表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
73/112

第73話 正式契約の書状

 受付棟の前、朝の列は五本に割れて流れていた。

 初回の者は左端の窓口へ。再訪者はその隣。商人と職人の列はさらに右に分かれ、いちばん端に「見学希望」の板が立っている。一ヶ月前、あの場所がひとつの怒号の渦だったことを知らなければ、今の光景はただの穏やかな朝に見えた。


 レインは管理棟の窓から、それをしばらく眺めた。

 人の流れは、ある。


 だが、机の上の紙の量も増えている。

 問い合わせ文書。近隣商会からの搬入確認状。領内の別村の村長補佐名義で届いた「採集実習について聞きたい」という書状。そして昨日届いた、カルデン市冒険者組合書記名義の封書。


「セレス」


 レインは端末に触れた。


『はい』


「今週の書状と問い合わせの件数を出してください」


『受付経由の書状が六件。口頭で問い合わせがあり、ベルダさんが対応したものが九件。うち三件は複数回来訪した上での問い合わせです。先週比で一・九倍です』


「それ、二週間前の入場者数と比べるとどうですか」


『入場者数は先週比で一・一倍にとどまっています。書状と問い合わせの増加率が、入場者数の増加率を大きく上回っています』


 レインは窓から目を離した。

 人が増えたのではない。人は落ち着いてきた。増えているのは、外側からの視線だ。


 問題が、「砦の中の人の混雑」から「砦の外からの評価の混雑」に移った。

 ベルダが管理棟に入ってきたのは、昼前だった。手に一通、少し厚みのある封書を持っていた。


「レイン。昨日届いた書状、読んだか」


「カルデン市のものですか」


「そう。ヤルゼン殿の名前じゃない。組合の書記名義だ」


 ベルダは封書を机の上に置いた。封は開いていない。


「昨日届いた時点で、中身を読んでいいか判断できなかった。……お前宛てじゃなく、砦の受付宛てになってたから」


「受付責任者は今のところベルダですから、開封して問題ありません」


「そう言うと思った。だから持ってきた」


 ベルダは封を開けた。手慣れた動作で紙を広げ、一通り目を走らせた。それから、少し違う顔でレインに渡した。


「……正式な打診だよ、これ」


 レインは受け取り、文面を読んだ。

 差出人は確かに組合書記の名前だった。カルデン市冒険者組合として、灰霧迷宮の正式な訓練利用契約について協議したい旨が記されていた。ヤルゼン・ロックの報告書を受け、組合代表が本格的な検討に入ったこと。訓練導線の運用方針について確認を求めること。


 そして末尾に、一行。


 「本件については、王都冒険者管理部門にも状況共有済み」


 レインは文面を最後まで読み終えてから、もう一度最初から読んだ。


「セレス、この書状の構造を整理してください」


『了解しました。表向きの打診は正式な利用契約の協議依頼です。ただし二点、付加情報があります。ひとつは訓練導線の運用方針について確認を求めている点。これは単なる利用申請ではなく、灰霧迷宮の運用基準に外部が口を出す余地を求めている可能性があります。もうひとつは王都への共有済み記載。これは情報通知というより、「知られた上でやっている」という事実を前面に出すことで、灰霧側に動きにくくさせている可能性があります』


「打診を受け入れるかどうかより、受け入れた場合の条件を先に洗い出せ、ということですね」


『その解釈が妥当です』


 ベルダが腕を組んだ。


「どういう意味だ、今の話」


「書状の見た目は『一緒に使わせてください』という依頼ですが、中身は『うちの組合も意見を言えるようにしてほしい』という要求に近い」


「カルデン市が灰霧迷宮の運用に口を挟んでくる、ということか」


「そういう入り口になりかねない。だからすぐに返答はできません」


 ベルダはしばらく黙って窓の外を見た。受付列が流れているのが見えた。


「……ようやく列が落ち着いたと思ったら、今度は書類が増えるのか」


 バロスが顔を出したのは昼過ぎだった。

 荷捌き場で搬入の確認をしていたレインのところへ、物資の確認書を片手にずんずんと歩いてきた。


「共同経営者殿! カルデン市からとうとう書状が来たそうじゃないか」


 噂の早さに、レインは確認書から目を上げた。


「打診です。まだ何も決まっていません」


「いやいや、打診でも構わない!」


 バロスは確認書をベルダに押しつけ、指輪をはめた両手を広げた。指の宝石が朝の光に鈍く光っている。


「カルデン市の冒険者組合が動くとなれば、東の街道沿いが全部動く。灰霧産の素材がまとまった量で定期的に流れるようになる。運搬の仕組みを今から整えれば、うちの商会にとってこれほど旨い話は——」


「バロス会頭」


 レインは確認書から目を離さないまま言った。


「書状には訓練導線の運用方針について確認したい、という記載があります。受け入れるかどうかより、条件の中身を先に洗い出す必要があります」


「……条件? 条件なんぞ、交渉でどうにでも——」


「条件が曖昧なまま商機だけ先に動かすと、後から足元を見られます。物流枠の配分まで向こうが決める話に、気づいたときにはなっている」


 バロスはそれを聞いて、口をつぐんだ。太い指で顎を撫でている。暗算が走っている顔だ。

 しばらく沈黙してから、バロスは少し低い声で続けた。


「……なるほど。箱の中身を確かめる前に荷車を出す商人は、積み荷ごと奪われる、か」


「そういうことです」


「分かった、共同経営者殿。では今は、私は表向き何も知らないことにしておく」


 バロスは口の端だけ動かした。


「ただし、条件が固まったら一番に教えてもらいたい。東の街道への話は、うちが一番早く動ける位置にある。それだけは忘れないでいただきたい」


「約束します」


 バロスは確認書を受け取り、荷捌き場へ戻った。

 その背中を見ながら、ベルダが隣に来た。


「あいつにしては素直に引いたね」


「利益になる話だと判断したうえで、急いで動く必要がないと計算したんでしょう」


「商人的な判断か」


「ええ。……ただし、バロス会頭が今日は動かないとしても、書状の話が他の商人に伝わっていた場合は別です。セドリックあたりが、灰霧を飛び越してカルデン市側に先に接触する可能性があります」


