第76話 ベルダの台帳は王都語を知らない
管理棟の小会議室に台帳が三冊広げられていた。
受付の主記録台帳。講習記録の補助台帳。帰還報告の受理記録。それぞれ几帳面な字で埋まっていて、並べると机の半分が塞がる。
ルカの黄色い光がその上をうろうろしていた。集計でもしているのか、光の動きが落ち着かない。
ベルダは腕を組んで、壁に寄りかかっていた。
「来たか、レイン」
「対応表の着手状況を確認しに来ました」
「着手は昨晩からしてるよ。ルカに先に変換フォーマットとやらを作ってもらったんだが、最初に出てきたやつが気になって、あんたに確認してもらいたかったんだ。……ルカ、さっき説明したことをもう一回やってくれ」
「はい!」
ルカが机の上に資料を広げた。整然とした変換表だ。
「王都書式の四項目に対して、灰霧式の各項目を最近似のものへ自動マッピングしました。入場者数は初回・再訪・商人・職人・見学の合計。収益は採集買取と外販の合算。安全違反件数は違反警告の件数。事故件数は帰還未確認の件数。これで全部の欄が埋まります。あとは数字を入れるだけです」
間があった。
「ルカ」
ベルダの声が静かになった。静かになった時のベルダの声は、怒鳴っている時より怖い。
「最後の二つ、もう一回言ってみな」
「え、えーと……安全違反件数は違反警告の件数。事故件数は帰還未確認の件数」
「あんた、うちの台帳を読んだのかい」
「読みました。全項目スキャンして件数も確認しました」
「読んだ上で、帰還未確認を事故件数に入れようとしてるのか」
「似てる項目として、一番近いのが事故件数だと——」
「似てない」
ベルダは腕を組み直した。
「ルカ、帰還未確認てのはね、まだ帰ってきたかどうか分からない人間の記録だよ。帰ってきたけど帰還報告を出しそびれた人間も入ってる。採集を終えて砦の外で野営した人間も入ってる。帰還報告のやり方をまだ覚えてなかった人間も入ってる。全部、翌日か翌々日には解消されてる記録だよ。事故を起こした人間の話じゃない」
「でも確認できていないなら、リスクとして分類した方が——」
「リスクとして管理してるから台帳に書いてある。それは認める。でも事故じゃない。帰ってきた事実があっても、帰還報告が出るまでは未確認のまま台帳に残るんだよ。……あんたの変換表で出したら、翌朝ちゃんと帰還報告を出してきた人間まで、王都の記録では事故扱いになる」
「……あ」
「違反警告も同じだよ」
ベルダは台帳を引き寄せ、違反警告の記録欄を指で示した。
「ここを見てごらん。日付、名前、警告の内容、対応の記録、解消日。この列全部が一件の話だ。……対応欄と解消日の列が見えるかい」
「見えます」
「警告を出した翌日に講習を受けて、白札に切り替えた人間の記録が何件ある」
ルカが件数を確認した。しばらく光の揺れが止まった。
「……七件、あります」
「その七件をあんたの変換表で出したら、七件の安全違反として王都の記録に残る。でもこの七件は、全員その後ちゃんとルールを理解して帰ってきてる。違反が出た、で終わった話じゃない。……うちは違反を出しただけでなく、対応して解消したという記録を台帳に取ってきた。それが全部消えて、数字だけが残る」
ルカは自分の変換表を見た。
「……意味を飛ばして数字だけ移そうとしてました」
「そういうことだ」
ベルダは台帳を閉じた。
「ルカ、あんたが悪いわけじゃないよ。王都の書式がそういう項目しか持ってないんだから、近いものを入れようとするのは分かる。分かるんだけどね——数字だけ移って意味が移らなければ、うちの台帳が王都に届いた時に、全然違うものになってしまう」
「違うもの、というのは」
