お前さんはもう気づいてるはずだ」


――――――


 レインは、認めたくない結論に近づいていた。


 今日まで、灰霧迷宮の問題は、すべて改善で止められてきた。壊れた設備は直し、詰まった水路は通し、危ない導線は引き直した。問題発見、改善、成果。その積み上げで、ここまで来た。


 だが、今度のものは違う。発生源が、踏査済みの範囲の外にある。直せる場所をすべて直しても、源に触れない限り、また同じことが起きる。


 原因は、封鎖したままの第3層以深にある。


 それは、レインが最も触れたくない領域だった。今は外部対応で手一杯だ。王都の交渉も、商会の動きも、まだ片付いていない。そんなときに、最も危険で、最も分からない場所が原因だという。


「触れずに済ませたい、というのが本音です」とレインは小さく言った。誰にともなく。


『管理者様』と、横でノアが言った。『無理に下層へ接近する判断は、現時点では非推奨です。未踏査領域は危険度が算定できません』


「分かっています。ただ、改善で止まらないものを、改善で止め続けようとするのは、もっと危ない。再発を放置することになる」


――――――


 その時だった。


 レインの端末の表示が、ひとりでに切り替わった。中枢核からの出力だ。普段は沈黙している古代管理核が、ごく短い文字列を、初めて吐き出していた。


『……封 印 / 第三 階層 方面 / 管理 移譲 未 完了……』


 文字は途切れ途切れで、ところどころ欠けていた。それきり、表示は消えた。


「セレス、今のは」


『中枢核が、第3層方面の封印に関する古いログ片を、部分的に開示しました。断片です。完全な文ではありません』


『開示は最小限に留めるべきです』とノアが即座に言った。『中枢核が自発的に出力するのは異例です。何を基準に開示したのか不明な以上、受け取った断片を過信すべきではありません』


「過信はしません。ただ、記録はします」とレインは言った。「『管理移譲、未完了』。封印の何かが、まだ終わっていない。中枢核は、それを今、私たちに見せた」


 レインは、欠けた文字列を見つめた。第3層方面。封印。未完了。


 ドルクの岩の音。エルメアの水の脈。中枢核の断片。三つが、同じ下の方向を指している。


 もう、源を踏査外として棚に上げてはおけなかった。だが、そこで一つの壁にぶつかる。


 セレスが分析できるのは、踏査済みの範囲だけだ。原因のある場所は、まだ誰も足を踏み入れていない。


 いちばん知りたい場所のことを、いちばん頼りにしてきた力が、何も教えてくれない。


「踏査していない場所は、分析できない」とレインは呟いた。


 今まで武器だった前提が、初めて、足枷になっていた。


 分析できないなら、踏査するしかない。だが、その踏査の先は、自分たちが封鎖したままにしてきた領域だ。触れれば、何が起きるか分からない。触れなければ、源は止まらない。


「ガルムさんに、夜の振動ログを続けてもらってください」とレインはセレスに言った。「それと、第2層と第3層の境の、封鎖区画の図面を出してほしい。今あるものだけでいい」


『出力します。ただし、第3層方面の図面は、ほとんどが空白です』


「分かっています」


 空白を、空白のまま眺めているわけにはいかない。どこかで、誰かが、その扉に手をかけなければならない。今日はまだ、その手前だった。だが、その手前に立っていることだけは、もう間違いなかった。

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