第67話 転んで済む場所、死ぬ場所
第一層の訓練導線に入ったのは、朝の鐘が三度鳴ってから間もない時刻だった。
レインが現場に着いたとき、ガルムはすでに境界線の手前にしゃがみ込み、石畳の表面を指でなぞっていた。その後ろで、ヤルゼンの若手が六人、壁際に固まって立っている。誰も口を開いていない。
床には、工具袋が一つ、境界の外側へ転がっていた。
「誰が転んだ」
レインが言うと、ガルムが振り返らずに答えた。
「カイルだ。走ってた。前の奴に追いつこうとして、ここで足が滑った。工具袋が境界の外まで飛んで、本人は踏みとどまった」
「踏みとどまれた理由は」
「退避線の矢印板が壁に出っ張ってる。それに手が当たって止まった。……偶然だ」
偶然、という言葉の重さをガルムは分かって言っていた。レインも分かって聞いた。設計した退避線が機能したのではなく、壁の突起物にたまたま手が当たって止まった。それは「安全が守られた」ではなく、「たまたま死ななかった」だ。
カイルは壁に背をつけて立っていた。顔色は戻っているが、目が境界の外の工具袋に向いたままだ。
レインは工具袋を一瞥してから、訓練導線の床を歩き始めた。
入口から境界まで、およそ四十歩。床の石畳は古い補修の跡が混じっていて、場所によって微妙に表面の高さが違う。光の入り方が均一でないため、低くなっている場所が暗く見えて気づきにくい。退避線の矢印板は壁の高さ一メートルほどに取り付けられているが、走っている人間の視線はもっと低い。
「ガルム、この床の段差、何か所確認できますか」
「俺が今日だけで見つけたのは四か所。入口から十歩、二十歩、三十歩の手前と、境界の直前だ。一番厄介なのは境界の手前だ。二センチも沈んでいないが、走ってきた勢いがあれば十分つまずく」
「補修できますか」
「石材と砂があれば今日中にできる。ただ」とガルムは立ち上がり、導線全体を見回した。「床を直しても、走ることへの根本的な対処にはならん。この幅で複数人が同時に動けば、焦りが出る。カイルが走ったのは床のせいだけじゃないぞ」
その通りだった。訓練導線の通路幅は二人が並んで歩けるほどしかない。後ろが詰まれば前を急ぐ。前が詰まれば焦りで無理な動きをする。床を直しても、幅が変わらなければ同じ状況が繰り返される。
ノアの声が届いたのは、レインが床の段差を確認しながら歩いているときだった。
『管理者様。今回の転倒について報告します。転倒位置は訓練区画の境界まで残り一メートル九十センチ。工具袋の着地点は境界外三十センチ。人間が同等の勢いで転倒した場合、境界を越える確率は推定六十三パーセントです。……安全基準上、本日の訓練は全員停止が必要です』
「理由を聞かせてください」
『現行の訓練導線には、転倒した際に人間が境界の外へ出ることを防ぐ設計がありません。セーフティネットが存在しない状態での訓練継続は、基準違反です』
「全停止した場合、ヤルゼンの若手の訓練スケジュールへの影響は」
『本日予定していた全工程が未実施になります。ただしそれは運用上の問題であり、安全基準の例外理由にはなりません』
ノアは間違っていない。基準から見れば全停止が正答だ。ただ、レインが気になっていたのは別のことだった。
「全停止と縮小運用の違いを整理します。全停止の場合、今日ここにいる六人は何も体験せずに帰る。縮小運用の場合、転倒リスクが最も高い箇所だけを閉じて、残りの区間で限定的に動かす。……ノア、縮小運用で転倒事故が再発した場合の責任は誰が取りますか」
『管理者様です。ただし、縮小運用の設計が適切であれば、それは管理者の判断として記録されます』
「では縮小運用で進めます。判断の根拠は端末に記録します」
ノアは一瞬だけ黙った。それから言った。
『了解しました。縮小運用の設計内容を記録します。基準からの逸脱として管理者の判断を明記します』
ガルムに指示を出しながら、レインは導線を歩いた。
まず、カイルが転倒した境界手前の五歩分を、今日一日閉鎖する。縄を張って進入できないようにする。境界には近づける必要がない——訓練の目的は「境界が何を意味するかを学ぶこと」であって、境界ぎりぎりまで歩くことではない。
「ガルム、境界から手前五歩の場所に待機線を引いてください。ここが今日の終点です」
「縄と白い粉でいいか」
「それで十分です。……それと、もう一か所確認したいことがあります」
レインは導線の真ん中あたりで立ち止まり、両側の壁を見た。
「指導者がどこに立つかを決めていない」
「指導者の立ち位置?」
「今日、ガルムはどこにいましたか」
「……後ろだ。全員の動きを見るために、列の最後についていた」
「後ろからでは、先頭が転んだときに間に合いません。指導者は導線の中間点に立つべきです。先頭が転んでも手が届く距離に、後方の様子も見える位置に。……この幅では一人しか立てませんが、それで十分です」
ガルムは腕を組んで、導線の中間点を見た。
