第64話 仮講習は聞き流される
朝の霧がまだ砦の壁にかかっていた。
荷捌き場に隣接した仮倉庫の一室——普段は搬入待ちの空き箱が積まれているだけの場所——を昨夜のうちにガルムの部下たちが片付け、粗末な板を渡しただけの長椅子が三列並んでいた。
入口に貼り出した紙には、一行だけ書いてある。
「初回来訪者向け説明会。参加なしに迷宮区画への立ち入りは認めません」
八時の鐘が鳴ったとき、中には十四人が座っていた。
ヤルゼンの若手が六人。一般の初回来訪者が五人。それから、昨日ガルムと細い通路について言い合いになりかけた男——名前はテオという、二十代前半の冒険者——も端の席に腰を下ろしていた。残り二人は、見学目的で来た商人の連れらしい若者たちだった。
説明に立ったのはレインだった。
「始めます。所要時間はおよそ半刻です」
レインは壁に貼った図面を指した。昨日リナが使ったものに、セレスの分析データを加えて一部修正した版だ。
「灰霧迷宮の利用にあたって、最低限知っておくことを三つ説明します。一つ目、五色の導線。二つ目、退避線と帰還報告。三つ目、採集札と立ち入り区画。……この三つが分かっていれば、今日は見学区画と第一層の入口まで入れます」
十四人が図面を見ている。
——全員が見ている。それだけは分かる。
だが、レインは話しながら、各自の目の動きと姿勢を確かめていた。
前列のヤルゼンの若手の小柄な女は、図面の色ごとに視線を動かし、口を少し開いて読んでいる。理解しようとしている姿勢だ。
カイルは腕を組んで聞いている。拒絶しているのか、考えているのか、まだ分からない。
テオは壁の図面ではなく、窓の外を時々見ていた。
商人の連れの若者二人は、板椅子の座り心地が悪そうで、小声で何かを話している。
「退避線の説明です。通路の壁に赤い矢印が定間隔で描かれています。矢印の向きが出口の方向です。どこにいても、矢印を追えば入口に戻れます。……この矢印が示す経路から外れた場合、帰還は保証されません」
「保証されないというのは、どういう意味ですか」
前列の小柄な女——カルデンの若手で、昨日から質問が的確だった——が手を挙げた。
「救助に行ける体制がない区画がある、という意味です。管理が及んでいる範囲と及んでいない範囲があります」
「では、管理の及んでいる範囲はどこまでですか」
「今日の時点で、第一層は入口から訓練区画まで。第二層は採集札の色ごとに指定区画まで。それ以外は対応外です」
「分かりました」
女は手元の紙に何かを書いた。自分でメモを取っていた。
——あれは使える。
レインは頭のどこかに留めておいた。
説明が退避線から採集札に移ったとき、後ろの方で音がした。
商人の連れの一人が、欠伸をしていた。口を手で隠したが、隣の若者が小突いて笑っている。
レインは話を止めなかった。
「採集札は四種類あります。白、黄、青、赤。白は第一層の訓練区画のみ。黄は第二層の薬草区画まで。青は鉱泥採掘区画。赤は結晶洞窟などの高危険区画で、個別許可が必要です。……初回来訪者には本日、白の仮札を発行します。仮札は見学区画と第一層入口区画にのみ有効です」
「仮札から正式な白札に変えるには何が要りますか」
これもカイルだった。今度は腕を組んだままだが、声には先日より棘がなかった。
「本日の説明内容を口頭で確認します。確認が取れれば白札に切り替えます」
「試験か」
「確認です。試験ではありません」
「違いは?」
「試験は落とすためにある。確認は、理解できているかを確かめるためにあります」
カイルは少し黙った。
説明が一通り終わった。
所要時間は予定より少し長かった。
「以上で説明を終わります。質問があれば今のうちに。終わったら入口で仮札を受け取ってください」
五人が手を挙げた。
レインは一人ずつ答えた。その間、テオが立ち上がり、出口の方へ歩いていった。
「テオさん、質問はないですか」
「ないですよ。聞いてたんで」
テオは足を止めずに答えた。
「確認があります。退避線の矢印は、どの方向を向いていますか」
「出口の方向」
「その出口とは、迷宮の入口ですか、最寄りの退避区画ですか」
テオが初めて足を止めた。
「……入口、じゃないのか」
「退避区画が先にある場合は退避区画、そこから先は入口です。今説明した通りです」
テオは少し間を置いた。「……聞いてたつもりだったんだが」
「聞いていたと覚えていることは同じではありません。確認を受けてから仮札を受け取ってください」
テオは戻ってきて、列の後ろに並んだ。
入口でベルダが仮札の発行を担当していた。
レインが説明を終えて出てくると、ベルダは台帳を開きながら言った。
「どうだった」