「うちの台帳に書いてあるのはね、何人来て何件問題が出たか、じゃない。来た人間が帰ってきたか、問題が出た時にどう動いたか、それまで含めた運用の記録だよ。そこを切り取って四つの数字にしたら——違反がそこそこ多くて、事故も一定数あった迷宮の記録になる。うちが積み上げてきた証拠じゃなくて、うちの問題点の一覧書きになる」
レインはベルダの言葉を聞きながら、台帳を手に取った。
正確だ。台帳は違反警告が出た後にどう解消したかまで書いてある。帰還未確認が翌日に解消されたかどうかも書いてある。その文脈ごと移さなければ、台帳は証拠ではなく不利な記録になる。
「対応表を作ります」
レインは言った。
「台帳は書き換えない。灰霧式の項目と王都書式の項目のあいだに、翻訳の手引きを別紙で作る。どの項目が何に対応するのか、なぜ完全に対応しないのか、補足として何を一緒に読んでほしいのかを説明する」
「それ、向こうが読んでくれるかね」
ベルダは率直に言った。
「形式不備として返ってくるんじゃないか。王都の書式に合った欄が埋まってないと、説明書きがあっても見てもらえない可能性があるよ」
「その可能性はあります。だから対応表には、なぜ直接変換できないかの理由も書く。帰還未確認が事故と異なる理由。違反警告が解消記録を含む理由。書いた上で、対応する数字を別添で出す。形式上は欄を埋めつつ、文脈は別紙で守る」
「二重になるわけか。王都書式の欄と、その説明書きと」
「そうなります」
「手間は増えるね」
「増えます。台帳の意味が消えるよりはいい」
ベルダはしばらく台帳を眺めた。
「……分かった。対応表の作成は私がやる。ルカには変換後の数字の集計をやってもらう。どの欄に何を入れるか、どこに説明書きが必要かは、私が判断する」
「お願いします。各項目の現場での意味は、ベルダが一番分かっています」
「分かってるよ。分かってるから厄介なんだけどね」
ベルダはそう言って台帳を引き寄せた。
作業が始まった。
ルカが各台帳の数字を拾い、ベルダが一項目ずつ「これは何に近いか、何が違うか」を言葉にしていく。レインはそれを聞きながら、対応表の文言を整えた。
「帰還未確認」の項目から始めた。
「これを王都の書式で言うと、どこにも収まらないね。事故でも違反でも入場者数でもない。……追跡中の状態を管理している記録、ということになるか」
「補足欄に独立して出します。事故件数とは分けて、要追跡件数として記載し、内容と経緯は別添で説明する」
「それで通るかね」
「通るかどうかは相手次第です。ただ、事故件数に入れた場合、誤った数字が公式記録に残ります。それよりは別立てで説明した方が、後で訂正する余地がある」
「後で訂正できるように、ということか」
「先に間違えた記録を正すのは難しい。説明つきで出した方が、後で話し合える」
ベルダは少し考えてから言った。
「……それは確かだね。間違えた後で『実は違いました』は、余計に信用を落とす。最初から説明つきの方が、こちらの誠実さは伝わる」
「その通りです」
「じゃあ、この方向でいこう」
次は「違反警告」の項目だった。
「警告の総数と、解消した件数を分けて出せるかい」
「分けられます。警告発生件数、再教育後解消件数、未解消件数を三行で出す。対応の結果まで含めた形にします」
「王都書式にその三行分の欄はない」
「だから別添になります。王都書式の安全違反件数欄には警告の総数を入れ、別紙に内訳を添付する」
ベルダは「ふん」と短く言ってから、少し声の調子を変えた。
「……それ、真面目に読んだら、うちが違反を出しながらちゃんと対処してる、という資料になるね。ただ違反が多かった迷宮じゃなくて、違反を出した後に動いた迷宮として見える」
「それが目的です」
「でも読む気がない相手には、欄の数字だけ見て終わりになる」
「そのリスクは残ります。ただし、読む気がある相手が見た場合に、灰霧式の対応の丁寧さが伝わる形にしておく。……どちらの相手が来るかは、今の時点では分かりません」
