第61話 灰霧前砦、列が割れる
朝霧がまだ晴れきらない時分から、怒号が飛んでいた。
「なんで動かねえんだ! 俺は採集に来たんだぞ!」
「商談の約束があるって言ってんだろ! いつまで待たせる気だ!」
「後ろ、押さないでよ!」
灰霧前砦の受付小屋の前には、冒険者、行商人、職人らしき男、物見遊山の見学者、そして「うちの父がここに来てるはずで」と繰り返す付き添いの若い娘まで、身分も目的もばらばらな人間が一列に押し込まれ、怒号を飛ばし合っていた。
列の先頭では、ベルダが額に手を当てて目を閉じていた。
「……これは、さすがにパンクする」
独り言のつもりだったが、レインの耳にはしっかり届いていた。
彼は砦の門から少し外れた位置に立ち、全体を見渡していた。人数を数えるためではない。どんな人間が、どんな顔で、何のために並んでいるのかを確かめるためだった。
見た目だけでも、ざっと五種類いる。
腰に剣や採集袋を下げた冒険者。天秤や帳面を持った行商人。工具や資材の見本らしきものを抱えた職人。手ぶらで物珍しそうに首を回している見学者。そして先ほどの娘のような付き添い。
全員が同じ一列に並んでいた。
「セレス」
レインは低く呼んだ。
空中に、うっすらと淡青の光の靄が浮かぶ。声は耳元にだけ届く、管理者専用の通信だ。
「現在、受付前の滞留数は三十七名。冒険者が十六名、商人・物流関係が九名、職人区画への問い合わせが五名、見学者と判断できるのが四名、目的不明が三名です」
セレスの声は感情を削ぎ落とした報告そのものだった。
「分類データとしては明確です。問題は処理速度ではなく、入力口が一つしかないことによる混雑です」
「ああ、分かってる」
レインは呟いた。
これは、人が増えたせいじゃない。
人が、一種類じゃなくなったせいだ。
ベルダの元へ近づくと、彼女はすでに限界に近い目をしていた。
「レイン、聞いてくれないか。今朝だけで七回、同じ説明をしたよ。採集に来たのか、商談に来たのか、見学したいのか、住みたいのか——全部一回ずつ聞かないといけないんだよ。そのたびに後ろから怒鳴られる。私はどうすれば」
「今日ここに来た人間の、最初の一言を覚えてるか?」
「……どういう意味だい?」
「受付で最初に言ったことだよ。採集に来た、と言った人と、商談の約束がある、と言った人と、見学してみたい、と言った人が全員同じ列に並んでる。それぞれ、受付で聞かなきゃいけないことが全然違う。採集の説明が必要な人間に、宿舎の部屋を案内しても意味がないだろ」
ベルダは一瞬、何かを確認するように口を閉じた。
「……確かに。採集目当ての人間に宿舎の説明しても、お互い時間の無駄だね」
「そういうことだ」
問題は処理能力じゃない。目的が混ざったまま一列に並んでいることだ。
声が上がったのは、その直後だった。
「おい! 俺は採集に来たんだぞ! 採集札とやらを買えば第二層まで行けるんだろうが! なんで見学者と同じ列で延々と待たされなきゃならん!」
三十代とおぼしき、体格のいい男だった。腰に短剣を二本下げ、大きな採集袋を肩に担いでいる。他の迷宮で採集業をやってきた雰囲気がある。
レインは男に向き直った。
「採集に来たんですね。どちらから?」
「ハルメ街道の南側からだ。灰霧産の鉱泥が高く売れると聞いた。採集札さえあれば誰でも入れると、そこの宿場町の者に言われた」
「……採集札の説明は受けましたか?」
男は「は?」と顔をしかめた。
「あんな紙切れに説明が要るのか? 金払って許可証を買う、それだけじゃないのか?」
レインは内心でため息をついた。
そういうことか。
採集札は「許可証」ではない。立ち入れる区画と責任範囲を定める「運用証」だ。第二層浅部の青線区画に入るには、最低限のルールを理解していることが前提になっている。しかし男はそれを知らない。いや、知らされていない。
噂が一人歩きしていた。
