第87話 守ったのは迷宮ではなく、運用権だった
監査の翌日から、灰霧前砦は普段の朝に戻った。
受付棟の列は五本。初回、再訪、商人、職人、見学。案内板の文字は昨日と同じだ。荷捌き場では馬車が一台、採集素材を降ろしている。壁際の長椅子で書類を書いている男は、二日前から滞在している採集者だ。昨日の騒ぎを知らないような顔をしている。
知らない方が、正しい反応だった。
灰霧前砦の日常は、監査があっても止まらなかった。ベルダの台帳は昨日も今日も記録を続け、ガルムは今朝も補修を入れ、リナは午前の講習を昨日通り進めた。
変わったのは、レインの机の上だった。
「ヴァルト管理者。届いてます」
ベルダが扉口から声をかけてきた。手に書状を二通持っている。
「どちらからですか」
「一通は王都管理局。もう一通は……」 ベルダは封書をひっくり返した。「局長名義。ダリウス・フェルン」
レインは端末から顔を上げた。
「両方置いておいてください」
「今日は開かないの」
「先にこちらを片づけます」
机の上には、昨日の監査でまとめた三種類の書式の下書きが並んでいた。王都管理局向けの限定開示ログ、辺境伯領行政窓口への定期報告、カルデン市冒険者組合との試験利用契約書。それぞれ項目が違う。相手が違う以上、同じ書類は使えない。
ベルダが両方の書状を机の端に置いた。立ち去らなかった。
「それ、全部今日中に終わる量か」
「終わらせます」
「あんたがそう言う時は、本当に終わらせるんだよな」
ベルダは小さく息を吐いて、自分の受付棟へ戻った。
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午前のうちに、ガルムが管理棟を訪ねてきた。
手に補修ログを挟んだ板を持っている。開口一番、「監査のことは聞いた」と言った。
「接収は、なくなったのか」
「今日はなくなりました。ただし、報告先が増えました。ガルムさんの補修ログは、今後、王都管理局向けに月次でまとめた概要版を提出します」
「概要版。どういう形で」
「何を補修して、何が原因で、次に同じことが起きないためにどう対処したかを、月ごとにまとめる形です。詳細は灰霧側に残します。数字は全部は出しません」
「数字の全部を出すと、何が起きる」
「補修コストの削減を求められます。現場の実態より先に、数字が動きます」
ガルムはしばらく考えた。
「……なるほどな。で、概要版の形を決めるのは誰だ」
「ガルムさんと私で作ります。今週中に雛形を決めたい」
「分かった。夕方に来る」
それだけ言って、ガルムは出ていった。
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昼前、ヤルゼンが来た。カルデン市冒険者組合の評価担当だ。監査に同席した男で、昨日と変わらず穏やかな顔をしていた。
「試験利用契約の件です。草案を確認していただけますか」
テーブルに書類が広げられた。条件が三つ。利用者数の月次報告、事故発生時の共同調査、初心者講習の部分共有。
「特に問題はありません」とレインは言った。「一点だけ確認させてください。共同調査の範囲は、灰霧前砦の内部に限ります。迷宮の層構造や、管理核の制御については、この契約では対象外です」
「承知しています。組合として必要なのは、利用者の安全です。それ以上は求めません」
「では、この書式で進めます」
ヤルゼンは契約書に署名した。レインも署名した。
「灰霧前砦が、カルデン市の組合と正式に関係を持つ最初の書類になります」とヤルゼンは言った。「初心者を送り込める場所が一つ増えました。これは、組合にとっていいことです」
「こちらも、外部評価の窓口ができました。ありがとうございます」
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午後、リナが管理棟に顔を出した。普段は講習棟から出てこない。
「入れますか」
「どうぞ」
「講習補助の話です。今月から一名増やしたいんですが」
「増やす理由は」
「初回来訪者が増えて、一人では全員の実技確認が間に合わなくなってきました。昨日の午前は十二名まとめて来て、青札基準の実技確認に午後までかかりました。もう一人いれば、半分の時間で終わります」
「補助の候補は決まっていますか」
「砦に長く滞在している冒険者で、黄札持ちの人間を一名、声をかけてあります。報酬は採集枠の優先確保で対応できます」
レインはリナの顔を見た。事前に全部を考えてきている。相談ではなく、確認だ。
「進めてください。来週から体制を変える場合は、ベルダに台帳の分類を一つ追加してもらう必要があります」
「それはもう話してあります」
「では問題ありません」
リナは頷いて、出ていった。
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夕方、ガルムと補修概要版の雛形を作り終えた後、レインは机に戻った。
ダリウスの書状を開いた。
短い文面だった。
灰霧前砦の監査結果について、正式評価委員会にて再審査を行う。詳細は追って通知する。この通知を受領した段階で、施設側は関係書類の保全を開始すること。
以上だった。
王都側の窓口からの確認書状の方は、限定開示ログの提出先と担当者名の通知だった。
レインは二通とも端末の横に置いた。
ベルダが廊下から覗いてきた。
「来てたんだ、やっぱり」
「正式評価委員会での再審査が通知されました」
「……勝ってなかったね」
「即時接収は止められました。正式な場が設けられるということは、少なくともこちらの主張を無視して強行する選択肢は取りにくくなった、ということでもあります」
「どっちつかずだね」
「次が来るまでの時間です」
ベルダは腕を組んだ。
「で、次に来るまでに何をするんだ」
レインは机の上の三枚を見た。限定開示ログの雛形。定期報告の雛形。試験利用契約書の控え。
「報告体制を整えます。王都側、領主側、カルデン市の三窓口が今日から始まりました。この三つを、誰か一人が休んでも滞らない形に作る必要があります」
「誰が回すんだ。今の人数で」
「それが、次に考えることです」
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夜、受付棟が閉まった後、レインは一人で管理棟に残った。
端末を開いて、今日の記録を入力した。試験利用契約・締結。定期報告体制・立ち上げ開始。ダリウスより正式評価委員会通知受領。
最後に、自分の判断として一行書いた。
「今回守ったのは施設の設備ではなく、灰霧式運用を現場基準で維持する権利だった。次に必要なのは深層解放ではなく、増え続ける外部窓口を現場の誰かが倒れることなく処理できる管理体制だ」
セレスが静かに届いた。
『管理中枢から通知が来ています。優先度は低く設定されています』
「内容は」
『未解放領域の警告です。第三層より下、現在閉鎖中の区画から、軽微なパターン変化が記録されています。現時点では対応不要とシステムは判定していますが、記録として届けるよう設定されています』
レインは端末を見た。
警告の表示は、一瞬で消えた。
「今日は開きません」
『了解しました。記録に保持します』
「次に必要なことが先にある」
レインは端末を閉じた。
窓の外は暗くなっていた。受付棟の明かりが消えている。ガルムの作業場から、まだ小さな金属音がしていた。
補修は止まっていなかった。明日の受付は、また五本の列で始まるはずだ。評価委員会の通知が来ても、迷宮は動いている。砦は動いている。それが変わらないうちは、次の手を打ち続けられる。それだけは、今夜確認できた。




