第70話 撤退判断を見る訓練
朝の光が第一層の入口に差し込む時間、六人の若手が訓練区画の手前に並んでいた。
全員が講習を通過し、白札を受け取った。帰還報告も一度経験した。ヤルゼンへの申請が受理されて、今日が最初の実地訓練だ。
レインはその場にはいない。観察の役はリナとガルムに任せ、自分は地上で全体を把握する側に回った。入口の横に立ち、端末を開いてセレスと繋いでいる。
リナは六人の顔を見渡した。カイルを含めた若手全員だ。ここに来た最初の日より、少しだけ顔つきが変わっている。青線の件があったからだろう。それでも、どこかに「ここは第一層だから」という余裕が見える。
ガルムは先頭に立ち、腕を組んだまま全員を見た。
「今日の訓練の前に一つ聞く。お前たちは今日、何のためにここに入るか」
若手が顔を見合わせた。一人が答えた。
「魔物の討伐で経験を積むため、ですか」
「違う」
ガルムは即座に答えた。
「魔物を倒すだけなら、別の迷宮でもできる。今日ここで見るのは、お前たちが自分で判断を下せるかどうかだ。……どこで止まるか、何を確認するか、仲間に何を伝えるか。それだけだ」
若手の一人が小さく首をかしげた。倒すためではないという答えを、まだ飲み込めていない顔だった。
訓練区画に入って最初の十分は、静かに進んだ。
緑の退避線が壁に続いている。足元の石畳は補修済みで、段差がない。光石が均一に並び、視界は確保されている。
若手は一列になって歩いた。先頭がカイル、後方がソラだった。カイルは足元より前方に目が向いている。壁の退避線を確認している様子がない。
第一層の浅い区画に入ると、小型の魔物が二体、通路の脇の物陰にいた。
ゴブリン種だが、大きさは小さい。よく見ると一体はすでに傷を負っていて、別の何かにやられたあとらしかった。
カイルは剣の柄に手をかけた。
「行きます」
そう言って前に出かけた瞬間、ガルムの声が飛んだ。
「待て」
「でも魔物が」
「足元を見ろ」
カイルは足を止め、視線を落とした。
通路の右側、自分が踏み込もうとしていた場所の石畳が、周囲とわずかに色が違う。補修の痕跡ではない。下からの湿気で石が変色している。踏み抜く危険がある場所ではないが、走り込んで重心がずれれば足を取られる。
カイルは一拍置いてから「……確認しませんでした」と言った。
「どこを通れば安全か」
「左側です」
「行け」
カイルは左側から魔物の前に出て、二撃で仕留めた。剣筋は速い。戦闘自体は問題ない。
ガルムはその様子を見たが、何も言わなかった。褒めることも、指摘することも。
しばらく進んで、訓練区画の中間まで来たところで、リナが立ち止まった。
壁に向かい、指で石を触れた。退避線の矢印の隣の部分だ。
「……ガルムさん、少しいいですか」
ガルムが近づいた。
「この壁、さっきより湿ってます。来るときに確認した感触より重い」
「いつ気づいた」
「一つ前の曲がり角を過ぎてから、空気が変わった気がして。今ここで確かめました」
ガルムは自分でも壁に触れた。指の腹を押し当て、少し時間をおいた。
「……ああ、変わってる」
ガルムは通路の上を見上げた。天井の石に細い筋が走っている。昨日の点検では問題なかった場所だが、一晩で変化した可能性がある。
「今日の朝に雨が降った」
「それで水が来てますか」
「可能性はある。……今日はここで止める」
若手が通路の後ろから聞いていた。カイルが口を開いた。
「えっ、ここで止まるんですか。まだ先があるのに」
「ある。だから止まる」
「でも魔物は全部倒しましたし、足場も確認してきました。先に問題はないと思いますが」
「先に問題があるかどうか、今の段階では分からん。それが理由だ」
カイルが少し眉を寄せた。納得していない顔だが、反論の根拠を探している様子だった。そこへ別の若手が続いた。
「カイルの言う通り、まだ行けると思います。折り返す理由が弱い気がします」
「理由が弱い、とはどういう意味だ」