ベルダはそれを聞いて、少しだけ表情を緩めた。
「正直な言い方だね。……続けよう」
最後は「帰還報告受理件数」だった。
「これは、王都書式のどこにも対応する欄がない。入場者数に合算しようとしても、入場した全員が報告を出すわけじゃないから数が合わない。収益でもない。事故でも違反でもない」
「独立した資料として別添で出します。灰霧迷宮では帰還報告を安全確認の基本として運用しており、受理件数の推移が安全水準の指標になる、という説明をつけて」
ベルダはそれを聞いて、少し間を置いた。
「……帰還報告の説明が必要なのかい。これはうちでは当たり前だと思ってたけど、王都の書式には最初からない概念なんだね」
「他の迷宮では一般的ではない運用です。だから項目がない。……だからこそ、説明する価値がある。灰霧迷宮の運用の独自性として」
「独自性、ね」
ベルダはそう言って台帳を閉じた。少しの間、机の上を見ていた。
「運用が変わってから、最初はただ手間が増えると思ってた。帰還報告も、講習記録も、違反の後の対応記録も。毎日一行ずつ増えていくから、台帳がどんどん厚くなっていって。……でも、それが全部、こういう時に説明できる材料になってる」
レインは何も言わなかった。
「まあ、手間が増えた分、意味も増えた、ということかね。今回も」
台帳の向こうで、ルカが集計の数字を並べ終えた。
対応表の骨格ができたのは、正午を回ったころだった。
六項目。王都書式の欄に入る数字の一覧。それぞれの項目に対する灰霧式分類との差異の説明。補足として別添する資料の一覧。
ルカが数字の集計を担当し、ベルダが意味の確認をし、レインが文言を整えた。
「これ、実際に王都へ送るとして、どのくらい読んでもらえるかな」
ベルダは完成した対応表を眺めながら言った。感想でも愚痴でもなく、実務的な確認の声だった。
「相手次第です。形式を見るだけなら、別添は読まれない可能性がある。内容を見る気があるなら、補足まで読む」
「どちらに当たるかは分からない、ということか」
「今の時点では。ただし、欄が埋まっていれば形式上は通る。中身が読まれれば灰霧式の運用が伝わる。どちらの相手でも最低限の役割は果たせます」
「二段構えということだね」
ベルダは対応表をひとつ手元に置いた。
「……私は台帳をこの形で作ってきたのは、誰かに説明するためじゃなかった。来た人間が帰るまで追いかけるために、それが分かる書き方をしてきた。でも結果的に、説明できる形になってたということかね」
「台帳を現場で丁寧に作り続けてきたからです」
「褒めてもらっても、明日の受付は変わらないけどね」
ベルダはそう言って立ち上がり、台帳を棚へ戻した。
「次は何をする必要がある」
「安全基準の記録を整理します。ガルムの担当している現場安全の部分も、王都側に説明できる形にする必要があります」
ベルダは少しだけ苦い顔をした。
「ガルムか」
「問題がありますか」
「問題というか……ガルムの安全基準ってのは、たとえばこの通路の角を一メートル手前から足音を変える、とか、この天井のひびが先週より増えてたら支柱を足す、とか、そういう話だよ。毎日現場を歩いて、体で覚えてきたやつだ。それを紙に書いてくれ、と言っても、ガルム自身が困ると思う」
「足音の変え方、というのは」
「水音が変わった時のこと。床板が浮いた時のこと。そういうのを感覚で拾ってるんだよ、あいつは。長年現場にいたからの話で、どうやって紙に落とすか、私にも分からない」
レインは少し考えた。
「直接聞きに行きます」
「行ってみな」
ベルダは窓の外に目を向けた。午後の砦の音が聞こえる。
「ガルムが何て言うか、楽しみにしてるよ。あいつ、自分のやってることを言葉にするのは得意じゃないから」




