第62話 教導係ヤルゼンの誤解
灰霧前砦の宿舎棟に隣接した小会議室は、普段は台帳と荷物の山が積まれている雑然とした部屋だった。
それをベルダが前日の夜に片付けていた。理由を聞くと「それくらいの見栄えは張るよ」と素っ気なかったが、テーブルの上には白湯の入った椀まで二つ並んでいた。
レインとヤルゼン・ロックが向かい合って座った。
ヤルゼンの連れてきた若手冒険者たちは今、砦の見学区画を案内係と一緒に回っている。
ヤルゼンは素直に頭を下げた。
「昨日は失礼しました。あの混雑の中に飛び込んで、余計な手間をかけた」
「列が三つに割れただけで、まだ正常とは言えません。気にしないでください」
レインは椀に手をつけず、ヤルゼンを見た。
「改めて聞かせてください。今日、ここに来た目的を」
「単刀直入に言いましょう」
ヤルゼンは大きな手を組んで、テーブルに肘をついた。
「カルデン市では、若手冒険者の事故率が高い。近隣の迷宮はどこも、初心者が入れる場所が第一層だけで、いきなり死ぬか、何も経験できないまま帰るかのどちらかだ。……灰霧迷宮は、段階的に経験を積める場所だと聞いてきた。若手を安全に慣らす場所として、ここを使えないかと思っています」
「若手を何人連れてくる予定で?」
「まず今回の六名。次は十名から十五名を想定しています。教導係の私がついていれば、教師役は用意できる。……ここは、扱いやすい訓練場所になれると思ったんですが」
レインは少しだけ間を置いた。
「ひとつ確認させてください。『訓練場所』という言い方を今されましたが、どういう意味で使っていますか」
「どういう意味、というと?」
「危険を抜いて、安全に経験だけ積める場所、という意味ですか。それとも、段階を踏んで実地に慣れさせる場所、という意味ですか」
ヤルゼンは少し考えてから答えた。
「……前者に近い、と思っていました。初心者が死なないというのは、それくらいの意味かと」
「それが最初の誤解です」
レインは言い方を柔らかくしなかった。ただ、責めるつもりもなかった。
「灰霧迷宮は危険を抜いた場所ではありません。危険の場所は変わっていない。ただ、どこが危険で、なぜ危険で、どう対処して帰るかを、段階的に学べる導線を作っています。……違いは、小さいようで大きい」
「具体的には?」
「第一層の安全区画に入っても、正しい手順を無視すれば怪我をします。退避線の意味を知らなければ、警告の意味が分からない。採集札の仕組みを理解していなければ、立ち入れない区画に入ろうとする。……昨日、まさにその事例が受付前で起きていました」
ヤルゼンは軽く眉を動かした。
「あの男か。採集札で第二層に直行できると思い込んでいた」
「ええ。あれは例外ではありません。灰霧迷宮が安全で稼げると聞いてきた人間の多くが、同じ誤解を持っています。……ルールを理解した人間にだけ安全な迷宮であって、誰にでも安全な迷宮ではない」
テーブルを挟んで、しばらく沈黙が続いた。
ヤルゼンは腕を組んで視線を落とし、何かを考えていた。
「……なるほど。それは、私の想定とは別物だ」
そのとき、廊下から声が聞こえた。
ガルムだった。
「よう、ヤルゼンとかいう人は中か?」
返事を待たず扉が開いた。ガルムは会議室を見渡し、二人が座っているのを確認するとそのままドカッと入ってきた。
「レイン、若手の見学の方は済んだか。あの連中、広場の案内板を見て、色分けの意味を聞いてきた」
「何と答えましたか」
「通っていい道と、通ったら死ぬ道の違いだと言ってやった。そうしたら一人が笑いやがったから、じゃあ自分で確かめてみろと言っておいた」
「笑った子が誰だか後で教えてください」
「こっちこそ把握してるよ。……で、ヤルゼン殿」
ガルムはヤルゼンに向き直り、椅子を引いて腰を下ろした。礼儀は最低限だが、無礼というほどでもない。
「あんた、若手を連れてくるとき、どんな説明をしてきた?」
「安全な迷宮で経験を積める場所だと言ってきました」
「そりゃまずいな」
ガルムはあっさり言った。
「安全、っていう言葉は、ここじゃ違う意味で使う。甘いとか、楽だとか、そういう意味じゃない。……俺がこの砦で現場を見てきた中で言えば、『ルールを守れる人間が生きて帰れる場所』だ。守れない奴は、ここも危ない」
「現場頭の言葉として聞いておきます」
「ありがたい。……それで。あんたが連れてきた若手の一人が、さっき俺に聞いてきた。『この迷宮の訓練、本当に意味があるのか。普通の迷宮で戦った方が早く強くなれるんじゃないか』って」
ヤルゼンは眉間に皺を寄せた。
「誰が言った」
「一番若そうな、赤い布を腰に巻いた奴だ」
ヤルゼンはため息をついた。
「……カイルだな。あいつは腕が立つ分、こういう場所を軽く見る癖がある」