「何か起きたわけじゃないですよね。壁が少し湿ってるだけで」
「少し湿ってる、が変化だ。変化の原因が分からないときに前へ進む理由があるか」
若手は答えられなかった。
ガルムはそこで一度、全員を見回した。
「今日、ここに入る前に俺は聞いた。何のために来たか。……魔物を倒しに来たなら、確かにまだ先がある。だが今日の訓練は、何を見るためだと言った」
誰も答えない。
答えたのはリナだった。
「どこで止まるかを見るための訓練です」
ガルムは頷いた。
「引き返すのも判断の一つだ。引き返した後で問題がなかったとしても、判断は間違っていない。変化を見て止まった。それだけで今日の訓練として十分だ」
全員が帰還導線に従って入口方向へ戻り始めた。
カイルは歩きながら、ガルムの後ろについていた。後ろから見ていて、ガルムの足の運び方と、壁の確認の仕方が自分と違うことに気づいた。ガルムは歩きながらも視線が広い。前だけを見ていない。
「ガルムさん」
「何だ」
「俺は、リナが壁を確認しなかったら気づかなかった。見ていませんでした」
「どこを見ていた」
「……前を。次の敵がいるかどうかを」
「そうだろうな」
それだけだった。ガルムは余計なことを言わない。
ただ、その「そうだろうな」が、カイルには残った。
入口まで戻ったところで、ヤルゼンが待っていた。
外の壁に背をつけて腕を組み、全員が出てくるのを見ていた。表情で判断できない顔だが、視線は何かを確認している目だった。
「全員帰ってきたな」
「はい」とガルムが答えた。
「途中で折り返しました」
「聞こえていた。理由は」
「壁の湿度の変化です。原因不明の変化があったので、今日はそこで止めました」
「リナが気づいたのか」
「そうです」
ヤルゼンはリナを見た。
「どこで気づいた」
「曲がり角を過ぎてから、空気が変わった感触がありました。壁で確認したら、変化していました」
「その前から意識していたのか、たまたまか」
「意識していました。今日は天井の水染みを確認しながら歩いていました。帰還報告書に書くためです」
ヤルゼンは少しだけ間を置いた。
「それを誰に教わったか」
「ガルムさんと、ドルクさんから聞きました。それからレインさんの報告書の書き方を見て、何を見るべきかが少し分かりました」
「なるほど」
短い言葉だったが、ヤルゼンの声の温度が少し変わった。責めているわけでも、試しているわけでもない。確認している声になった。
全員が砦の広場に出たところで、ヤルゼンが若手を集めた。
六人が壁際に並ぶ。ヤルゼンはその前に立ち、腕を組んだまま言った。
「今日、誰が一番多く魔物を倒したか」
カイルが「俺です」と答えた。
「今日、誰が最初に異常を見つけたか」
しばらく間があった。それからカイルが言った。
「リナさんです」
「今日、誰が止まる理由を正確に言えたか」
誰も答えなかった。
「俺の前でよくある勘違いがある」とヤルゼンは続けた。
「強い奴が生き残るという考え方だ。違う。変化に気づいて止まれる奴が、生き残る」
「でも、異常がなかったら前に進むべきでしょう」と若手の一人が言った。
「そうだ。だが今日は異常があった。壁の湿度が変わっていた。原因が分からないまま前へ進んで、急な増水が来たとき、お前たちは全員で帰れるか」
返答がなかった。
「俺がカルデン市で連れ帰れなかった若手は、全員『まだ行ける』と思っていた奴らだ。敵に負けたわけじゃない。止まらなかった。それだけだ」
その一言は、短かったが重かった。
誰も声を出せなかった。
夕方、ヤルゼンとレインが管理棟で向かい合った。
机の上にはセレスの出した今日のデータがある。討伐数、移動ルート、各員の壁確認回数、折り返しのタイミング。数字で見ると、訓練の輪郭が出る。
「リナが壁を確認し始めたのはいつからですか」とヤルゼンが聞いた。
「青線で止まったあとです。ドルクさんの話を聞いてから、帰還報告書に書く内容を変えました。採集量だけでなく、通路の状態を記録するようになった」
