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第68話 青線の手前で止めろ

 第一層の奥から、足音がした。

 一人ではない。複数の、急いでいる足音だった。


 帰還報告を終えたリナが荷捌き場の隅で採集記録を書き直していたのは、ちょうどその直後だった。音の方向が気になって立ち上がり、第一層の入口通路へ続く石段の方を見た。

 降りてくる人間がいた。


 ヤルゼンの若手が三人。先頭がカイルで、その後ろに二人がついている。三人とも採集袋を持ち、腰に剣を下げていた。見学区画の外へ出る装備ではない。第二層に入る装備でもない。だが、向かっている方向が問題だった。

 訓練区画の方ではなく、第二層への降り口の方向だ。


 リナは記録帳を置いた。

 石段を下りて追いかけると、三人は第一層の中ほどで立ち止まっていた。


 黄線と青線の境界に近い場所だった。壁の色が変わっている。石の質感が変わり、湿気が肌に絡みついてくる。足元の石畳は乾いた第一層とは違い、うっすらと光を帯びた苔が広がり始めていた。ここから先が第二層の入口域だ。


「そこで止まってください」


 リナが声をかけると、三人が振り返った。

 カイルが眉を動かした。


「……採集に行くだけだ。見学と変わらない」


「報告札は持っていますか」


 カイルの顔がわずかに固まった。隣の二人も、互いに視線を交わした。持っていない、ということだった。


「教導係の同行は」


「いない。三人で確認してから、ヤルゼンさんに報告しようと思ってた」


「それは許可されていません」


 リナの声は、責めているのでも感情的なのでもなかった。ただ、事実を言っていた。


「第二層の見学区画への立ち入りは、教導係の同行と報告札が必要です。昨日の講習で説明されたはずです」


「聞いた。でも見学だけなら問題ないだろ。採集はしない」


「見学でも同じです。迷ったとき、足場が変わったとき、湿度が急変したとき——報告札がなければ、どこで何をしていたか記録が残らない。事故が起きても対処できません」


 カイルは少し間を置いた。反論を探している顔だった。


「強そうな場所じゃないぞ、ここ。第一層より少し湿ってるだけだ」


「今いる場所がそう見えるのは、まだ境界の手前だからです」


 そのとき、通路の奥から声が届いた。

 しゃがれた声だった。


「嬢ちゃん、正しいことを言ってるぞ」


 ドルクだった。

 老坑夫は、腰に道具袋を下げ、片手にカンテラを持って通路の奥から歩いてきた。今日は第二層の定期点検に来ていたらしい。三人の若手を見て、それからリナを見て、黙ったまま近づいた。


 三人の正面まで来て、ドルクは立ち止まった。


「手を出してみろ」


 誰にともなく言った。カイルが怪訝な顔をしたが、ドルクの目が本気だったので、渋々と手のひらを出した。

 ドルクは自分の手のひらをカイルの手のひらの横に並べた。


「どっちが湿ってる」


 カイルは自分の手と、ドルクの手を見比べた。


「……俺の方が、少し」


「お前はここに来て何分になる」


「五分かそこらだ」


「俺はここで三十年以上、地下を歩いてきた。今の俺の手は乾いてる。お前の手はもう湿ってる。……理由が分かるか」


 カイルは答えられなかった。


「この場所の湿度は、さっきより上がってる。お前さんが立ってる間にも、じわじわと変わってる。地下は静止してるように見えて、常に動いてるんだ。呼吸してる。……それを知らずに一歩踏み込んだとき、何が起きるか」


 ドルクはカンテラを持ち上げ、通路の奥を照らした。

 青線が壁に描かれている。その先の石畳は、こちら側と色が違った。水を含んだ石の色だ。


「あの線の向こうは、今日の点検で湿度が平時の一・三倍になってる。昨日より高い。原因はまだ分かってない。……そういうときに人間が入ったら、どうなるか」


 誰も答えなかった。


「分からないから危ない、ということだ」


 三人が動かないでいるうちに、後ろから足音がした。

 ヤルゼンだった。


 表情を見た瞬間、カイルが少し肩を縮めた。ヤルゼンは三人を順番に見て、リナを見て、ドルクを見た。一度だけ大きく息を吸った。


「……お前たち、報告札を持っているか」


 三人は首を振った。


「昨日の講習で、第二層見学の条件を説明されたな」


「はい」


「俺の同行なしに来るつもりだったのか」


 カイルが言い訳を探している顔をした。だがヤルゼンは続けた。


「言い訳はいい。……お前たちが今どこに立っているか、自分で分かるか」


「……第二層の手前、です」


「なぜ止まった」


 カイルは少し間を置いた。


「リナさんに止められたから、です」


 ヤルゼンはリナを見た。


「止めた理由を言えるか」


「報告札なし、教導係の同行なし。どちらも立ち入り条件を満たしていませんでした」


「それだけか」


「加えて、ドルクさんの話を聞いていただきましたので、現在の湿度の状況も共有済みです。今日この区画に入ることは、通常より条件が悪いです」


 ヤルゼンは頷いた。それだけで、何も言わなかった。

 その沈黙が、カイルにはヤルゼンの言葉より重く伝わったようだった。


 全員が第一層の手前まで引き返したところで、ドルクが三人に向き直った。

 若手の一人が、まだ納得しきれない顔で口を開いた。


「……湿度が変わったのは分かりました。でも、それを事前に知ることはできないんですか。入る前に、安全かどうか確かめる方法が」


「ある」


 ドルクは素っ気なく言った。


「確かめる方法がある。俺みたいに、岩の音を聞くことだ。壁を叩いて、腹に響く音が返ってくれば水が引いてる。くぐもった音が返ってくれば、内側で水が動いてる。……何十年もかけて覚えた。今日明日で身につく話じゃない」