「腕が立つのは結構だが、退避線の色の意味が分からないうちは実地に入れない、とそのカイルとやらに伝えておいてください」
レインが口を挟んだ。
「……入れない、とは?」
「講習を受けていない人間は、第一層の訓練導線にも入れません。ヤルゼン殿がついていても、例外はない」
ヤルゼンは少し間を置いてから、「それは、厳しいな」と言った。責めているのではなく、確認するような言い方だった。
「厳しいかどうかより、必要かどうかで決めています。退避線の意味を知らない人間が第一層に入ると、万が一の際に自分だけでなく周囲を引き込む。……ヤルゼン殿の言う通り、教導係がついているなら全員管理できる、という考え方も分かります。ですが、私が問題にするのは今の一回だけではなく、次に来たときも、その次に来たときも、同じ基準で守れるかどうかです」
「仕組みとして動かしたいわけか」
「そうです」
ヤルゼンはしばらくレインを見ていた。
「……管理者というより、設計者だな、あんたは」
「言い方の問題です。やることは同じです」
午後に入ると、ヤルゼンの若手六人が見学から戻ってきた。
広場の片隅で、ガルムが彼らに五色の導線の説明をしていた。レインは少し離れた場所から見ていた。
「緑が生活導線。黄が初級採集。青が中級採集。赤が高危険区画。白が作業員通路だ。この五色の意味が体に入るまで、他の色は覚えなくていい」
「全部覚えれば奥まで行けるんですか」
若手の一人が手を挙げた。小柄で眼が利きそうな、十代後半とおぼしき少女だった。
「色を覚えるのは最低限だ。その先に何があるか、なぜそこに立ち入れないかが分かって初めて使える」
「でも、色さえ分かれば道を間違えないでしょう」
「昨日、受付の前で男が怒鳴ってただろう。あの男も採集札の色は知ってた。意味は分かってなかった。……同じことだ」
少女は少し考えてから「なるほど」と言った。
その後ろで、腰に赤い布を巻いた若者が、退屈そうに砦の壁を眺めていた。カイル、だろう。
レインはそちらを見ていた。
カイルは、同じくガルムの説明を聞いていたが、途中から視線が別の方向へ向いた。
採集物の帰還報告をしているリナだった。
リナは荷捌き場で、採集袋の中身を広げ、担当者と確認作業をしていた。手際よく、テキパキと動いている。
カイルがその様子を眺め、隣の仲間に何かを耳打ちした。二人が小さく笑った。
内容は聞こえなかった。
ただ、レインはその視線の温度を見た。笑い方の感じで、おおよその見当はついた。
——あれが青札か、くらいの話だろう。
それ以上でも以下でもない。今は。
だが、あの調子でリナの説明を聞き流せば、次の話が変わってくる。
レインは管理端末に短いメモを打ち込んだ。
夕方、ヤルゼンが会議室を出る前に立ち止まった。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「若手を実地に投入できるのは、講習を終えてからだと言っていたが……それはどのくらいかかる?」
「早い人間で半日。理解の速度次第では一日から二日かかります」
「実地は?」
「講習を終えて、見学導線を歩いて、退避線と警告札の意味を自分の言葉で説明できたら、第一層の訓練区画に入れます」
ヤルゼンは腕を組んだ。
「……その基準は、外からは厳しく見える」
「死なせたくないから厳しいのか、仕組みを守りたいから厳しいのか、どちらだと思いますか」
ヤルゼンはレインを見た。
「……両方だな」
「正解です」
レインは初めて少しだけ口元を緩めた。
「明日の朝、若手全員に仮講習を受けてもらいます。その内容を見てから、実地に入れるかどうか判断してください。ヤルゼン殿の目で見て、この仕組みに意味があると思えるかどうか、確かめてから決めてもいい」
「……なるほど。観察させてもらおう」
ヤルゼンは短く頷いた。拒絶でも賛同でもない、現場の人間らしい答えだった。
その夜、荷捌き場の片付けが終わった後。
リナが帰還報告書の写しをまとめていると、後ろから声がかかった。
「あんた、青札なんだって?」
振り返ると、赤い布を腰に巻いた若者が立っていた。カイルだった。
声の感じは、馬鹿にしているのか感心しているのか判断しにくかった。ただ、目の中に値踏みする光があった。
「そうですが」
「どのくらいかかった? 青札になるまで」
「一度落ちて、やり直してから。半年くらいです」
「半年か。俺なら三月で取れそうだが」
リナはカイルを見た。一拍おいて、言った。
「採れるかどうかより、帰れるかどうかですから」
カイルは少し間を置いた。
「それ、どういう意味だ」
「明日の講習で分かります」
リナは写しをまとめ直して立ち上がり、その場を離れた。
カイルがその後ろ姿をしばらく眺めていた。




