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第71話 灰霧迷宮は貸し出さない

 朝の受付棟は静かだった。

 昨日の訓練の翌日は、いつも少し落ち着く。帰還報告を終えた利用者が一段落し、次の来訪者が入り始めるまでの間の時間だ。ベルダが台帳を整理し、ルカが前日の記録を集計している。


 そこにヤルゼンが来た。

 単独で、手ぶらで、昨日より少し険しくない顔で。受付棟の扉を開け、レインの姿を見つけてまっすぐ近づいた。


「時間があれば、改めて話をしたい」


「今でも構いません」


 レインは端末を閉じた。ベルダが台帳から顔を上げてヤルゼンを見たが、何も言わずに視線を戻した。

 小会議室へ移った。


 ヤルゼンは椅子を引いて座り、腕を組んだ。それから少し間を置いて話し始めた。


「昨日の訓練のことを、若手六人から個別に話を聞いた。……全員、自分が何を見ていなかったかを言えた。それはここに来る前には、できなかったことだ」


「それは聞いて良かったです」


「俺が聞きたいのは、そこから先の話だ」とヤルゼンは続けた。


「カルデン市には、俺が教導係を担っている若手が今年だけで二十人いる。来年も似たような数が入る。毎年、事故で三人か四人を失う。……ここを定期的に使えれば、その数が変わるかもしれない」


 二十人。

 レインは端末を開き、セレスに現在の訓練枠の稼働状況を確認させた。


『現在の訓練枠受け入れ可能数は、一回あたり最大八名。週に二回が上限です。教導係の同行が必須条件。ドルクさんの点検スケジュールと連動しているため、日程は固定できません』


 ヤルゼンの提案する規模と、今の処理能力の間には大きな開きがある。


「二十人を、どのくらいの期間で育てるつもりですか」


「できれば半年以内に全員、第一層の訓練を一通り経験させたい。第二層見学もできれば」


「今の枠では、無理です」


 ヤルゼンの眉が少し動いた。反論ではなく、数字を計算している顔だった。


「理由を聞いていいか」


「一回あたり八名、週二回が限度です。それ以上入れると、ガルムが全員を見られない。導線の説明が行き届かない。帰還報告の処理が詰まる。……どれかを削れば処理できますが、削った部分が事故の原因になります」


「教導係の俺がいれば、人員は補えるはずだ」


「ヤルゼン殿が見られる範囲と、この砦の運用が保証できる範囲は別です。ヤルゼン殿は若手の指導のプロフェッショナルですが、灰霧迷宮の退避線の位置と補修状況と、今日の湿度変化がどこで起きているかを把握しているのは、ガルムとドルクさんです」


 ヤルゼンは少し黙った。


「……要するに、貸せないということか」


「貸すという概念が合いません」


 ヤルゼンが少し目を細めた。


「貸す、という言い方が問題なのか」


「問題があります」とレインは言った。感情的ではなく、整理している声で。


「灰霧迷宮を訓練所として借りるということは、使い方をヤルゼン殿側が決める、という意味になります。……それはできません」


「俺が使い方を決めるつもりはない。ただ定期的に場所として使わせてほしいということだ」


「場所として使う、ということは、誰がどのように使うかをヤルゼン殿側が裁量する、という意味になります。それも違います」


 ヤルゼンが少し考えた。


「では、どういう形なら可能だと言うのか」


「灰霧迷宮の利用ルールを守る者なら、利用できます。ヤルゼン殿の若手であっても、一般の来訪者であっても、条件は同じです」


「それは既に分かっている。講習を受けて、報告札を持って、帰還報告をする。それを守ると言っている」


「守る、という口約束ではなく、仕組みとして組み込む必要があります」


 ヤルゼンは腕を組んだまま、しばらく机の上の端末を見ていた。

 レインはノアを呼んだ。


「外部教導係の登録条件について、整理してください」


『はい。現在の案として以下を提示します。一、外部教導係として砦台帳に登録する。二、引率できる人数の上限を定める。三、引率する全員が事前講習を修了していることを条件とする。四、訓練中に発生した違反は、教導係の連帯責任として記録する。五、違反が一定数を超えた場合、次回の訓練枠を停止する』