 ベルダの顔が少し険しくなった。


「それは厄介だな」


「今日中に、受付での書状管理の扱いを整理します。内容の漏れは完全には防げませんが、砦内で扱う情報の流れだけは把握しておく」


 夕方、小会議室でレインはノアを呼んだ。


『ご指示の件。カルデン市冒険者組合からの書状について、条件洗い出しを行いました。申し上げます』


「どうぞ」


『正式な訓練利用契約を結ぶ場合、最低でも以下を確定させる必要があります。一、受け入れ人数の上限と申請方法。二、講習の受講義務と確認通過の基準。三、帰還報告の提出義務と違反時の対応。四、訓練導線の運用方針について外部が意見を言える範囲の上限。五、灰霧迷宮側の変更権限の所在』


「特に四番目と五番目ですね」


『はい。「訓練導線の運用方針について確認したい」という書状の記載は、最悪の場合、組合側が灰霧迷宮の訓練基準に口を出す余地を与えることになります。条件次第では、灰霧式の講習・札更新・帰還報告の基準を組合側の流儀に合わせるよう求められる可能性があります』


「そうなると、灰霧迷宮は訓練場になる。経営の中身を外から決められる形になる」


『その通りです。管理者様が守るべきは、灰霧迷宮の利用条件の最終決定権です』


 レインは机の上の書状をもう一度手に取った。

 文面は丁寧だ。ただ、丁寧な打診ほど、後で条件がどこにあったか分からなくなる。


「ノア、返答の下書きを作ってください。受け入れを肯定も否定もしない形で。協議の意志はある、ただし条件整理が必要であることを伝える文面を」


『了解しました。一点確認します。王都側への共有済みという記載について、返答書状の中で触れますか』


「触れません。触れると、そこを相手が使ってくる。知られていることは知っている、という姿勢だけでいい」


『……了解しました』


 ノアがわずかな間を置いたのは、その判断が厳格な開示原則からずれていると思ったからだろう。だが今は、何を開示して何を開示しないかの判断が重要だった。

 ミストが横から割り込んできた。


『返答書状の書式、整えましょうか。カルデン市組合への文書ですから、ある程度の見た目も必要でしょ』


「見た目より中身です。ただし、読みにくくならない程度に整えてください」


『「ある程度」ね。了解です。盛らずにいきます』


 珍しく素直な返答だった。

 ルカが続けた。


『管理者さん、今後同じような書状が増える場合、受付経由のものと管理棟宛てのものを分類しておいた方がよくないですか。ベルダさんが一人で全部受け取る形だと、台帳が追いつかなくなる前に判断が追いつかなくなります』


「整理します。ベルダに相談してください。……書状の種類は三種でいいですか。利用申請系、問い合わせ系、外部組織からの正式打診系」


『それで進めます』


 管理棟の窓の外は、夕方の受付が静かになり始めていた。最後の帰還報告を出した採集者が、荷捌き場の前で荷物を整理している。今日の違反はゼロだ。講習の通過率は先週比で安定している。

 仕組みは回っている。


 その一方で、机の上には今日だけで新しく三通の書状が加わっていた。

 そのとき、扉の外でベルダの声がした。


「レイン」


「どうぞ」


 ベルダが入ってきた。手に、もう一通の封書を持っていた。今日届いた書状の束ではない。別口だ。


「今しがた、砦の門番から渡された。配達人が直接来たらしい。差し出し人は……」


 ベルダは少し間を置いた。


「王都迷宮管理局、運用管理課」


 レインは動かなかった。


「内容は」


「開けていない。でも、表に一行書いてある」


 ベルダはレインに封書を渡した。

 表書きの下、小さな字で一行。


 「灰霧迷宮グレイホロウ、運用状況照会の件」


 レインはその封書を手に持ったまま、しばらく机の上の書状の山を見た。カルデン市からの正式打診。問い合わせの束。そして今届いた、王都からの照会文書。

 問題は移ったのではない。重なったのだ。


「ノア、カルデン市への返答文書は今夜中に草案を出してください。内容確認は明朝にします。……この封書は明日、状況を確認してから開封します」


『封書を今夜開封しない理由を確認してもよいですか』


「今日の判断に詰め込みすぎると、一つひとつの精度が下がります。カルデン市の件の整理が終わってから読む。読む順番にも意味があります」


『……了解しました』


 ベルダは封書を受け取ったレインの顔を見て、一言だけ言った。


「ようやく列が流れ始めたと思ったら、今度は外からくるのか」


「今まで整えてきたことが、外に見えているということです」


「見えることは良いことだろう」


「ええ」


 レインは封書を机の引き出しにしまった。


「……ただし、見えた先で何を考えているかは、明日読んで判断します」


 窓の外では、受付棟の灯りがゆっくり落ちていった。列は今日も流れた。記録は残った。仕組みは動いている。

 だが机の引き出しの中に、今夜はまだ開かれていない封書が一通ある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