「聞いていた人間が十四人。理解していた人間が何人かは、今から確認します」
「出口に向かいかけた男がいたね」
「ええ。止めました」
ベルダは台帳に名前を書き入れながら続けた。
「レイン、一つ聞いていいか。今日の説明で配った紙、あるだろう。図面の写しと注意事項が書いてあるやつ」
「はい」
「あれ、うちの砦の字が読めない人間には意味がないよ。あの中に識字できない者が何人いたか確認したか?」
レインは少し間を置いた。
「確認していませんでした」
「そうだろう。……それと、紙を渡しただけじゃあいつらは読まない。自分の家でも同じだろう。紙を押しつけられた瞬間に、もう頭が別のことを考えてる」
ベルダはそう言って台帳を閉じた。
「入口の仮札発行、私がやる。その代わり、レイン、あなたは横に立ってて。一人ずつ、私が三つだけ聞く。答えられたら発行、答えられなかったら後でもう一回説明を受ける列に並ばせる。それでどうだ」
「三つというのは」
「退避線の矢印はどっちを向いてるか。採集札が白の場合どこまで入れるか。帰還報告はいつするか。この三つだ。難しい話じゃない。でも聞いてなきゃ答えられない」
レインはしばらく考えた。
「問題の設計として、それは妥当です」
「じゃあ決まりだ」
それから十四人の口頭確認が始まった。
ベルダが「三つ聞くよ」と言って最初の質問をするたびに、相手の顔が少し変わった。
ヤルゼンの若手の小柄な女は三つ全部答えた。
カイルは一問目と二問目は即答し、三問目で少し考えてから答えた。正解だった。
テオは一問目を間違えた。退避線の矢印の意味を正確に言えなかった。もう一度説明を受ける列に案内された。文句は言わなかった。
商人の連れの若者二人は二人とも三問目が出なかった。帰還報告をしなければならないことを、そもそも聞いていなかった。
「私は商売に来ただけで、採集はしないんですが」
一人がそう言った。ベルダはひとつうなずいて言った。
「見学区画に入るなら同じだよ。見学中に迷ったら、あんたも退避線に従って帰ってくる必要がある。それを知らないまま入れるわけにはいかない」
「でも採集しないなら帰還報告は——」
「見学でも報告はある。出入りの記録は全員取る。それを知らないまま入るのは困る、という話だ」
若者は納得したというより、仕方なしというふうに頷いた。もう一度の説明列に並んだ。
ルカの声が、レインの耳元に届いたのは、ちょうど確認が半分終わったころだった。
「管理者さん。ちょっとちょっと」
黄色い光の靄がレインの肩のあたりに浮かんだ。声は他の人間には聞こえない。
「なんですか」
「この確認、一人ずつやってたら受付が詰まりますよ。見てください、後ろにまた列ができてる。再訪者の採集札更新の人たちが待ってる。ベルダさんが二列を一人で捌くのは無理です」
レインは後ろを確認した。ルカの言う通りだった。採集札を更新しに来た常連の冒険者が三人、列の外で立っていた。
「三問の聞き取りを、私が担当できますよ。チェックリスト式にすれば机でも処理できます。ベルダさんは採集札の更新に集中して、初回確認は私が引き取る。それで処理速度は倍になる」
「ルカ、その案には一つ問題があります」
「何ですか」
「チェックリスト式にした場合、相手が間違った答えを言ったとき、訂正をどう行いますか」
「……訂正フローを作ります。間違えた項目だけ再提示して——」
「間違えた後に正解を言われた場合、理解したのか、言い直しただけなのかを区別できますか」
ルカは少し黙った。
「……区別できない、か」
「人間の理解確認は、速度と精度がトレードオフです。今はまだ精度を落とせない段階です。……ただ、ルカの言う通り、採集札更新は別列にする必要があります。ベルダ」
「聞いてたよ」
ベルダは振り返らずに言った。
「ガルムに頼んで、もう一本台を出してもらう。更新列と初回確認列を分ける。二列ならなんとかなる」
「お願いします」
「最初からそうしておけばよかったんだよ」
言い方は刺さったが、ベルダの手は動き続けていた。
昼過ぎに、仮講習の第一回が終わった。
十四人のうち、その場で仮札を受け取れたのは九人。五人は一度説明を受け直し、そのうち四人が午後に確認を受けて仮札を得た。残り一人は「今日は見学だけでいい」と言って商人の仕事に戻っていった。
レインはセレスに確認させた。
「今日の通過率と、理解確認での不正解率を出してください」
『仮講習参加十四名。初回確認通過九名。要再確認五名。再確認後通過四名。最終辞退一名。……初回の正答率は六十四パーセントです。特に帰還報告に関する項目の不正答が多く、三問中この項目単独で不正解が七件です』
「帰還報告だけが際立って低い。セレス、理由として何が考えられますか」