「五番、違反の連帯責任について」とヤルゼンが口を開いた。


「若手が違反したとき、俺の訓練枠も止まるのか」


「そうなります」


「それは厳しすぎる」


「若手の行動の責任が教導係にある、と言うなら、そうなります。若手の行動の責任が若手本人にあるなら、違反者個人の資格を停止する形にできます。どちらを選びますか」


 ヤルゼンは少し間を置いた。


「……若手本人の責任、という方向にしたい。ただし、教導係として俺が適切に管理できていなかった場合は、俺の登録にも記録が入る」


「それは妥当な線引きです。ノア、そのように整理してください」


『了解しました。修正します。……ただし、「適切に管理できていなかった」の判定基準を明文化しないと、解釈の余地が生まれます。基準が必要です』


「ヤルゼン殿、具体例を出してもらえますか。どういう状況で管理不足と判断されることを懸念していますか」


「……たとえば、俺の目が届かない場所で若手が動いた場合だ。俺が前を見ているとき、後ろの一人が列を外れたとする。それは俺の管理不足か、若手の違反か」


「ルカ、訓練中の教導係の行動記録はどこまで残せますか」


『訓練導線に設置している光石の反応記録で、おおよその位置履歴は取れます。教導係がどこにいたかは分かります。ただし、細かい視線方向や注意の向きまでは記録できません』


「ならば教導係の位置記録と、違反発生位置を照合して、物理的に視野内にあったかどうかを基準にします。視野外で発生した違反は若手本人の責任。ただし、教導係が訓練導線の規定位置を外れていた場合は管理不足として記録する」


 ヤルゼンはしばらく考えた。


「……それなら飲める」


 人数枠の話に戻った。


「半年で二十人というのは、今の枠では無理だと言った。では、どうすれば現実的か」


「セレス、今の訓練枠の上限を変えずに、二十人を処理するとしたら最短でどのくらいかかりますか」


『週二回、一回八名の枠を最大限使い、かつヤルゼン殿の若手を優先枠として扱った場合、二十名の訓練完了まで最短で十週間から十二週間かかります。ただし既存利用者との調整で、優先枠を設けること自体に摩擦が生じる可能性があります』


