第80話 無認可訓練施設ではありません
「灰霧迷宮は、無認可の訓練施設として運用されているのでしょうか」
オルドの問いは穏やかだった。ネリオが手帳を開いた。
「訓練施設ではありません」
レインは答えた。
「灰霧迷宮は迷宮として運用されています。ただし、迷宮を利用する前に、この迷宮固有の安全ルールを利用者が理解しているかどうかを確認しています」
「その確認の中に、若手冒険者への指導が含まれているのでは」
「技能を教えることと、ルールを確認することは違います」
オルドは少し間を置いた。
「もう少し詳しくお聞きできますか」
「灰霧迷宮で行う講習は三点です。安全基準の説明、退避線の使い方、帰還報告の手順。これらは灰霧迷宮のルールの話であって、剣の使い方でも魔法の扱い方でも採集技術でもありません。……鍛冶場を借りる前に、炉の使い方と緊急時の水桶の場所を説明することに、認可は必要ないはずです」
「それは分かります。ただ、外部から若手冒険者を定期的に受け入れ、実地環境に慣れさせているとすれば——」
「実地に慣れさせているのは、外部の教導係です」
レインは続けた。
「灰霧迷宮では、外部教導係の登録制度を設けています。引率する教導係が若手の指導責任を持ち、灰霧迷宮側は迷宮のルールが守られているかを確認するだけです。……実際に外部教導係として登録している方が今日も砦にいます。話を聞いていただけますか」
オルドはネリオを見た。ネリオが手帳に書き留めながら頷いた。
「構いません」
訓練導線の入口に向かう途中、広場の端にヤルゼン・ロックがいた。若手数名とともに帰還報告の確認をしていた。
「ヤルゼン殿」
ヤルゼンが顔を上げた。レインとオルドを見て、何かを察したような顔をした。
「王都から来た監査官代理だ。外部教導係の役割について、話を聞いてもらえるか」
「単刀直入にやりましょう」
ヤルゼンは報告書を若手に預け、オルドの前に立った。大きな手を一度組み、そのまま話し始めた。
「私はカルデン市冒険者組合の教導係です。若手を連れてここを定期的に使っています。……私がここで何をしているかというと、若手の訓練です。採集の仕方、撤退の判断、仲間への声かけ、それらは私が教えている。灰霧迷宮に頼んでいるわけじゃない」
「では灰霧迷宮が提供しているのは」
「場所と、ルールです」
ヤルゼンは答えた。
「灰霧迷宮の退避線を使いこなせるか、帰還報告の手順を守れるか、危険区画に近づく前に止まれるか——それを確認するのが灰霧側のやることで、私への貸出じゃない。……私が若手を死なせたくなければ、灰霧のルールを守らせるしかない。そういう場所です」
「外部の方から見ても、ここは訓練施設ではないということですか」
「私が何年も死なせながら経験を積ませていた頃、実地で若手を死なせないための場所がここだった。冒険者として強くなる場所じゃない。判断を間違えたら死ぬ現場を、段階を踏んで経験できる場所です。……強くしてもらいに来る場所じゃなく、自分で判断して帰れるかを確かめに来る場所だ」
ネリオが素早く手帳に書き留めた。オルドはヤルゼンをしばらく見ていた。
荷捌き場の前で、リナが帰還報告書の確認作業をしていた。採集袋の中身と報告書の品目を照らし合わせ、担当者と確認している。
「リナ。少し話してもらえるか」
リナが振り返り、オルドとネリオを見た。驚いたが、すぐに頷いた。
「今の帰還報告、見せていただけますか」
「どうぞ」
リナは報告書を広げた。日付、立ち入った区画の色、採集品目、帰還時刻、異常の有無。欄ごとに丁寧に記入されている。
「この報告書はいつから書いていますか」
「白札の頃から全部書いています。最初は面倒だったですけど、今は書かないと落ち着かないので」
「面倒だったのに続けたのはなぜですか」
リナは少し考えた。
「書き続けたら、昨日と今日の違いが分かるようになったからです。採れたか採れなかったかじゃなくて、今日は何が変わっていたかが分かる。……帰ってきてから初めて分かることが、報告書を書くとはっきりする気がして」
「この報告書を書くことは、誰かに技術を教わりましたか」
「最初の書き方はベルダさんに教えてもらいました。でも何を書くかは自分で決めています。灰霧迷宮のルールで決まっているのは、帰還したら当日中に出すこと、それだけです」
「……なるほど」
オルドはリナの手元を見ていた。
「青札というのは、どういう意味ですか」
「第二層の採集区画に入れる証明です。強さの証明じゃなくて、ここのルールを守れるって判断を自分でできるという証明です。……採れるかどうかより、帰れるかどうかですから」
ネリオがその言葉を書き留めた。オルドは何も言わなかったが、その一言はどこかに届いた顔をした。
