第72話 育つ迷宮の噂
朝の受付棟の前に、五本の列が並んでいた。
初回来訪者、再訪者、商人、職人、見学者。
ひと月前には全員が同じ一列に押し込まれ、怒号が飛んでいた場所だ。今日はそれぞれが自分の列を探し、並んでいる。完全に整然とはしていない。入口の紙の前で少し迷う人間もいる。だがベルダのところまで届く怒鳴り声は、少なくとも今朝は聞こえていない。
ベルダは台帳を開きながら、右列と左列を交互に見た。
「……流れてる」
独り言だったが、隣でルカが聞いていた。
『流れてますね。昨日の朝と比べると、受付通過の平均時間が四割短縮されました。再訪列は特に早い。ベルダさんの台帳更新も、前日比で三割早くなっています』
「自分の仕事を数字で言われると、なんか嫌だね」
『褒めてるつもりだったんですが』
「分かってる」
ベルダは台帳に最終来訪日の欄を確認しながら、黙って次の来訪者を呼んだ。
第一層の入口近くの通路で、リナが新人の冒険者に向かって立っていた。
今日来たばかりの若い男が二人、講習を終えて白札を受け取り、見学区画に足を踏み入れたところだった。
「退避線の矢印は、どこを向いていますか」
リナが問うと、一人が壁を見た。少し間があって「出口の方向です」と答えた。
「どうやって確認しましたか」
「矢印が向いている先を目で追ったら、入口の光が見えました」
「それで合っています。暗くなっても光がある方向が出口だと覚えておくとさらにいい。光石は退避線に沿って置いてあります」
もう一人の男が手を挙げた。
「帰還報告は、必ず戻ったその日にしないといけないですか」
「その日のうちに、受付の帰還報告カウンターに出してください。仮札の場合は当日中の提出で白札に切り替わります。翌日以降になると失効します」
「もし遅くなったら」
「受付に相談してください。事情によっては当日扱いにできる場合があります。ただし、報告がないまま次の日に来ると再講習になります」
男は少し考えてから「分かりました」と言い、もう一人と一緒に見学に向かった。
リナはその後ろ姿を見ていた。二人とも、壁の矢印を確かめながら歩いていた。聞いたことを、すぐ体で確かめている。それでいい。
荷捌き場の端に設けられた仮の報告書確認机では、ヤルゼンが若手の帰還報告書を順番に読んでいた。
今日で最後の訓練日だった。明日の朝に砦を出てカルデン市へ戻る予定になっている。
六枚の報告書を読み終えたとき、ヤルゼンはソラの書いたものを取り出して、もう一度読んだ。
採集量ではなく、通路の状態が書いてある。壁の感触と、光石の明るさの変化と、折り返しの理由。討伐した魔物の数は一行しかない。他の五人の報告書では討伐数が一番多く書かれていたが、ソラの報告書ではそれが一番短い。
「カイル」
ヤルゼンが呼ぶと、荷物をまとめていたカイルが近づいた。
「お前の報告書と、ソラの報告書を並べて読んでみろ」
カイルは渡された二枚を並べ、少し読んだ。
「……俺の方が討伐数が多いですが」
「それ以外は」
カイルはもう一度読んだ。今度は少し時間をかけた。
「ソラは、壁の状態を書いています。俺は書いていない」
「どっちが役に立つ」
「……次に来た人間には、ソラの方が役に立ちます。俺のは、自分の記録にしかならない」
ヤルゼンは報告書を取り戻して重ねた。
「お前が次に来るとき、ソラの書き方で書いてこい。……そうすれば、俺はお前に次の枠を割り当てる」
「次に来られるということですか」
「条件を守れば来られる。台帳に名前を出す、事前に申請する、帰還報告を当日に出す。それだけだ」
カイルは頷いた。最初にこの砦に来たときのような、焦りと反発の混じった顔ではない。少し違う顔だった。
昼過ぎ、バロスが管理棟に立ち寄った。
恰幅のいい体で入口に立ち、珍しく前置きなく本題に入った。
「管理者殿、一つ聞きたい。今月の出荷実績だが、灰霧産鉱泥の買い付けを増やしたいと言ってくる商会が二件出ている。どちらも王都の商会だ」
「名前は」
