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第63話 青札を笑う新人

 朝の採集が始まる前の時間帯、第一層の入口に近い仮広場に、七人ほどの冒険者が集まっていた。

 ヤルゼンの若手たちが五人。それから灰霧前砦の既存利用者が二人、見学がてらついてきていた。


 その前に立っているのがリナだった。

 リナは手に丸めた図面を持ち、壁に貼られた色分け表を指しながら説明していた。図面は自分で描いたものだ。昨日の夜、少し修正した。


「第一層の訓練区画に入る前に、五色の意味だけ確認します。緑が生活導線、黄が採集初級、青が採集中級、赤が危険資源区画、白が荷運び専用。この五色は、迷宮の中でも同じ色で地面と壁に線が引いてあります」


 淡々とした話し方だった。教師らしい雰囲気を作ろうとしているわけではなく、必要なことを順番に言っているだけ、という感じだった。


「緑の線から外れたら、何があるか分かりません。道に見えても、緑の外は迷宮の管轄外です。事故が起きたとき、緑の外にいた人の帰還は保証されません」


「保証されないって、どういう意味だ」


 カイルが腕を組んで聞いた。


「道標も退避線もないということです。万が一の場合、救助に行けない区画があります」


「じゃあそこは危険なのか」


「分かりません。安全かもしれないし、そうじゃないかもしれない。分からないから、管理されていない」


 カイルは少し黙った。


「あんた、青札持ちなんだろ。青札って、この色の青か?」


「そうです」


「つまり、採集の中級ランクってことか。戦闘でいうなら、どのくらいの強さに当たる?」


 その問い方に、隣のヤルゼンの若手が小さく笑った。二人がカイルに同調するように顔を見合わせた。

 リナはカイルを見た。


「戦闘力は関係しないので、比べようがないです」


「関係ない? 迷宮で魔物と戦わないのか?」


「第一層の訓練区画には小型の魔物が出ます。ただ、青札の評価基準は、魔物を倒せるかどうかじゃありません」


「なら何だ」


「帰れるかどうかです」


 カイルの目が少し変わった。値踏みする光がまだあったが、少し違う色になった。


「帰れるかどうか、って、死にそうになったら逃げろってことか?」


「逃げる、という言い方より、撤退判断です。自分が今どこにいて、何が変わったか、どこまでなら引き返せるかを、常に確認しながら動く。それができていれば、帰れる。できていなければ、強い人間でも帰れないことがある」


