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第82話 標準化という名の接収

 ネリオは昨日とは少し違う顔をして来た。

 管理棟の小会議室に入ってきた時、オルドの一歩後ろで、目線がどこか定まらなかった。手帳を持っているが、ページを開いていない。昨夜、宿でなにかを考え続けていたような顔だった。


 オルドが着席してから、先に口を開いた。


「昨日、ネリオが言いかけたことを、正式に確認したいと思っています」


「聞きます」


「ネリオ」


 促されて、ネリオが顔を上げた。


「……昨日の、帰還報告のことです」


 ネリオは少し息を整えてから話し始めた。声は慎重だったが、こもっていなかった。


「あの報告書の一行が、今日の足場崩れを防ぎました。それは昨日、実際に見ました。……私が考えていたのは、あの仕組みを灰霧迷宮だけに留める必要があるかどうかです。王都にも複数の迷宮があります。事故は毎年起きています。帰還報告と台帳の照合と現場確認の連携が、他の場所でも使えるなら——使うべきではないかと思いました」


「善意からの提案だということは分かります」


 レインは言った。


「確認させてください。『仕組みを使う』とは、具体的にどういうことを想定していますか」


「帰還報告書の書式と、台帳との照合手順を、王都側の標準書式として整理する。他の迷宮にも同じ書式の提出を義務付ける。そういう方向です」


「書式と手順を、他の迷宮へ配布する、ということですか」


「はい。灰霧迷宮の書式を参考に、標準版を作る。それを広げれば、各迷宮で同じように異常を拾えるはずです」


 ネリオはそこまで言って、少し止まった。


「……何か、問題がありますか」


「セレスに確認させます」


 レインは端末に触れた。


『はい』


「灰霧式帰還報告が昨日機能した流れを、依存関係として整理してください。報告書から始まって、今日の補修確認に至るまでの各段階と、それぞれに必要な条件を」


『了解しました。整理します』


 青い光が静かに揺れた。


『灰霧式帰還報告の機能フローです。まず、利用者が帰還後に報告書を記入します。この記入には、何を書くべきかの理解が必要です。備考欄に「滴りがあった」と書いたのは、それが記録すべき情報だと知っていた利用者でした。この認識は、初回講習と帰還報告の継続経験で育ちます』


「つまり、報告書に意味のある情報が入るためには、利用者の訓練が前提になります」


『次に、報告書を受け取った側が異常に気づきます。昨日はリナさんが「前回は滴りがなかった」と判断しました。この判断には、台帳の蓄積記録との比較が必要です。灰霧迷宮では六ヶ月以上の類似事例が台帳に残っています。また、比較できる人間が受付に常駐していることが条件です』


「台帳の蓄積と、それを読める人間の存在、ということですね」


『次に、現場確認の指示が出ます。これには管理者の判断と、即日現場に入れる担当者の存在が必要です。灰霧迷宮ではガルムさんが毎朝点検を行い、緊急確認に対応できる体制があります。最後に、予兆が確認された場合の補修実施です。補修用の資材の確保と、当日中に対応できる作業員の手配が必要です』


「つまり」


 レインはオルドとネリオを見た。


「帰還報告書の書式は、この連鎖の最初の一枚です。書式を渡しても、台帳の蓄積がなければ照合できません。照合できる担当者がいなければ異常を拾えません。現場担当者がいなければ確認に行けません。補修体制がなければ対応できません。……書式だけを他の迷宮に持っていくと、書類は書かれますが、機能しません」


 ネリオは手帳を開いていた。書いている。表情は難しい顔だった。考えながら書いている顔だ。


「ガルムに確認させてもいいですか」


 レインは扉の外へ声をかけた。事前に声をかけておいた。ガルムは廊下に来ていた。

 小会議室に入ったガルムは、オルドとネリオを見て、椅子を引かずに立ったまま腕を組んだ。


「聞いてたぜ。精霊の話」


「話してもらえますか。昨日の確認で、他の迷宮の担当者が同じことをできるかどうかについて」


「俺の話か」


「ええ」


「書式を渡されても、俺の仕事は代わりにはなれねえ」


 ガルムは短く言った。それから少し続けた。


「昨日の滴りは、右壁の石材が水分を含んで膨張してたから出てた。この場所の石の特性を、俺は三十年以上かけて体に入れてきた。どの壁がどの季節にどう動くか、どの通路が水脈に近いか、先週との違いが足場に出るまでどのくらいかかるか——それが分かるから、滴りの一行を見た時に「今日見に行く必要がある」と判断できるんだ。……別の迷宮の石の性質は、俺には分からねえ。書式だけもらっても、そこは埋められねえぞ」


