第78話 監査官代理オルド
ミストが整えた視察ルートの最終確認が終わったのは、朝の受付が開く少し前だった。
受付棟の入口に説明板が二枚新しく立っている。一枚は灰霧前砦の来訪目的別の案内。もう一枚は採集・訓練の利用区分と講習手順の概要。ミストが設計した見せ方で、地の文で説明するより視認性が高い。
「字が小さくないですか、これ」
レインが確認すると、ミストが浮いてきた。
『小さくないわ。あれ以上大きくしたら、入口が役所の張り紙みたいになるから。「気づいたら読んでいた」くらいの大きさに調整して作ったの。見せ方の計算よ』
「確認しました。ありがとうございます」
『「ありがとう」だけ? あの看板、字体を三案作って、灰霧迷宮に合う空気感になるまで並べ直したのよ。もう少し喜んでもいいと思うんだけど』
「丁寧な仕事でした。仕事が速いです」
『……そう言ってくれれば十分ね。……ところで、監査官が来たとき、ちゃんとあの板を読んでくれるかしら。読んでくれると報われるんだけど』
「読まれなくても、設置した記録が残ります」
『それはそれで切ないことを言うわね。……まあ、見ていましょう』
ミストは端末の中に戻った。
レインは手元の確認リストを閉じ、受付棟に向かった。ベルダが台帳を開いているのが窓の外から見えた。今日の来訪者の記録を始めているところだ。
セレスが届いた。
『昨夜の時点で確認しています。王都側の一行は昨夕に近隣村の宿を取り、今朝出発しています。到着は午前のうちと予測します』
「人数は確認できましたか」
『二名です。本人と書記一名。それ以外の随行は確認されていません』
二名。護衛もなく、書記一人を連れてきた。
レインは受付棟に入った。ベルダが顔を上げた。
「来るな、今日」
「そうです。午前中と思われます」
「準備はできてる。……あんたはどこにいる」
「管理棟にいます。到着したら声をかけてください」
「分かった。ただ一つだけ言っておく」
ベルダは台帳から目を上げて、レインを見た。
「どんな相手でも、受付の手順は同じだ。例外は作らない。王都から来た偉い人でも、うちの窓口を通ってもらう。それだけは変えない」
「それで構いません。それが証跡になります」
「証跡のためじゃない。ここの受付がそういう場所だから、そうする」
ベルダは台帳に視線を戻した。
管理棟に戻り、レインは端末に向かった。今日渡す資料と、渡さない資料の分類を最終確認する。収益の公開台帳、帰還報告の件数推移、講習通過率の記録——これらは開示できる。管理核の制御ログ、未踏領域の情報、補修用内部留保の詳細内訳——これらは出さない。
ノアが確認を入れた。
『非公開情報リスト、最終版です。管理核制御インターフェースへのアクセス記録、制御権限の構造、未踏領域の索引、危険区画の詳細地図、補修積算の根拠資料。この五項目は安全管理上の非公開事項として記録してあります』
「非公開の理由を一行ずつ添えてください。理由なき非公開は隠匿に見えます」
『了解しました。……管理者様、一点申し上げます。非公開の範囲を広げれば広げるほど、相手側は「隠している」と解釈するリスクが増します。現時点の非公開範囲は適正ですが』
「把握しています」
受付棟から声がかかったのは、昼前だった。
入口の受付窓口に、二人の人物が来ていた。
一人は四十代とおぼしき男で、紺地に金の縁取りが入った外套を着ている。腰に書類ケースを下げていた。背筋が伸びていて、立ち方が整っている。怒鳴りもせず、威圧的な気配もない。窓口の前で静かに待っていた。
もう一人は二十代前後の若い男で、同様の外套だが縁取りが細い。書記帽を被り、手に端末用の筆記具を持っていた。一歩後ろに立ち、前の男の様子を伺いながら周囲を静かに見回している。
ベルダが来訪台帳を開いた。
「お名前と所属、来訪目的をお願いします」
「王都迷宮管理局、監査官代理のオルド・レッケンと申します。事前に書状を送付しておりますが」
「書状は管理者が受け取っています。受付では全員、同じ手順をお願いしています。来訪目的は」
オルドは一瞬だけ間を置いた。
「安全監査および運用状況確認のため参りました」
「初回ですか、再訪ですか」
「……初回です」
「お連れの方は」
「書記のネリオ一名です」