「では僕たちには今日確かめる方法がない、ということですか」


「そうだ」


 はっきり言われた。若手は黙った。


「だから俺が先に入って、後から人を連れてくる。それがこの地下の歩き方だ。……勝手に入って確かめようとした奴は、大抵確かめる前に消える」


 消える、という言葉を、三人は少し違う温度で受け取ったようだった。

 地上へ戻ったところで、ヤルゼンが三人を呼んだ。


 レインも合流した。

 ヤルゼンは三人の前に立ち、腕を組んだまましばらく何も言わなかった。それから静かに口を開いた。


「今日の件は、記録に残す」


 カイルが顔を上げた。


「違反として処分するということですか」


「記録に残す、と言った。……お前たちは今日、青線の手前でちゃんと止まった。自分の意志で止まったわけじゃないが、止まった。ドルクさんの話を聞いた。湿度の変化を自分の手で感じた。……それは何も学ばなかったわけじゃない」


 一拍置いてから続ける。


「ただし、同行なし、報告札なしで降りようとしたことは事実だ。ルールを知っていて踏み越えようとした。それは違反だ」


 カイルは反論しなかった。

 レインが口を開いた。


「今回の件について処分の内容を確認します。報告札なし、教導係の同行なしで立ち入り区画に向かったことは、口頭警告と記録の対象です。今日、青線は越えていないため、採集資格の停止には当たりません。ただし、今後同じことがあれば次のステップに進みます」


「分かった」とカイルは短く答えた。それから、少し間を置いて言った。


「……リナさんに止めてもらわなければ、もう少し入っていた」


 リナは何も言わなかった。

 ヤルゼンがリナを見た。


「よく止めた」


 それだけだった。短い言葉だが、ヤルゼンが言うと重みがある。

 夜、レインが管理棟でセレスからの報告を聞いていた。


『今日の件を整理します。ヤルゼン殿の若手三名が、教導係の同行なし、報告札なしで第二層入口域に向かいました。リナ氏が境界手前で止めています。ドルクさんが現場で湿度の変化を説明し、ヤルゼン殿が口頭での叱責と記録処置を行いました。青線の越境はありませんでした』


「今日の第二層の湿度上昇の原因は分かりましたか」


『ドルクさんの点検の結果、第二層浅部の水路に小規模な詰まりがありました。水の流れが一部で滞っていたことで、入口域の湿度が上がっていたようです。明日の朝に補修予定です』


「今日入っていたら、どうなっていましたか」


『詰まりの場所によりますが、最悪の場合、補修中に滞留していた水が一気に流れ込む可能性がありました。足元が濡れた状態で転倒していれば、第一層とは比べ物にならない危険があったと推定されます』


 レインは少し黙ってから、端末にメモを打ち込んだ。


「第二層見学については、今日の件で条件を明文化します。教導係の同行、報告札、湿度確認の三点を必須にする。ドルクさんに湿度確認の基準を言葉にしてもらう必要があります。ドルクさんが同行できない日は、第二層への見学を許可しない」


『それだと第二層の見学日が限られます』


「それでいい。条件を緩めて事故を増やすより、条件を守れる日だけ開ける方が正しい」


 ルカが軽い声で割り込んだ。


『管理者さん、ドルクさんのスケジュールを事前に台帳に入れておけば、見学予約制にできますよ。当日の突発対応が減ります』


「それはいい案です。ベルダに相談します」


『了解です。あと——』とルカは少し間を置いた。


『今日、リナさんが止めた場面、ヤルゼン殿と三人の若手全員が見ていました。セレスのデータを見ると、若手の挙動が止められた後から変わっています。特にカイルの行動が慎重になっています』


「数値で変わったということですか」


『はい。報告札の意味を誰かに止められて初めて実感する人間がいる。講習の言葉では動かなかった人間が、現場での制止で動く。……リナ氏の今日の行動は、講習の補完として機能しました』


 レインは端末を閉じた。

 リナが青札を取ってから、自分で考えて動いた。止める根拠を持っていた。止めた後、根拠を言葉で言えた。ヤルゼンにそれを認められた。


 講習は、言葉だけで完結するものではない。現場で人間が止める、というのも講習の一部だった。

 その発想が、次の制度設計につながる。


 翌朝、レインは管理棟の壁に一枚の紙を貼った。


 「第二層見学条件:教導係同行・報告札・当日湿度確認。三点をすべて満たした日のみ実施」


 その下に、ドルクの点検スケジュールを書き入れる欄が作られた。

 ベルダがそれを見て、台帳を開いた。


「これ、受付で対応できる。見学希望を前日までに登録してもらえれば、当日のドルクさんのスケジュールと合わせて案内できる」


「お願いします」


「ただし」とベルダは台帳のページをめくりながら言った。


「登録と当日の実施で手間が二倍になる。ルカに処理を省力化してもらえる部分はある?」


「確認します」


 ルカの声がすぐに届いた。


『見学登録の台帳記入をフォーム化できます。質問は三項目だけ——名前、目的、同行者の有無。ベルダさんが受け取ったとき、確認済みの欄にだけ印を入れればいい。記録の手間は半分以下になります』


「ミスト、台帳の様式を整えてください」


『分かった。今度こそ少し見やすくさせて』


「機能優先で」


『はいはい』


 ベルダが小さく笑った。その笑い方は、愚痴でも呆れでもなく、雑然とした朝の受付棟が少しずつ整っていることへの、静かな納得に近かった。

 灰霧前砦の、ある朝のことだった。

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