「十二週、か」とヤルゼンが呟いた。


「それは受け入れられる範囲だ。……ただし、優先枠について既存利用者が不満を持つというのは?」


「今の枠は先着順です。ヤルゼン殿の若手に優先を設けると、一般の来訪者が後回しになります。不満は出ます」


「解決策は?」


「週の訓練枠を増やすか、優先枠の代わりに別の時間帯を設けるかです。ただし枠を増やすにはガルムとドルクさんの稼働が前提で、今すぐは難しい」


 ヤルゼンが少し考えてから言った。


「最初の三ヶ月は、俺の若手は朝の早い時間帯に入れてくれないか。他の利用者が動く前の時間だ。その代わり、俺の若手の帰還報告は必ず俺が確認して、午前中に提出する」


 レインは端末でガルムのスケジュールを確認した。朝の早い時間帯なら、前日の補修確認が終わった後に入れる。ドルクの点検とも干渉しない。


「ガルムに確認しますが、それは可能です」


「人数は一回に最大六名にする。八名ではなく六名だ。俺一人で見られる実質的な限界がそこだ」


 その言葉は正直だった。レインは少し表情が変わらないよう気をつけながら、端末にメモした。

 教導係が自分の限界を言える人間、というのは珍しい。


 ベルダが小会議室に入ってきたのは、話が中盤を過ぎたころだった。

 台帳を持ち、入口に立ったまま二人を見た。


「聞いてていいかい」


「どうぞ」


 ベルダは椅子を引かずに立ったまま、台帳を開いた。


「外部教導係の登録、受付で何が必要か確認したい。名前と所属と連絡先は当然として、あとは」


「引率できる人数の上限と、担当した若手の名前と訓練日を記録します。違反があった場合は教導係の欄にも記録が入ります」


「违反の記録は、教導係本人にも見せるのか」


「見せます。記録を共有しないと、改善できません」


 ベルダは台帳に書き込んだ。


「ヤルゼン殿、カルデン市冒険者組合の組合証か、そこに準ずる証明書を次回来たときに持参してもらえるか。受付での登録に使う」


「持参します」


「それと、若手全員の名前を事前に出してくれ。訓練日の前日までに名前が台帳に入っていない者は入れない。当日飛び入りは受け付けない」


「厳しいな」


「事前に名前が入ってないと、帰還報告の照合ができない。入ったけど名前がない人間がいたら、帰ってきたかどうか確認する方法がなくなる」


 ヤルゼンはそれを聞いて、何も言わなかった。反論ではなく、納得した顔だった。


「……分かった。前日までに名前を出す」


 話がひと段落したところで、ヤルゼンが少し間を置いてから口を開いた。


「一つ聞いていいか」


「どうぞ」


「なぜここまで条件を細かくする。他の迷宮は、金を払えば入れるところがほとんどだ。教導係がついていれば、なおさら緩い」


 レインは少し考えてから答えた。


「死ぬからです」


 短く、ただそれだけだった。


「条件が緩ければ、知らずに進んで死ぬ人間が出ます。それはここでも起きました。直近でも、壁の湿度変化を見ていなければ、昨日折り返さなかった」


「それはリナが気づいたことだ」


「リナが気づいたのは、報告書の書き方を変えたからです。変えたのは、ガルムとドルクさんに話を聞いたからです。その話を聞けたのは、ここに通って帰還報告を続けたからです。……一つ省けば、どこかで切れます」


 ヤルゼンは少し沈黙した。


「それを若手に伝えるのは難しい」


「ええ。だから条件として外側から与える。守っている間に、意味が分かる。……カルデン市で三人か四人を毎年失う、と言っていましたね。その人たちは、どこで何を見ていなかったと思いますか」


