第77話 ガルムの安全基準
開場前の第一層は、光石の光だけが壁を照らしていた。
人の声がない。足音が一つだけある。
ガルムだ。道具袋を腰に下げたまま、石畳を一歩ずつ踏みしめながら歩いている。壁に手を当て、指でなぞりながら進む。毎朝やっている点検だ。
レインがその後ろについたのは、入口から十歩ほど入ったところだった。
「見えてたぜ」
振り返らないまま、ガルムが言った。
「安全基準の文書化の件で、話をしたいと思っていました」
「ベルダから聞いた。歩きながらでいいなら」
ガルムは立ち止まり、壁の一点を指でなぞった。
「ここ、出っ張ってる。先週より膨らんだな。水を含んでんだ。週末に補修を入れる」
レインは端末を開いた。
「その判断の根拠を教えてください。何センチ出っ張ったら補修が必要ですか」
「場所次第だ」
「どう違いますか」
「通路が広けりゃ、二センチ三センチ出っ張っても人間は避けられる。狭い通路でそれだけ出たら、荷物を持った採集者が引っかかっちまう。それだけじゃねえ——水脈に近い場所は膨張が速い。壁が湿ってたら、床も湿ってる可能性が高い。出っ張りより先に足元を確認するんだ」
「第二層の採集導線でも確認しますか」
「あっちはもっとひでえぜ。来るか」
第二層への降り口を越えると、空気が変わった。壁の色が濃くなり、湿気が肌に絡みつく。採集区画の入口手前で、ガルムは足元を一度踏んで確かめた。
「昨日まで雨が続いた。今朝確認しておきたかった」
石畳が濡れていた。光石の反射でうっすら光っている。
「採集者が滑る場所というのは」
「だいたいここと、もう二か所。壁沿いの水路が近い場所だ」
ガルムが靴底を石畳の上でわずかにずらした。確認している動作だ。
「鉱泥を抱えて帰ってくる採集者は、荷物の重心が後ろにある。ここで転んだら、荷物ごと背中から水路に落ちるんだ。……俺は毎朝、ここに砂を撒いてから開場する。粗い砂だ。三日続けりゃ、靴底に砂が馴染んで滑りにくくなる」
「砂を撒かない日は」
「天気が二日以上続けて晴れた時だけ撒かない。毎朝、手で確認して決める。それだけのことだぜ」
レインは端末に書き込みを続けた。ガルムが語っていることは、経験則だが体系的だ。場所、条件、判断基準、対応。すべてがある。ただし、それが全部ガルムの頭の中にある。
「今日の話、記録させてもらいます。後で書式にします」
「書式?」
「ガルムが現場で決めたことを後から書き込む欄を作ります。何を書くかの枠はこちらで作るので、ガルムは枠を埋めるだけでいい」
「書き物は得意じゃねえ」
「箇条書きで構いません。書き方の例も一緒に入れます」
ガルムは少し黙った。
「……枠があるなら、埋めるくらいはできるぜ」
作業員小屋の前に戻ったのは、一時間後だった。レインは端末を開き、ノアを呼んだ。
「ノア。今日確認した内容と、王都の監査基準を並べてください」
緑の光が浮いた。
『了解しました。王都迷宮管理局の汎用安全基準、第五項から提示します。一、転落防止柵の設置。水路・段差・区画境界付近では高さ一メートル以上の柵を必要とします。二、採集導線の通路幅。最低一・五メートルの確保が必要です。三、安全灯の設置間隔。十メートルに一基以上。四、滑り止め施工。主要通路の全長にわたって施工が必要です』
ガルムは腕を組んだまま聞いていた。
「ガルム、どれが現状で対応できていますか」
「四番目は今もやってる。砂を撒くのが滑り止めだ。三番目も素材があれば縮められる。……問題は最初の二つだ」
「具体的に」
「柵を全部の水路に立てたら、採集者が大荷物を柵の内外で受け渡す動作が増えちまう。採集路の幅は場所によっちゃ一・二メートルしかねえ。そこに柵を立てたら、通り抜けができなくなる。……それだけじゃねえ。水路の横は鍾乳石が邪魔で、壁に穴が開けられない場所がある。そこに一メートルの柵を打ち込もうとしたら、壁ごと崩れる可能性があるんだ」
『通路幅一・五メートルの確保については、一部区画で鍾乳石の除去が必要です。除去作業が水脈に影響するリスクがあります』
ノアが補足した。レインは確認した。
「除去で水脈に触れた場合、整備した水の流れが変わりますか」
「水路に触れたら、第二層の水の流れが変わる。最悪、補修不能になる。俺は手をつけてねえ」
「そうなると通路幅の拡張は現実的にできない区間がある」
「そうだ。……そんなもんじゃ誰も入れねえ。王都の紙に書いてある通りにやろうとしたら、第二層の採集路は全面封鎖になっちまうぜ。今の形で機能してる採集路が、全部使えなくなる」
