第85話 領主側は別の台帳を見る
門番から「使者が来ている」という報告を受けてから、レインが表に出るまで十分かかった。
管理棟から王都管理局用の書類を一度しまい、別の書類を出し、端末に確認を入れた。オルドとネリオは今日は宿へ戻っている。会議室は空いている。ベルダには声をかけた。バロスへはルカを通じて連絡を入れた。
砦の門前に、中型の馬車が一台と、随行らしい人物が二名いた。
使者と言うより、視察者の格好だった。書類鞄ではなく、薄い台帳を抱えている。外套の色は辺境伯領の実務色、紺に銀縁。王都側の制服と似ているが、紋章が違う。
「灰霧迷宮管理者のレイン・ヴァルトです」
「辺境伯領実務窓口、ミラ・ハーゼンです」
女性の声だった。四十代前後で、落ち着いた目をしていた。怒っていない。威圧もない。ただ、何かを確認しに来た、という顔をしている。
「お時間を取っていただいてありがとうございます。……少し、中を見せていただきながら話をさせてもらえますか。書状だけでは伝わらないことがあるので」
「構いません。管理棟の小会議室をお使いください。ただし、受付棟の前を通ります」
「ええ、それで構いません」
受付棟の前で、ミラが足を止めた。
今日の午後の列は五本ある。初回、再訪、商人、職人、見学。それぞれ異なる案内板の前に人が並んでいる。荷捌き場の方では、バロス商会の馬車が搬入の準備をしていた。採集から戻った数名が報告書を書いている。
「……これは、毎日こういう状態ですか」
「繁閑はあります。今日は中程度です」
「どのくらいの人数が、この砦に滞在していますか」
「ベルダが台帳を持っています。中でご覧ください」
ミラは頷いて、また歩き始めた。
小会議室に入ると、ベルダがすでに台帳を一冊抱えて待っていた。
ミラが着席して、台帳の表紙を見た。「滞在者記録」と書いてある。
「見せてもらえますか」
「どうぞ」
ベルダが台帳を開いた。
「うちの台帳は来訪目的別に分けています。採集・訓練・商用・職用・見学の五種類です。日帰りの人間と、砦内に宿を取って複数日いる人間も分けて記録しています」
「複数日滞在の人数は現在何人ですか」
「今週は八十三名です。うち商人関係が三十一名、職人が十二名、冒険者系が四十名です」
ミラは数字を手帳に書き留めた。
「それとは別に、砦に居住している人間は」
「正式な居住登録はしていません。ただ、実態として常駐に近い状態になっている人間が三十名ほどいます。ガルムの作業員と、商会の雇用人です」
「合計で百名以上が、常時この砦にいる状態ですね」
「はい」
「一週間の延べ来訪者数は」
「先週は四百二十名でした。週によって三百から五百の幅があります」
ミラは手帳から目を上げた。
「ありがとうございます」
それだけ言って、少し間を置いた。整理している間だ。
「お聞きした理由を説明します。領内の人口と商業の記録は、辺境伯領の行政管理の基本になります。このエリアに百名以上が定期的に滞在し、週に四百人以上が往来するとなれば、治安の把握が必要になります。衛生の確認も必要です。商業活動があれば、税の確認も必要になります」
「それぞれ現在どういう状態かを確認に来た、ということですか」
「そうです。……悪意はありません。領内に人が増えることは、良いことです。ただし、行政として把握できていない場所に人が集まると、問題が起きた時に対応できなくなります。灰霧前砦がそういう場所になりつつあると判断して、今日来ました」
「分かりました。順番に確認させてください」
バロスが顔を出したのは、ミラが商業についての質問に入ったところだった。
扉をノックして入ってきた。ミラを見て、一瞬値踏みする目をした。それから自然に笑顔を作った。
「金鹿の蹄商会、バロスです。今日は帳簿の確認があると伺いまして」
「ご同席ください。商業区画の取引規模について、説明していただけますか」
「喜んで」
バロスは椅子を引かずに、立ったまま話し始めた。
「現在、灰霧前砦の商業区画には常設の買取窓口が六か所あります。採集素材の買取、加工品の買取、消耗品の販売、宿泊、食事、それから資材の保管と搬送の手配です。先月の取引総額は……」
バロスはポケットから自分の帳面を出した。
「銀貨換算で月額千二百枚を少し超えたところです。これが金鹿の蹄商会の数字で、他の小商人を含めると全体では千六百枚前後になると思います」
ミラが数字を書いた。
「それは、どこへ流れていますか」
「大半は王都向けの商品の仕入れと、周辺の村への物資補給に回っています。純利益という意味では、商会側で三割ほどを手元に残し、残りは再投資と仕入れです」
「税の申告はどこへしていますか」
バロスは少し笑った。商人らしい、計算の入った笑い方だった。
「灰霧前砦の商業区画は、王国直轄の施設内での取引という位置づけのため、現在のところ領内の課税対象として明示的に申告されていません。……これが今日のお訪ねの本題の一つですね」
「その通りです」
「まあ、それは話し合いで整理できることです。共同経営者殿、この点はご賢察を」
「税の整理については後ほど確認します」とレインが言った。バロスは黙って引いた。
エルメアは廊下ですれ違う形だった。
小会議室の前を通りかかったエルメアに、レインが声をかけた。衛生の話題が出ていると告げると、エルメアは扉の枠に寄りかかって話した。中に入らなかった。