「他の迷宮には他の担当者がいれば」とネリオが言った。


「いたとして、その担当者がどのくらいの経験を持ってるか、その迷宮の現場をどのくらい知ってるか、補修判断をどのくらい自分でできるか——それが揃ってなきゃ、報告書は来ても、確認に行く判断が出てこねえ。行っても何が問題か分からねえ。分かっても直せねえ。……書式は一枚の紙だ。仕組みは紙の後ろ側にある」


 ガルムはそれだけ言って、腕を組み直した。

 オルドが口を開いた。


「一点確認させてください」


「どうぞ」


「灰霧式の仕組みを他の迷宮へ展開することに反対する、ということは——灰霧が成果を独占したい、ということではないですか」


 小会議室が少し静かになった。ガルムが鼻から短く息を出した。


「独占」とレインは繰り返した。感情的ではない声だった。


「その言い方が出るだろうと思っていました」


「出ましたが」


「展開を禁止するつもりはありません。ただし、条件が必要です」


 レインは端末を手元に置いた。


「条件は三つです。一つ目、展開先の現地調査。その迷宮の地形・資源・担当者・補修体制が、灰霧式の帰還報告が機能する条件を満たしているかを確認する。二つ目、責任者の訓練。書式を渡すのではなく、その迷宮の担当者が灰霧迷宮で実際の運用を経験してから導入する。三つ目、責任の所在の明確化。展開後に事故が起きた場合、誰がどの判断を行ったかを追跡できる形にする」


「それは灰霧側が展開を管理する、ということですか」


「展開を管理するのではなく、展開の前提を確認することです。……この条件なしに書式だけ渡した場合、他の迷宮で同じ書式が使われながら機能しない可能性があります。機能しないまま「帰還報告をしている」という状態になれば、事故が起きた時に誰も気づけないまま形式だけが整っていたことになります。それは安全上の問題です」


「……それは」


 オルドはそこで一瞬、言葉が止まった。


「条件として合理的だと思います。ただし、灰霧側がその条件を保持し続けることは、実質的に展開の主導権を持つことになります」


「展開の主導権ではなく、展開の責任を持つということです。灰霧迷宮で育った仕組みを他の場所で使う場合、その仕組みが正しく機能するかどうかへの責任は、最終的に開発した側が問われます。……その責任を持つためには、条件を確認する権限が必要です」


 ネリオが手帳に書きながら、少し声を出した。


「……つまり、灰霧側が条件を出すのは、権限が欲しいからではなく、事故の責任の所在を明確にするためですか」


「そうです」


「ということは、王都が「標準化」という形で一方的に書式を配布した場合——事故が起きても、その事故が「書式は同じだったのに機能しなかった理由」を誰も説明できなくなる、ということになりますか」


「なります。書式は同じでも、台帳の蓄積も現場担当者も補修体制も違う。機能しなかった理由は「条件が揃っていなかったから」になりますが、その条件が何かを最初に確認した記録がなければ、責任は宙に浮きます」


 ネリオは手帳を止めた。少しの間、書いたものを読み返していた。

 オルドがそれを横目で見ていた。


「……条件の提示を、書面で出していただけますか」


「出します。書式と手順の説明、展開に必要な現地調査の項目、責任者訓練の内容、事故時の追跡可能性の担保——これを一本にまとめた文書を作ります。王都側がそれを基に検討されることは構いません」


「分かりました」


 オルドは書類をケースにしまい始めた。その時、端末が鳴った。

 セレスからだった。


『管理者様。外部からの書状が届きました。配達人から受付が受け取り、今ベルダさんが手元に持っています。差し出し人は王都迷宮管理局、運用管理課ダリウス・フェルン名義です』


 レインは端末を持ったまま、少し間を置いた。


「内容は」


『表書きに一行あります。「灰霧迷宮グレイホロウ、資源外販分追加上納の件」』


 管理棟が静かになった。

 オルドの手が、ケースの留め具を閉める動作の途中で止まった。ネリオが手帳を閉じていた手を、また開けた。


「……受け取りを確認します」


 レインは端末を置いた。


「オルド殿、今日の話の続きは、この書状を確認してからお願いできますか」


「……分かりました」


 オルドとネリオが小会議室を出た後、ガルムがまだ立ったまま腕を組んでいた。


「タイミングがいい命令が来たな」


「標準化の話の最中に、上納の要求が届く」


「つながってるってことか」


「どちらも同じ根から来ているということです」


 ガルムは鼻を鳴らした。


「……書類でやってくる分、いやらしいぜ」


 レインは端末を閉じて、立ち上がった。


「ベルダのところへ行きます」

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