「一件はベルナ商会。真っ当な取引をする商会だ。もう一件は……」バロスは少し間を置いた。
「セドリック・ヴェインの伝手で動いている商会だと聞いている」
レインは端末を置いた。
「増やせる量はないです。内部留保分と既存契約分を確保すると、現在の採掘量では余剰がない」
「そうだろうと思った。……ただ、向こうは相場より高い値を出すと言っている。その分、量を無理してでも出す気はないか、と」
「ありません。量を無理すれば補修材が底をつきます。補修材が底をつけば来月の採集量が落ちます。来月落ちれば再来月の余剰も出ない。……短期で高く売って長期で詰まるのは、やりません」
「分かった。断る」
バロスは特に反論せず、手帳に何かを書いて帰ろうとした。そこでふと振り返った。
「セドリックの伝手で動く商会が買い付けに来たということは、セドリックはここの鉱泥を確保したいと思っている。……直接来ないのは、お前が断ることを知っているからだろう」
「知っているから別の経路を使っている、ということですか」
「そういうことだ。……管理者殿、あの男は諦めないよ。ただし、仕組みが壊れれば自分も損をすると分かっているから、今はまだ正面から崩しには来ない」
バロスはそれだけ言い残して出ていった。
夕方になると、砦の広場に少しずつ人が戻ってくる時間になった。
採集から帰ってきた冒険者が洗い場に寄り、荷捌き場に素材を持ち込み、帰還報告を出す。宿舎の炊き出し区画から夕食の匂いがしている。マルテが工具袋を持って仮置き場の確認をしている。宿舎棟の前でエルメアが足を引きずって帰ってきた若い男を呼び止め、靴の中を確認している。
レインはそれを管理棟の窓から見ていた。
セレスに声をかけた。
「今週の数字を出してください」
『はい。初回講習受講者、週合計で十二名。うち通過十名、再確認後通過一名、辞退一名。再訪者の受付通過平均時間、二分四十七秒。帰還報告の当日提出率、九十一パーセント。違反記録、今週はゼロです』
「先週比で変化があった項目は」
『帰還報告の当日提出率が、先週比で十二パーセント上がっています。仮札の失効件数が、先週の三件からゼロになりました』
「仮札の失効がゼロになったのは、仮札の意味が分かってきた人が増えたからですか、それとも単純に今週の受講者が良かっただけですか」
『判断するには週数が足りません。来週も同じ傾向が続いた場合、定着と見なせます』
「分かりました」
レインは窓から広場に目を戻した。
数字は数字だ。それだけでは分からないことがある。ベルダの顔が少し楽になっていること。ガルムが今日の点検で特に問題を報告してこなかったこと。リナが新人に説明しながら、以前より迷わなくなっていること。そういうことが、数字より先に見えている。
ヤルゼンが砦を出る前日の夜、管理棟に立ち寄った。
「明日出発する前に、一つ伝えておきたいことがある」
「どうぞ」
「カルデン市に戻ったら、冒険者組合の代表に報告書を上げる。若手の訓練として灰霧迷宮を使った件について。……その報告書の中に、仮条件書の内容を添付していいか」
「構いません。ただし、条件書は仮のものです。変更になる可能性があります」
「それは注記する。……報告書の性質上、組合の代表だけでなく、書記の人間も目にすることになる。そこから先は俺には制御できない」
レインは少し間を置いた。
「どのくらい広がると思いますか」
「分からん。ただ、カルデン市の組合は他の都市の組合とも定期的に情報交換をする。その場で話が出れば、興味を持つ教導係が出てくる可能性はある」
「灰霧迷宮が他の都市の冒険者組合にも知られる、ということですか」
「そういうことだ。……良い知らせとして伝えるつもりだが、そこから先は俺の責任の外に出る」
ヤルゼンは短く言い、それから少し違う声で続けた。
「迷惑だったか」
「いいえ」
「条件が同じなら来ていい、と言うのか」
「条件が同じなら来ていいです」
ヤルゼンは少し考えてから「分かった」と言って立ち上がった。