「確かに。後ろにいたのは、俺の判断ミスだな」
「今日分かったことです。次から変えれば済みます」
縮小運用が始まった。
先ほどまで固まっていたヤルゼンの若手が、一人ずつ導線に入った。今度は走らない。入る前にガルムから「一人ずつ、間隔を二歩空けて」と言われていた。
先頭はカイルではなく、眼の利く小柄な女、ソラが先に進んだ。足の置き方を確認しながら歩いている。段差のある箇所で立ち止まり、踏んで、続けた。
カイルは列の中ほどにいた。先ほどよりずっとゆっくり歩いている。
ガルムは導線の中間点に立ち、先頭と後方を両方見ていた。
レインは導線の外から観察した。
問題なのは床だけじゃなかった、と改めて思った。この通路に「止まっても良い場所」がない。段差があっても確認するための余地がなく、後ろが詰まれば前は必然的に急ぐ。待機できる場所が一か所でもあれば、焦りの発生点を減らせる。
「ガルム、入口から二十歩の位置の壁、少し掘れますか」
「どのくらい」
「人が一人、壁側に寄って立てる分だけ。幅が広がれば、後ろが詰まった人間が一時的にそこで止まれる」
「石材の補修と合わせてやれば、今週中にできる」
「お願いします」
訓練が終わったあと、ヤルゼンが近づいてきた。
若手たちは砦の方へ戻っていたが、ヤルゼンだけが残っていた。腕を組んだまま、訓練導線の入口を眺めている。
「今日のことを聞いていいか」
「どうぞ」
「ノアという精霊は、全員停止が必要と言った。お前は縮小運用を選んだ。……その判断の基準は何だ」
レインは少し考えてから答えた。
「全停止した場合、今日ここにいた全員が、何も体験せずに帰ります。そして次に来たとき、また同じ判断ミスをする可能性が高い。……縮小運用で、境界手前に待機線を引いて、指導者の立ち位置を変えた。それで今日、誰も境界を越えませんでした」
「カイルが転んだのは、焦りが原因だったと思うか」
「床の段差と焦りが重なったことが原因です。どちらか一方ではない」
「床は直す。では焦りは?」
「待機できる場所を作ることで、後ろが詰まる状況を減らせます。それが一つ。もう一つは」とレインは少し間を置いた。「訓練に来た人間が、境界の意味を体で分かっていない状態で動いていたことです。境界が何のためにあるかを知っていれば、ぎりぎりまで近づこうとする動機がない」
「講習で教えているんじゃないのか」
「言葉では教えています。体では分かっていない。今日の転倒が証明しました」
ヤルゼンは少し黙ってから、「難しい話だな」と言った。感想ではなく、考えている声だった。
夕方になって、ガルムが石材と砂を持って導線に戻ってきた。
リナも一緒だった。今日の採集帰りに、導線の様子を聞いたらしい。
「カイルが転んだと聞きました。怪我は」
「なかった」とガルムが素っ気なく答えた。砂を均しながら、続ける。
「工具袋が飛んだだけだ。ただ、あと三十センチずれてたら、工具袋じゃなくて本人が飛んでいた」
リナは黙って、補修作業を眺めた。
「境界のところに待機線ができるんですね」
「ああ。ここで止まれれば、境界まで行く必要がなくなる。……リナ、お前は昔、この通路で何度か止まったか」
「一度だけ、転びかけました。段差に気づかなくて」
「そのとき、どうした」
「後ろにカエルがいたので、声をかけて一歩引いてもらいました」
「それだよ」とガルムは砂を均す手を止めず言った。
「止まれる場所と、止まっていいという空気が要る。今の訓練導線にはそれがなかった。走った奴が悪いだけじゃない。走るしかない作りにしてあった」
リナはその言葉を聞いて、少し下を向いた。何かを考えている顔だった。
補修が終わったのは夜になる少し前だった。
レインは端末に今日の記録をまとめた。
段差の補修が四か所。待機用のへこみを壁に一か所。境界手前五歩の待機線。指導者立ち位置の明示。
セレスから確認が入った。
『管理者様。本日の縮小運用後の訓練で、転倒事故は発生しませんでした。ガルムの立ち位置変更と待機線の設置が有効に機能しています』
「設計変更の記録を残してください。次回の訓練から正式運用にします」
『了解しました。……一点報告があります。本日の訓練中、ヤルゼン殿の若手のうち一名が、訓練終了後に単独で砦の中を歩いていました。第一層への降り口の方向へ向かっていたことを、ガルムの部下が目撃しています』
「名前は分かりますか」
『ガルムの部下が確認したのは後ろ姿で、赤い布を腰に巻いた人物とのことです』
レインは端末を閉じた。
赤い布。カイルだ。
今日、訓練で転んで、待機線で止まった。それが悔しかったのか、それとも別の何かが理由なのか——どちらにしても、講習を終えていない状態で単独で第一層へ向かったとすれば、今日の転倒より深刻な話になる。
ガルムへ短く連絡を入れた。確認をお願いします、と。
返事は早かった。「明日の朝、第一層の入口の記録を見る」という一言だった。