『封鎖対象となる区画のみを閉鎖し、基準を満たす区画だけで運用することは可能です』
「封鎖したら採集が成立しない区画がある。それが分かってない」
ノアが少し沈黙した。
「ノア、確認します。今の灰霧第二層の地形データを元に、柵設置の可否を判定してください」
『……第二層地形データを照合しました。鍾乳石が密集する二区画において、高さ一メートルの柵設置は物理的に不可能です。また通路幅一・五メートルの確保は、同区画を含む三区画において達成できません。……汎用基準の直接適用には、地形例外規定の追加が必要です』
ガルムが腕を組み直した。今度は少し違う組み方だった。緊張が少し解けている。
「ノア、認めてくれましたね」
『地形データが示している通りです。汎用基準が想定していない条件がありました』
「その上で一つ聞かせてください」とレインはガルムに向いた。
「柵について——王都の監査官が最初に確認するのは柵の有無だと言っていましたね。その柵を整備することと、今朝のような砂を撒く作業を続けることと、どちらが命を守りますか」
ガルムは少し間を置かずに答えた。
「そんな板一枚より、転んでも水路に落ちねえ足場が先だ。……いいか。柵があっても足場が滑ったら転ぶんだ。足場がしっかりしてれば、転ぶ前に止まれる。書類をどう整えようと、そこは変わらねえぞ」
一言一言が短かったが、言っていることは完全だった。
レインは端末を持ち直した。
「整理します」
ガルムが黙って待った。ノアの光も静かになった。
「三つに分けます。一つ目、監査基準。王都の監査で確認される項目——柵の有無、通路幅、灯りの間隔。これは灰霧迷宮として目指す水準です。今すぐ全区間に揃えることはできないが、到達目標として記録する。二つ目、運用基準。現場で実際に守っている基準——砂の撒き方、雨の翌朝の湿度確認手順、危険区間の一人ずつ通過ルール。これは今ガルムがやっていることを文書にする。三つ目、暫定許容範囲。監査基準にはまだ届かないが、運用基準で安全を担保できている状態——柵が設置できない区間において、なぜそこで足場対応を優先しているかの理由と実績を記録する」
ガルムはしばらく採集導線の方向を見ていた。
「……なるほどな」
ガルムは鼻を鳴らした。
「柵がねえことを言い訳するんじゃなくて、なんで足場を先にやってるかを並べる話か。……ハッ、そういう言い方ができるのか」
「対応していないではなく、この方法で対応しているという記録です」
「……分かった。やってみるぜ」
「ノアは基準から見ています。ガルムは現場から見ています。どちらも必要です」
「そうか」
短い返事だった。否定ではなかった。
レインは端末に書式の骨格を作り始めた。
「書式の形にします。項目は三つ。一、点検箇所と日付。二、確認した内容。三、判断と対応。……これを毎朝の点検後に埋めてもらえますか。長い文章は不要です。箇条書きで、何をどう判断したかだけ書けばいい」
「箇条書きなら書ける。慣れれば五分だ」
「最初は一緒に確認します。三日もあれば形が決まります」
ガルムは少し黙った後に言った。
「分かった。やる」
小屋の前に、午前の光が差し込み始めていた。開場まであと一時間ある。
レインが端末を整理しようとしたとき、セレスの声が届いた。
『管理者様。連絡が入りました』
「なんですか」
『王都側からの通知です。監査官代理の到着予定が変更になりました。当初の予定より二日早く、明後日の午前に到着とのことです』
レインは端末から目を上げた。
「……明後日」
ガルムがその言葉を聞いていた。腕を組んだまま、レインを見た。
「来るのか。早く」
「はい」
「書式、三日かけて固める予定だったな」
「明日の朝の点検に合わせて初稿を作ります。一日で形にします」
ガルムは少し黙った。それから鼻から短く息を出した。
「急かされるのは好きじゃねえが、仕方ねえ。明日の朝、いつも通り点検する。ついてくるなら、端末に書き込め」
「ありがとうございます」
「礼はいらねえ」
ガルムは採集導線の方へ歩き始めた。立ち去り際に一度だけ振り返った。
「一つだけ言っておく。王都から来た奴が柵を見て『これで安全だ』と思うなら、そいつは現場を知らねえ。書類を整えたって、足場の砂は俺が毎朝撒くんだ。そこは変わらねえぞ」
「記録に残します。ガルムの判断として」
「それでいい」
開場の鐘が、地上から響いた。