その夜遅く、セレスから短い報告が入った。
『管理者様。本日の砦を通過した商人の一人が、ハルメ街道の東側の宿場で、他の旅人に灰霧迷宮の話をしていたことが、バロス商会の荷運び人から伝わりました。内容は「初心者が死なずに採集できる迷宮がある」というものです』
「正確ですか」
『「死なずに採集できる」という部分は正確ですが、「誰でも安全に稼げる」という意味合いで伝わっている可能性があります』
「また誤解が広がる方向ですね」
『はい。同じ内容が、異なるニュアンスで広がっています』
レインは端末に短くメモした。
評判は制御できない。一度外に出た言葉は、届く人間のところで形が変わる。「死なずに学べる」が「楽に稼げる」になって戻ってくる。それは今月だけのことではなく、これからも繰り返す。
制御できないなら、受け皿を整えるしかない。来た人間が最初に触れる言葉を、できるだけ正確にする。受付の入口に貼ってある紙。講習の最初の一言。それを何度でも調整する。
『もう一件あります』
セレスが続けた。
『本日、カルデン市の冒険者組合からベルダさん宛てに書状が届いています。ヤルゼン殿を通じたものではなく、組合の書記名義です。内容は、灰霧迷宮との正式な利用契約についての打診です』
レインは端末を持ち直した。
「ヤルゼン殿が出発前に話していた通りですね」
『はい。ただし、添付されていた書類を見ると、組合側は単なる利用契約だけでなく、訓練導線の運用方針についても確認したい意向があるようです。……また、書状の末尾に一行だけ、「本件は組合代表の他、王都側の冒険者管理部門にも共有済み」という記載があります』
王都側の冒険者管理部門。
レインは少し黙った。
「共有済み、ということは、向こうはもう知っている」
『はい。知った上での打診である可能性があります』
ベルダが台帳を整理する音が廊下から聞こえた。荷捌き場では最後の帰還報告が締め切られ、マルテの工具袋が仮置き場に戻された。
今日の砦は問題なく回った。列は流れ、報告書は提出され、違反はゼロだった。
その一方で、砦の外では、今日も誰かが灰霧迷宮の話を旅人にしている。その話の形が、この砦の言葉とどれだけ近いかは、誰にも分からない。
翌朝、ヤルゼンと若手六人が砦の門を出た。
見送りにはベルダとガルムが出た。ガルムは腕を組んで立っているだけだったが、ヤルゼンが隣を通るとき短く言った。
「次は報告書の書き方が変わってる奴を連れてこい」
「善処する」
ヤルゼンは短く返し、歩き続けた。
カイルが砦の門を通り過ぎる直前、振り返ってリナを見た。リナは荷捌き場の横に立ち、今日の採集者の出発を確認しているところだった。
カイルは何も言わなかった。ただ一度だけ、軽く頭を下げた。
リナも頷いた。それで終わりだった。
ヤルゼンの一行が街道の向こうに見えなくなったとき、レインは管理棟に戻り、机の上に置いてあった書状を手に取った。
カルデン市冒険者組合からの正式な打診。末尾の一行。王都側の冒険者管理部門に共有済み。
仮制度が回り始めたことで、次の問いが来た。
今日まで整えてきたことは、外の誰かの目に届いている。その目が何を考えているかは、書状一枚では分からない。
レインは端末を開き、ノアを呼んだ。
「書状の内容を精査してください。特に、訓練導線の運用方針の確認、という部分と、王都側への共有という記載について、含意がどれだけあるかを確認します」
『了解しました。精査します。……管理者様、一つ申し上げてもよいですか』
「どうぞ」
『今まで整備してきた制度は、灰霧迷宮の内側を守るためのものでした。書状が示すのは、その制度の外側から圧力がかかり始める可能性です。守る対象が変わります』
レインは端末を机に置いた。
「分かっています」
窓の外では、今日も受付の列が動いている。初回の列、再訪の列、商人の列。流れている。整いつつある。
だがその背後では、灰霧迷宮の評判が、制御できない速度で外へ広がっていた。