 ヤルゼンの手が、机の上で少し止まった。


「……変化を、見ていなかった。それだけだ。強い弱いじゃない。足が動いた後に、目が止まっていた」


「昨日のカイルと同じです」


「……ああ」


 短い一言だったが、ヤルゼンにはかなりの重さで届いたようだった。

 話が終わり、ヤルゼンが立ち上がった。椅子を引き戻し、少し間を置いてから言った。


「条件を飲む。登録して、枠を取って、名前を出して、帰還報告を出す。全部従う」


「ありがとうございます。正式な仮条件書をノアに作らせます。次回来訪前に、受付で確認してください」


「分かった」


 ヤルゼンは扉に向かいかけ、途中で振り返った。


「一つだけ余計なことを言わせてくれ」


「どうぞ」


「カルデン市に戻ったら、何人かの教導係仲間に話す。ここでやっていることを。……来るかどうかは分からないが、聞きたがる人間がいると思う」


 レインは少しだけ黙ってから言った。


「来た場合も、条件は同じです」


「分かってる」


 ヤルゼンは口の端を少し動かして、小会議室を出た。

 ベルダが台帳を閉じて、レインを見た。


「ヤルゼン殿が仲間に話すと言っていたね」


「聞こえていましたか」


「廊下にいたから聞こえた。……レイン、あれは噂が広がるということだよ」


「分かっています」


「今度は、ヤルゼン殿みたいに話が分かる人間だけじゃなく、もっと面倒な人間が来る可能性もある」


「来た場合も、条件は同じです」


 ベルダはそれを聞いて、少し笑った。ヤルゼンに言ったのと同じ言葉をレインが繰り返したことが、おかしかったらしかった。


「……何があっても同じ条件にするのか、お前は」


「条件が人によって変わると、条件の意味がなくなります」


「まあそうだね」


 ベルダは台帳を棚に戻しながら続けた。


「じゃあ受付側も、同じことを繰り返せる準備をしておかないといけないね。また来るんだろう、似たような話が」


「来ると思います」


「台帳の様式、もう一列増やす。外部教導係の欄を別ページに分けておく。そっちの方が見やすい」


「お願いします」


 その夜、ノアが仮条件書の草案を出してきた。

 外部教導係登録の条件が七項目にわたって書かれていた。レインは読んで、三箇所ほど修正を入れた。「違反三件で登録停止」を「違反の内容によって判断する」に変えた。「帰還報告の遅延は即時違反」を「帰還報告は訓練当日中に提出」に変えた。


『修正内容について確認します。「違反の内容によって判断する」は、基準の曖昧化につながりますが、よろしいですか』


「基準の厳密化より、裁量の余地が必要な場合があります。全部杓子定規にすると、ガルムが現場で判断できなくなる」


『……了解しました。ガルムさんの現場判断を補助する形で、基準の補足説明を付記します』


「それでお願いします」


 ルカが割り込んだ。


『管理者さん、仮条件書、完成したらヤルゼン殿の他にも同じ案内状を送れる形式にしておきますか。次に同じ話を持ってくる人間がいたとき、毎回説明し直す手間が省けます』


「良い案です。ベルダが渡せる形にしてください。渡す際に一言添えてもらうだけでいい」


『了解です。ミストさん、書式を頼みます』


 ミストがすぐに返した。


『もう作ってる。見やすくしておくからね。……でも一つだけ聞いていい?』


「なんですか」


『条件を同じにするって言うけど、ヤルゼン殿みたいに理解してくれる人ばかりじゃないでしょ。もっと難しい人が来たとき、条件書だけで対応できると思う?』


 レインは少し間を置いた。


「対応できないかもしれません。その場合は、その場で判断します」


『それ、準備じゃなくて行き当たりばったりじゃない?』


「対応しきれない状況を全部事前に想定することは不可能です。ただし、対応の原則だけは守ります。条件が人によって変わらない、判断の根拠を残す、約束は書面にする。……それだけあれば、何が来ても出発点は同じです」


 ミストは少しだけ沈黙した。


『……なるほど。原則が軸なのね』


「そうです」


 翌朝、受付棟の入口に一枚の紙が増えた。

 「外部教導係の方へ」という見出しがついた、仮条件書の要約だ。ミストが文字の配置を整え、ベルダが必要な部分に砦の署名を入れた。


 ヤルゼンの若手が砦を出ていく準備をしている時間、カイルがその紙の前に立った。しばらく読んでいた。

 ソラが隣に来て、一緒に読んだ。


「厳しいな、全部」とカイルが言った。


「守れる内容だよ」とソラが答えた。


「講習、帰還報告、名前の事前登録。どれも、やれないことじゃない」


「守れるかどうかじゃなくて、細かすぎるって話だ」


「細かいのと、守れないのは違う」


 カイルは少し口を閉じた。

 ソラはそれ以上言わず、荷物をまとめに行った。


 受付棟の外では、ヤルゼンがベルダと来週の日程を確認していた。台帳に名前が書かれていく。ヤルゼンの文字は大きくて、少し崩れていた。教導係の仕事で慣れた、慌ただしい書き方だ。

 レインはそれを少し離れた場所から見ていた。


 噂は広がる、とヤルゼンは言った。灰霧の条件を話す、と言った。来るかどうかは分からない、とも言った。

 来た場合も、条件は同じだ。


 それ以外に準備できることは、条件書を読みやすくして、受付の台帳を整えて、ガルムの判断を記録に残しておくことだけだった。それで十分かどうかは、来てみなければ分からない。

 ただ、今日の時点でできることはした。


 レインは端末を開き、今日の記録を書き始めた。

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