「以上で記録します」
ベルダは来訪台帳に書き込んだ。名前、所属、来訪目的、人数、日時。一行ずつ埋めていく。
「入口右手の案内板をご確認ください。採集・訓練区画への立ち入りには事前の確認が必要な場所があります。確認を済ませていただければ、管理者が対応します」
「承知しました」
オルドは案内板に目を向けた。読んでいる。流し見ではなく、一つひとつの項目を確認していた。隣でネリオが手帳に何かを書き留めた。
レインが受付棟に入ったのは、そのときだった。
「お待たせしました。灰霧迷宮管理者のレイン・ヴァルトです」
オルドが向き直った。目が合った。観察している目だ。威圧でも軽蔑でもない。情報を集めている。
「オルド・レッケンです。先日の照会書類への対応、迅速でした」
「確認が必要な書類でしたので」
「……こちらへ着いた経緯として、到着が予定より二日早くなりましたことはお伝えしていました。準備に不足がある場合は、今日は書類確認にとどめることもできます」
「準備は整っています。管理棟の小会議室をご用意しています。こちらへ」
管理棟に入ると、ネリオが入口から砦の内部をゆっくり見回した。受付棟の構造、来訪者の列の区分、荷捌き場への動線。レインはその視線の動きを横目で確認した。見る目を持っている。
小会議室に入り、四人が着いた。ベルダも同席した。
オルドは書類ケースから一枚、照会文書と同種の書類を出した。
「本日の確認事項を整理してきました。項目は大きく三つです。一、安全監査記録の確認。二、収益報告と資源管理の状況確認。三、訓練区画の利用状況の確認。……それぞれについて記録を拝見しながら進めたいと思います」
「承知しました」
「では順序として、まず管理核の稼働状況と直近六か月の収益台帳を拝見できますか。記録の全体像を掴んでから視察に入る方が、効率的な確認ができます」
レインは端末を手元に置いたまま、少し間を置いた。
「管理核の稼働記録については、公開ログをご用意しています。制御インターフェースへの直接アクセスは、安全管理の観点からお断りしています。収益については先日の書類が基本資料ですが、補足確認は可能です。……ただし、視察を先に行うことをお願いしたいと思います」
「記録の確認が監査の基本手順です。現場視察はその後が通例です」
「灰霧式の運用は、数字だけでは文脈が失われます。視察後と視察前では、同じ記録が別のものとして見えます。効率的な確認のために、現場を見ていただいてからの方が、記録の意味が正確に伝わります」
オルドはしばらく、レインを見ていた。
ネリオがその横でメモを取っている。
「……それは。現場を見せることで、後の記録確認の方向を限定したい、ということでしょうか」
「そうではありません。灰霧式の台帳と記録は、運用の文脈と切り離すと正確な読み方ができない形式になっています。視察で文脈を把握していただいた上で記録を見ていただければ、確認の精度が上がります。それが理由です」
「……なるほど」
オルドは書類に目を落とし、一拍置いてから言った。
「では視察から始めましょう。ただし管理核の記録と収益台帳の確認は、視察の後に必ず行います。そこは変えていただけませんか」
「構いません。視察後にお時間を取ります」
「ありがとうございます」
オルドは書類ケースを閉じ、立ち上がる動作に入った。ネリオも手帳をしまおうとした。
そのとき、オルドが立ち上がる前に、一度だけレインを見た。
「一点だけ確認させてください」
「どうぞ」
「管理核への直接アクセスをお断りになる、というお話でした。安全管理上の理由、とのことでしたが」
「はい」
「それは——」
オルドの声は変わらず穏やかだった。感情的ではない。ただ、問いの形が鋭かった。
「隠すものがある、ということでしょうか」
小会議室が静かになった。
ベルダがテーブルの端で台帳を持ったまま、動かなかった。ネリオが手帳を半分しまった状態で止まった。
レインはオルドの目を見た。観察している目だ。答えを待っている。
「……その確認は、視察後の記録確認の場でお答えします」
「分かりました」
オルドは立ち上がった。表情は変わっていない。
だが部屋の空気は、さっきとは少し変わっていた。