「今の砦で問題なく運用できる一日あたりの来訪者数は、だいたい百五十人程度です。それ以上になると、洗い場が追いつかなくなって、怪我の処置が遅れ始めます。先月は多い日で百八十人来た日があって、その翌日に処置件数が一・五倍になりました」
「現在の衛生状態は」
「管理されています。ただ、人が増えたらインフラを拡張しないと維持できません。今の設備でできる上限はほぼ来ています」
「拡張には何が必要ですか」
「水路と、洗い場のもう一か所増設と、医薬品の備蓄増量です。……予算と手間の話なので、今日ここで決まることじゃないですけど」
エルメアはそれだけ言って、廊下を戻っていった。
ミラがメモから顔を上げた。
「よく整理されていますね」
「必要に迫られてきた結果です」
「一つ、言わせてください」
ミラが手帳を閉じた。
「灰霧前砦は、私が最初に来た時の書類上の記述とは別物になっています。王国直轄の迷宮施設という法的区分は変わりません。でも、実態として今ここで起きていることは、迷宮管理の話だけではないです」
「どういう意味ですか」
「百名が常駐し、四百名が週に往来して、月に千六百枚の商業活動が起きて、衛生管理が必要で、治安の記録が必要な場所を何と呼ぶか、です。……これは小さな町ですよ、ヴァルト管理者」
レインは少し間を置いた。
「否定しません」
「否定しなくていいです。問題にしたいわけでもない。ただ、領内に一つ町が生まれた形になっているなら、行政として無視できなくなります。それだけの話です。……混乱を起こしたいわけじゃない。灰霧前砦が順調に機能しているのは、領にとっても悪い話じゃないんです」
「それは分かります」
「では、落としどころを話しましょう」
ミラは台帳を一枚めくった。
「求めるのは三点です。一、人口の定期報告。月に一度、滞在者数と来訪者数の概要を送ってください。二、治安の報告。盗難、暴力、大きな問題が起きた場合は都度、月次の集計は毎月。三、衛生の状態確認。今日エルメア先生が言っていたような上限超過が起きた場合には、事前に知らせてほしい。……税については、商業区画の位置づけを整理した上で別途協議します。今日は要求しません」
「三点の定期報告ですね」
「できますか」
「できます。ただし一点確認させてください。この定期報告は、王都管理局への報告とは別の窓口として扱います。同じ書類を両方に送ることはしません。領内行政の報告には、迷宮管理局が必要としない人口や衛生のデータが入ります。逆に管理局への報告には、領主側には関係しない資源収支が入ります。混線を避けたい」
「構いません。むしろその方が整理がつきます」
「王都側には管理局窓口、領主側には行政窓口として、別々に担当を決めます。書類の形式も変えます。それぞれに合った報告書を作ります」
「実務的ですね」
「そうしないと、次に王都と領主側の要求が同じ日に来た時に対応できなくなります」
ミラは少し笑った。初めて笑った顔だった。
「……それは、遠からず起きますよ」
「知っています」
「だから今日、先に来ました。王都の監査官が滞在しているうちに、うちの窓口を設けておいた方が、後の混線が減ると思って」
レインは眼鏡のブリッジを押し上げた。
「それは、助かります」
「お互い様です」
ミラは立ち上がった。台帳を腕に抱えた。
「今日伺った内容は、辺境伯への報告にまとめます。灰霧前砦が領内の重要な経済拠点になりつつある、という報告です。悪い内容ではありません。……ただし、そうなると今度は、もう少し正式な関係を整えることを求められる可能性があります。それは次の話として、また来ます」
「次回は事前に日程を調整させてください」
「そうします」
ミラは会議室を出た。随行の二名がついていった。
ベルダが台帳を抱えたまま残っていた。
「……今日は王都側は来てないのに、別の話が来たね」
「こちらの方が落としどころは作りやすい」
「なんで」
「ミラさんは実態を見に来ました。オルド殿は規定を当てはめに来ています。……実態を話せる相手の方が、条件の整理はしやすいです」
「でも今後は両方来るわけだ」
「ええ」
レインは端末を開いた。今日の記録を入力する。領主側窓口・初回接触・定期報告体制の合意。
セレスが静かに届いた。
『報告があります。王都管理局のオルド・レッケン氏から、明後日の午前に補修ログの確認と、非公開情報の根拠文書の確認を行いたいという連絡が入りました。同日午前、ミラ・ハーゼン氏からも、先ほどの合意内容の確認に伺いたいという書状が砦に届きました』
ベルダが台帳を閉じた。
「……明後日の午前か」
「同じ日の午前です」
「会議室は一つしかない」
「分かっています」
「受付は私が回しながら、二か所の対応はできない」
「分かっています」
レインは端末に次のメモを打ち込んだ。
「明後日の日程調整。少なくとも一方を午後にずらす。または会議室の追加確保。ベルダの対応負荷を確認する」
「……また仕組みを整えるのか」
「整えないと、次に来た時に受付ごとパンクします」
ベルダは少しだけ笑った。疲れた顔の笑い方だった。
「まったく。迷宮が育つたびに、また別の問題が来るんだね」
「育った証拠です」
「そういう言い方をされると、文句が言いにくいね」