そこへカイルが荷を持って通りかかった。レインが声をかけた。
「カイル。少し話せるか」
カイルは荷を下ろし、オルドを見た。警戒しているわけではない。値踏みとも違う。ただ、素直に向き直った。
「最初に来た時、俺はここを軽く見ていました」
オルドが何か聞く前に、カイルは話し始めた。
「退避線なんて飾りだと思っていた。ルールの意味も、分かったふりをして流していた。……一度、第一層で自分の判断を信じすぎて、ヤルゼンさんに止められました。止められなかったら、二十歩先の床の状態を確認せずに踏んでいた」
「それは事故の危機だったのですか」
「ガルムさんに聞いたら、その床は朝の時点で補修前だったと言っていました。俺が踏んでいたら、足を取られていたと思います」
「……それはどういう状況でした」
「退避線が赤に変わっていたんですが、俺は色を見ていなかった。……今は見ます。灰霧迷宮が教えてくれたわけじゃない。退避線が変わっていた理由をガルムさんに聞いて、自分で分かりました」
オルドはカイルを少し見ていた。
「それを理解するまで、どのくらいかかりましたか」
「三回来て、帰還報告を三回書いて、ようやくです」
「灰霧迷宮から何かを教わったわけではないということですか」
「ルールは教わりました。意味は自分で分かりました。……それが違うかどうかは分かりませんが、私はそういう経験をしました」
カイルは荷を持ち直し、礼をして戻った。
小会議室に戻ったのは、午後になっていた。
オルドは資料を出さず、テーブルの上で手を組んだ。
「見せていただいたことは理解しました。ただ、一点だけ指摘させてください」
「どうぞ」
「訓練と講習の区別が、今の説明では曖昧です。灰霧側が教えないとしても、灰霧迷宮という環境が若手冒険者の能力形成に寄与しているなら、それは実質的な訓練の場と見なされます。……王都の認可基準では、施設が技能向上に関与しているかどうかで判断します。環境として関与することも含まれる可能性があります」
レインは少し考えた。
「その基準で言えば、野外で採集経験を積む者も認可が必要になります」
「それは施設ではないので対象外です」
「灰霧迷宮は施設ですが、王都の認可基準が定める『訓練施設』の定義を満たしているかどうかが問題です。……その定義を確認させていただけますか」
オルドはケースから書類を出した。確認して、読み上げた。
「王都迷宮管理局の基準では、訓練施設とは『冒険者または採集者に対して、継続的かつ体系的な技能指導を行う施設』と定義されています」
「継続的、かつ体系的な、技能指導」
レインは繰り返した。
「灰霧迷宮が行うのは、安全基準の説明、退避線の使い方、帰還報告の手順の確認です。これは一回限りで、技能指導ではなく施設固有のルールの確認です。……ただし、契約書の名称が曖昧であることは認めます」
「どういうことですか」
「今の外部教導係との契約では、利用の形を明示した名称になっていません。……今後、カルデン市冒険者組合との正式な契約を結ぶ際には、名称を整理したいと思います。『訓練委託』のような言い方はしない。名称は『実地利用前講習および導線利用契約』にします」
オルドはその名称を聞いて、少し間を置いた。
「その名称にする根拠は」
「『実地利用前講習』は施設固有の安全確認です。認可対象の技能訓練ではありません。『導線利用契約』は迷宮の特定区画を利用する利用契約です。この二つを組み合わせた契約形態は、技能指導の認可とは別の問題として扱えます。……王都の訓練施設認可が必要な要件と、この名称で行う内容が一致しないことを書面で説明できます」
「……カルデン市側はその名称で合意しているのですか」
「今日の夕方、ヤルゼン殿に確認します」
ネリオが手帳を閉じるのが見えた。オルドはしばらく書類を見てから、一度だけ頷いた。
「その名称と、その名称での契約内容を整理したものを、後日提出していただけますか」
「提出します」
「分かりました。……ただし、一点だけ保留していることがあります」
オルドはレインを見た。
「灰霧迷宮を利用した若手冒険者が、実地で事故を起こした場合、責任は誰が負いますか。ヤルゼン氏のような外部教導係ですか。それとも灰霧迷宮ですか」
小会議室がしばらく静かになった。
ネリオが再び手帳を開いた。
「それは、正式な契約の中に明記する事項です」
レインは答えた。答えとしては正確だったが、問いそのものには、まだ答えていなかった。
「……整理してご提示します」
「お待ちしています」
オルドは書類をケースにしまった。立ち上がりかけて、一度だけ窓の外を見た。
荷捌き場の前で、リナがまた別の帰還報告を受け取っているのが見えた。日が傾いても、受付は動いている。