「あの娘が最初から報告書を正確に書けたわけじゃないな」
「最初はかなり粗かったです。何を書けばいいか分からなかった。ガルムに詰められて、エルメアさんにも直されて、段々変わっていきました」
「そういうことか」
ヤルゼンは少しの間、机の上のデータを見ていた。
「俺が今日一番気になったのは、カイルじゃなくてソラだ」
ソラというのは、眼の利く小柄な女だった。初日から質問が的確だった若手だ。
「ソラは今日、三か所で立ち止まって壁を確認していた。声は出さなかったが、自分で判断して動いていた」
「セレスのデータにも出ています。三回、壁との距離が近くなっている場所がある」
「教えていないのに自分でやっていた。……今日の六人の中で、次の訓練に使えるのはそういう動き方をする奴だ」
「カイルは」
「伸びる。ただし、一度大きく手前で止まる経験をさせないと、止まり方を覚えない。今日はちょうどいい機会だったが、あいつは納得していない」
「していません」
「それでいい。納得していないまま帰るのも訓練だ。……次の訓練を申し込みたい」
レインは端末で空き枠を確認した。
「一週間後が最も早い枠です。ドルクさんの点検スケジュールと合わせると、来週の後半になります」
「それで構わない」
ヤルゼンは立ち上がり、椅子を引き戻しながら、少し違う声で言った。
「今日の訓練で、俺が欲しかったものの半分が分かった」
「半分、ですか」
「ここは、どこで止まるかを教えられる場所だ。他の迷宮じゃ、止まる前に死ぬ。……残り半分は、次の訓練で確かめる」
残り半分が何かは言わなかった。だがレインには、おおよそ見当がついた。
止まれることが分かった。次は、止まった後にどう報告するかだ。帰還してから、何を伝えられるか。そこまで見なければ、ヤルゼンの欲しいものにはならない。
夜、広場の隅でカイルがしゃがんでいた。
リナが帰還報告書をまとめながら、その横を通りかかった。
「今日の報告書、書きましたか」
「……書く前に一つ聞いていいか」
リナは立ち止まった。
「壁の確認、いつから意識してやってるんだ」
「半年くらい前からです。報告書を直されてから変わりました」
「最初から気づいていたわけじゃないのか」
「全然。最初は採集量しか見ていませんでした」
カイルは少し黙った。
「……俺は今日、前しか見ていなかった。魔物がいるかどうかだけ」
「それは最初みんなそうだと思います」
「じゃあ、いつ変わる」
「止まらないといけない理由が分かったときだと思います。私は一度、失敗しかけました。そのときに変わりました」
カイルは黙ったまま、しばらくそこにいた。
リナは報告書を持ったまま受付棟の方へ歩いていった。帰還報告のカウンターで台帳に記録が入る。今日一日が正式に終わる。
その夜のセレスの報告は短かった。
『本日の訓練における折り返し判断について。リナ氏が壁の変化を確認した地点は、実際に天井からの水の染み出しが進行していました。点検の結果、微細な亀裂が一か所確認されました。今日の時点では緊急性はありませんが、来週までに補修が必要です』
「補修をガルムに依頼します。来週の訓練前に終わらせてください」
『了解しました。……もう一点。今日のカイル氏の壁確認回数はゼロでした。ソラ氏は三回でした。訓練の評価項目に壁確認回数を加えることを推奨します』
「加えます。次回の訓練記録書に追加してください」
『了解です』
レインは端末を閉じた。
ヤルゼンが言っていた「残り半分」は、報告だ。止まった後で何を伝えられるかを見たい。それはつまり、今日リナが書いた報告書に相当するものを、若手全員が書けるかどうかを確かめることだ。
次の訓練では、帰還報告の内容をヤルゼン自身が確認するだろう。
そのために、一週間で何を準備するか。
レインはもう一度端末を開き、次の訓練の前に整えておく項目を書き始めた。




