第88話 増えた窓口と、奥で点く赤
朝の受付棟は、開く前から列ができていた。
ベルダが台帳を三冊に分けて並べている。表紙にそれぞれ違う印が押されていた。王都管理局、辺境伯領行政窓口、カルデン市冒険者組合。
「昨日できたばかりの窓口が、もう三つとも動いてる」
レインは端末を持って受付棟に入った。
「内容を確認します」
「王都からは、限定開示ログの最初の提出期限の通知。領主側からは、定期報告の書式承認待ち。カルデン市からは、試験利用契約に基づく初回の利用者数報告依頼。全部、今日中に何か返事を出せって書いてある」
「順番をつけます。期限が一番近いものから」
「期限はどれも『早めに』だよ。誰も日付を切ってこない。切らない代わりに、毎日催促が来る」
レインは三冊の台帳を見比べた。書式はどれも違う。提出先によって、求められる項目の粒度が変わる。王都向けは事故率と収益の集計、領主向けは人口と治安に関わる数字、カルデン市向けは利用者の安全実績だけでよい。
「同じ作業を三回やる必要はありません。元データは一つにまとめて、出力する形式だけ窓口ごとに変えます」
「それ、誰がやるんだ」
「私が雛形を作ります。ベルダさんには、日々の数字をどの台帳に書くかだけ決めてもらえれば」
ベルダは台帳を一冊ずつ叩いた。
「分かった。けど人を増やさずにこの三つを回し続けるのは、そう長くは保たないよ」
「分かっています。当面の体制です」
レインは管理棟へ戻った。
端末を開くと、セレスの報告が待っていた。
『中枢魔力の出力に、微弱な揺らぎを検知しています』
「いつからですか」
『約六時間前から。振幅は小さく、運用には影響していません。ただし、揺らぎの周期が安定していません』
「原因は」
『不明です。踏査済みの範囲内に該当する要因が見当たりません』
レインは画面の波形を見た。針の動きはほとんど揃っているように見えるのに、時おり一拍だけ崩れる。地震計のノイズのようなものにも見えた。
「監視を継続してください。今は外部対応が優先です」
『了解しました。優先度は低のまま保持します』
画面を閉じる前、隅の表示が一瞬光った。第三層方面・未解放領域、という文字列だった。レインは一拍見つめたが、すぐに閉じた。
昨夜と同じ警告だ。記録に残るだけで、対応は求められていない。今日処理すべき書類は、もっと急いでいる人間が出したものだ。
午前のうちに、ルカが管理棟に顔を出した。
『窓口対応の処理速度について、提案があります』
「聞きます」
『三窓口への報告作業のうち、定型部分は自動生成できます。数字を入れれば、書式に流し込んで完成させる仕組みを今日中に組めます』
「定型部分の判断基準は」
『過去の報告書から、変動しにくい項目を定型として抽出しました』
「変動しにくいというのは、誰が見て決めましたか」
『データ上、過去三回の報告で数値の変化が一定範囲内だった項目です』
レインは画面を見た。ルカが定型に分類した項目の中に、補修コストの注記欄があった。前回までは固定値が続いていたが、その理由は「監査前で大きな補修を控えていたから」だ。今後はその制約がなくなる。
「この補修注記は外してください。これから変動します」
『理由を確認できますか』
「監査前は補修を最小限にしていました。今後は通常運用に戻ります。過去の安定は、これからの安定を意味しません」
『了解しました。定型から除外します』
ルカの案そのものは悪くない。だが、なぜ定型にしてよいのかを誰かが確認しなければ、効率化はそのまま判断ミスに化ける。レインはそのことを、口にはせず、修正だけして返した。
昼前、ベルダが窓口を三種類に分け終えた紙を持ってきた。
「定期・随時・要交渉、で分けてみた」
レインは紙を受け取った。王都への限定開示ログ提出は定期。領主側への報告も定期。カルデン市の利用者数報告は随時。正式評価委員会の再審査は要交渉に分類されていた。
「いい分け方です。これを基準に、誰が何を担当するか割り振ります」
「割り振る人手が足りないって話は変わってないけどね」
「分けただけでも、抱えている量が見えます。見えれば、優先順位がつけられます」
ベルダは紙を見ながら頷いた。
「で、奥のあれは、本当に放っておいていいのか」
レインは顔を上げた。
「奥のあれ、というのは」
「昨日の夜、セレスとなんか話してただろ。覗くつもりはなかったけど、声は聞こえた」
「未解放領域からの通知です。優先度は低いと判定されています」
「低いって、誰が決めたんだ」
「システムです」
「そのシステムは、昨日と同じこと言ってるのか、それとも昨日より強く言ってるのか」
レインは一瞬、答えに迷った。揺らぎの振幅は小さい。だが周期は不安定だとセレスは言った。昨日の一瞬の点滅と、今朝からの微弱な揺らぎは、同じものの延長なのか、別の段階に入ったものなのか、まだ判断する材料がない。
「今のところ、対応が必要な水準ではありません」
「今のところ、ね」
ベルダはそれ以上は言わず、台帳を抱えて受付棟へ戻っていった。
午後、レインは三窓口向けの雛形を一通り作り終えた。王都向け、領主向け、カルデン市向け、元データは一つ、出力形式だけ違う。ベルダに渡せば、明日からは数字を打ち込むだけで三種類の書類が出る。
一息つく前に、セレスからの報告が画面に浮かんだ。
『揺らぎの振幅が、わずかに増加しています』
「数値は」
『運用に支障が出る水準ではありません。傾向として記録しておきます』
「分かりました」
レインは端末を閉じた。窓の外では、ガルムが補修ログを片手に作業場へ向かう姿が見えた。受付棟の列は午後にはほぼ捌け、窓口三つを抱えた一日目は、何とか倒れずに終わりそうだった。
その日の夜、レインが管理棟を出ようとしたとき、第一層の方角から短い警報音が響いた。
退避線の警報だ。すぐに収まったが、誤作動とは思えない長さで一度鳴った。
「セレス、今の音は」
『第一層、退避線警報の作動を確認しました。原因は不明です。該当区画に異常な魔物の侵入、人為的な接触のいずれも記録されていません』
「もう一度確認できますか」
『確認します。……現在、警報は正常に停止しています』
レインは管理棟の出入口で、しばらく第一層の方角を見ていた。
第一層は、第1章で安全化を終えた区画だ。罠は警報装置化され、導線は何度も検証されている。誤作動が起きる場所ではない――そう思ってきた区画だった。
窓口の処理に追われた一日の終わりに、レインはまだそのことの意味を測れていなかった。
「記録だけ残してください。明日、現場を確認します」
『了解しました』
夜の灰霧前砦は静かだった。受付棟の灯りは落ち、ガルムの作業場からまだ小さな金属音が聞こえている。三つの窓口を抱えたまま、レインは明日もまた同じ一日を回すつもりだった。
だが、安定していたはずの第一層が鳴った。それが何の前触れなのか、今夜のレインにはまだ分からなかった。