 ヤルゼンが、少し離れた場所で腕を組んで聞いていた。口は挟まなかった。

 説明が一通り終わった後、全員で第一層の見学区画を歩いた。


 ガルムが先導役をかって出て、リナはその後ろについた。

 通路は薄暗いが、緑の光石が適切な間隔で並んでいる。足元の石畳は補修済みで、段差がない。壁に退避線の赤い矢印が定間隔で描かれていた。


「おい、ここは見た目より広いな」


 若手の一人が天井を見上げた。


「第一層の主通路は荷運びが通れる幅で設計されています。採集者と作業員が干渉しないように」


 ガルムが答えた。


「前はどうだったんだ」


「ゴブリンが湧いて、誰も定期的に直さないから、ここを通る冒険者はほとんどいなかった。今は違う」


 その答えには説明よりも重みがあった。ガルムは昔のことを知っている人間だった。

 カイルは通路の壁を指先でなぞった。「この赤い矢印、どっち方向が出口だ」


「矢印の向きが出口です。どこにいても、この矢印を追えば入口に戻れる」


「全部か?」


「全部です。これが退避線です」


 カイルは少し立ち止まり、壁の矢印を見た。

 そのとき、若手の中でもう一人の男が、通路の脇に続く細い道へ顔を向けた。緑の線が途切れている場所だった。


「こっちはどこに続くんだ」


「見学区画の外です。入れません」


「なんで? 暗いだけで通れそうだが」


「今は管理されていない区画です。何があるか確認できていないので、立ち入りは許可されていません」


「確認できていないって、ここの管理者はまだ全部把握してないのか」


「迷宮は広いので、全部は終わっていません」


「ふうん」


 男の声には軽さがあった。禁止の意味を飲み込んだというより、面倒くさいと感じている声だった。

 リナはその男の顔を見た。名前はまだ知らない。


 見学が終わり、入口近くに戻ってきたところで、ガルムが全員に向かって言った。


「今日はここまでだ。訓練区画に入るのは、明日の講習を終えてから。それまでは見学区画の外には出るな。分かったか」


 若手たちの何人かが頷いた。カイルは黙っていた。


「質問があれば今のうちに」


 また別の若手の女が手を挙げた。第62話でガルムの説明を聞いていた、眼の利きそうな小柄な娘だった。


「採集に必要な道具は持参するんですか、それともここで借りられますか」


「受付で貸出用があります。ただし、採集物の種類によって使っていい道具と使えない道具がある。それも講習で説明します」


「ありがとうございます」


 ガルムはその答えが気に入った様子で、少し表情を柔らかくした。

 若手たちがぽつぽつと散りはじめたころ、レインが少し離れた場所から近づいてきた。見学の間、ずっと距離を置いて観察していた。


「ガルム」


「ああ。大体様子は分かった」


「リナの説明はどうでしたか」


「悪くなかった。一度以上言わなかった。繰り返して念押しするより、一度聞かせてあとは現場で覚えさせる方が早い、というのは俺も同感だ」


「細い通路に入ろうとした男を見ましたか」


「見た。あれは今日だけじゃない。明日の講習でも試すだろう」


 レインは少し間を置いた。


「ノア」


 緑の光の靄が耳元に浮かんだ。


『はい、管理者様。ご指示があれば』


「あの男が管理区画外に立ち入った場合の処分基準を確認しておいてください。停止処分の対象になるかどうか」


『了解しました。現行規則では、警告なしの初回侵入は口頭注意と記録。再侵入の場合は採集資格の一時停止です。ただし、講習前の者については、知らなかったという抗弁が成立します。講習前後で処分基準を分けることを推奨します』


「講習前は注意のみ、講習後は記録付きで。その方向で整理してください」


『かしこまりました。ただし、同意なく危険区画に入った場合は講習前後を問わず即時停止が妥当です。線引きを明文化します』


「ノア、一つ確認します。その停止処分の対象は、講習を受けた者と受けていない者で明確に分けることが前提ですね」


『はい。そのように整理します。……ただし、明文化する前に発生した侵入については、遡及して適用することは推奨しません』


「分かっています。今から整備するのはこれ以降のためです」


 ノアへの返答が終わったところで、ガルムが口を挟んだ。


「精霊と話してると、お前はいつも処分の話から入るな」


「守れない規則を作っても意味がないので、まず違反のコストを決めます。コストが先、感情が後」


「それが管理者のやり方か」


「それが壊れない仕組みの作り方です」


 その日の午後。

 リナが荷捌き場で帰還報告書の整理をしていたとき、後ろから声がかかった。


「さっきの説明、聞いてたぞ」


 細い通路に入ろうとした男だった。


「はい」


「なんであんたが説明してるんだ。受付の人間じゃないだろ」


「青札持ちは、必要に応じて案内を担当することがあります」


「必要に応じて、ね」


 男は壁に寄りかかった。悪意というより、暇つぶしに話しかけているような感じだった。


「あの細い道、ほんとに何があるか分からないのか」


「分からないから立ち入り禁止です」


「怖いのか」


「怖いかどうかではなく、確認できていないものに人を入れれば、何か起きたとき対処できない。それだけです」


「でも入ってみれば分かるだろ」


「私が確認した話をするなら、入って確認するのは私かガルムさんか管理者さんで、それ以外の人を入れて確認することにはなりません。確認は、帰れる準備をした人間がするものです」


 男は少し間を置いた。


「あんたは帰ることばっかり言うな」


「そこが大事だからです」


 男は鼻から息を抜き、立ち上がった。「まあいいや。明日の講習とやらで聞く」

 歩いていく男の背中を見ながら、リナは報告書に視線を戻した。


 帰れるかどうかよりも、先に行けるかどうかを気にしている人間は、どこから来てもいる。それはカイルも同じだし、以前の自分もそうだった。

 ただ、以前の自分と今の自分が違うのは、その先に行ったとき何を見るかより、その先から戻ってきたとき何を持って帰るかを、先に考えるようになったことだった。


 ——もっとも、それを言葉で説明して分かってもらえるかどうかは、また別の話だけれど。

 夕方、管理棟に戻ったレインに、セレスが報告した。


『管理者様。今日の見学中に、名前不明の男性利用者が緑線外の細い通路へ約三歩立ち入ったことを記録しました。戻ってきており、深部への侵入ではありません。現行規則の適用範囲は曖昧なため、今回は記録のみです』


「分かりました。ノアが整理中の処分基準が明文化されたら、それを講習資料に含めてください。処分の話は脅しとして使うのではなく、なぜそのルールがあるかを説明する材料として使う」


『了解しました。……補足として、リナ氏の本日の説明行動を分析した結果、説明の内容は講習資料として活用できる精度があります。明日の仮講習に組み込むことを推奨します』


「リナが作った図面も?」


『はい。手書きですが、訂正の跡から改訂の経緯が追えます。どこを直したかが見えることは、講習素材として有効です』


「後で本人に確認します」


 レインは端末を置き、窓の外を見た。

 砦の広場では、夕食の炊き出しが始まっていた。ヤルゼンの若手たちが既存の冒険者と並んで列に並んでいる。カイルは少し離れたところで、一人の女の冒険者と何か話していた。


 明日の講習がある。

 説明すれば分かる、という前提では動かない。分かったかどうかを確認する仕組みが要る。それが今日、リナの説明を見ていて改めて見えたことだった。


 そして、明日の講習の前に、もう一度細い通路の方向を確認しておこうと、レインは端末に短くメモを残した。

 あの男が今日三歩だったなら、明日は何歩踏み込むか。


 止める前に、まず記録する。それが対処より先にやることだった。

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