『説明の配置の問題です。説明の中で帰還報告は最後に説明されており、所要時間が延びた結果、後半への注意が分散した可能性があります。また、帰還報告は行動を伴わないため、意味の具体的なイメージが持ちにくい項目です』
「つまり、説明の順番と、具体例の不足が原因ですね」
『その可能性が高いです』
レインは端末にメモを打ち込んだ。
説明したことと、理解されたことは違う。ベルダが言った通りだった。説明が終わった時点で終わりにするのではなく、理解を確かめる工程をあらかじめ組み込まなければならない。
それは受付の仕組みの問題ではなく、講習の設計の問題だ。
夕方、ガルムが砦の中庭を通りかかったとき、レインが壁に図面を貼り直しているのを見た。
「また何かやってるのか」
「講習の順番を変えます。退避線と帰還報告を最初に置く。採集札は後」
「なんで」
「帰還報告の理解率が一番低かった。後半に説明したから、最後に薄れた可能性があります。大事なことを最初に言う」
「そりゃそうだな」
ガルムは腕を組んだ。
「ところで、今日の確認で何人が止められた」
「五人が一度止まりました。そのうち四人は通過しました」
「止まった一人は?」
「商人の連れで、今日は採集の予定がないとのことで辞退しました」
「あの細い通路に向かいかけた男は」
「テオは一度止まりましたが、再確認で通過しました」
ガルムは少し表情を緩めた。
「あいつ、今日の午後に訓練区画を一人で歩いてたぞ。退避線の矢印を壁ごとに指で確かめながら、ゆっくり歩いてた。俺が見てたのに気づいてなかった」
レインは図面から目を上げた。
「止められた後で、自分で確かめに行ったということですか」
「そういうことだろうな。ああいう動き方をする人間は、一度頭に入ったら忘れない。……説明を聞き流してた人間に、確認をかけたのは正解だ」
夜、受付棟の前の広場に残っていた既存の採集者が数人、ベルダの台帳受付の前で待っていた。
更新の列が新設されたおかげで、午後の採集から帰ってきた常連の処理は前日より早かった。だが、それでも今日は全体的に時間がかかっていた。
その一人、三度目の再訪だという中年の男が、更新を終えた後で言った。
「今日、受付前に並んでたら、初めて来た奴らと一緒に待たされたんだが。あれ、毎日こうなるのか」
ベルダは台帳に印を押しながら答えた。
「今日は講習と更新の列を分けた。それでもまだ待ってもらうことがある。申し訳ない」
「前は五分で済んだ。今日は三十分待った」
「人が増えたからです。改善します」
男は小さく舌打ちをして、宿舎の方へ歩いていった。
ベルダはその背中を見てから、隣に立っていたレインに言った。
「聞こえたか」
「聞こえました」
「初回講習に時間をかければ、常連の待ち時間が増える。これは今日だけじゃない。仮講習を続けるなら、常連の不満は積み上がる」
「分かっています」
「どう対応する」
「更新列を増やすか、更新処理を省力化するか。ただし省力化する場合は、理解の確認が薄くならないよう設計を変えます。今日のルカの提案を再検討します」
「ルカ?」
「受付処理の省力化を担当するAI精霊です。今日は一度却下しましたが、更新列については分けて考える余地があります」
ベルダは少しだけ目を細めた。
「断ったやつを再考するのか」
「状況が変わったので。初回と再訪では、確認に必要な精度が違います。再訪者は過去の記録があります。そこを分けられれば、ルカの省力化案が活きる場面があります」
ベルダは台帳を閉じた。
「……やることが増えたな、また」
「ええ。ただし、今日の講習で一つだけ確かになったことがあります」
「何だ」
「説明して終わりにしていたら、あのまま全員通していた。確認を入れたことで、五人が一度止まった。そのうち四人は通過した。……一人は辞退したが、強制する理由もない」
「五分の四か」
「残り一人は今日見学もしていないので、次に来たとき再確認を受けてもらえばいい。それも記録に残っています」
ベルダは台帳を棚に戻しながら言った。
「記録が残るなら、次の受付でも拾えるな」
「そのためにベルダの台帳があります」
ベルダは振り返らなかった。ただ台帳の棚に手を当てたまま、少しの間だけ黙っていた。
「……受付が、ただの入場処理じゃなくなった、ってことだな」
「そうなります」
「厄介だな」
「ええ。ただし、仕組みにすれば回せます。今日の確認が、明日の安全に繋がる」
ベルダは小さく息を吐いた。
その夜、台帳には新しい列が追加された。
名前の横に、「講習済」「確認通過」「再確認待ち」の三つの区分が入った。
受付が、単なる入場管理から、来訪者の教育を記録する仕組みへと変わり始めた一日だった。