「採集札は、金を払えば誰でも第二層に入れる、という仕組みじゃないんです」
「じゃあ何なんだ」
「どこで何をしていいか、何をしてはいけないかを確認した証です。確認していない方には、今日は発行できません」
男の顔色が変わった。
「ふざけんな。遠くから来たんだぞ。並ばせておいて、今さら入れないとか——」
「並び方を変えます」
レインは列全体に向かって声を上げた。
「皆さん、少し聞いてください。今から列を分けます。採集や迷宮への立ち入りが目的の方は右側。商談や物資の相談が目的の方は左側。拠点内を見学したいだけの方は中央に並び直してください。どれか分からない方は、いったん中央でお待ちを」
列がざわついた。文句が飛んだ。
「なんで並び直さないといけないんだ!」
「いきなり変えんな!」
「俺は最初から並んでるのに損じゃないか!」
「それぞれの用件に応じた対応が一番早いからです。全員が同じ窓口を通ると、今より遅くなります」
レインは動じなかった。黙らせたわけではない。理由が納得できる形で出た。
少しずつ、人が動き始めた。
三十分後——。
受付前の景色が変わっていた。
右列には冒険者と採集者が固まっている。まだ怒号が混じっているが、確実に流れている。左列の商人と職人はむしろ整然としており、中央の見学者たちはかえって静かだった。
ベルダが受付小屋の中から首を出し、右列の先頭の男と話している。口調は早口だが、怒鳴り合いではなくなっていた。
「セレス、列ごとの通過速度は?」
「右列は依然として詰まっています。初回来訪者への採集説明が必要な人間が多く、一人あたりの対応時間が長い。左列は三倍速で流れています。中央は折り返し待機で安定しています」
「右が問題か」
「初回来訪者に対して、受付一人で採集の説明を完結させようとしているのが原因です。説明工程を分離するか、補助人員を置くか、説明そのものを省力化する必要があります」
「今すぐできるのは補助人員だけだな。説明の仕組み化は今日じゃ無理だ」
レインは砦の中を見回した。
ガルムは別の場所で荷降ろし作業の監督中だ。エルメアは医療区画にいる。誰かを右列の仮補助に回せるか、少し考えた。
そのとき、砦の門から太い声が届いた。
「なんだ、ここは毎朝こうなのか?」
振り返ると、砦の門をくぐってきた大柄な男がいた。四十代とおぼしき体つきで、左腕に冒険者組合の教導章を光らせている。その後ろには、まだ若い冒険者が六、七人ついてきていた。
男は受付前の三列を見渡し、わずかに眉を上げた。
「……なるほど、列を割ってるのか。面白いことをするな」
感心しているのか呆れているのか、判断しにくい顔だった。
レインは男に近づいた。
「カルデン市の教導係、ヤルゼン・ロック殿ですか?」
「そうだ」男は短く答えた。
「予定通り来た。若手の訓練場として、ここを使えるか話を聞きたい」
後ろの若い冒険者たちが、受付の混雑を眺めながら何か囁き合っている。
レインは彼らを見た。二十前後の顔が多い。目の中に、焦りと期待が混ざっている。
——灰霧迷宮は、安全で稼げる場所。そう聞いてきた顔だ。
受付の右列では、採集説明の順番待ちでまだ怒号が飛んでいた。
今日一日では終わらない、とレインは思った。
だが、今朝の時点でひとつだけ確かになったことがある。
問題は人が増えたことではない。
誰が何のために来たのかが、まだ整理されていないことだ。
それと同時に、もうひとつ分かったことがある。
採集札を「許可証」と思い込んでいる男がいた。第二層には行けると言った宿場町の者がいた。噂は意味の半分を削いだまま、外へ伝わっていた。
受付の仮列は応急処置に過ぎない。
本当に直さなければならないのは、灰霧迷宮に来る前の段階で、来訪者の頭に入っている「灰霧迷宮とは何か」という認識だ。
改善のスタート地点は、そこからだった。
ヤルゼンは砦の中を眺めながら、独り言のように口を開いた。
「報告では、ここは初心者が死なない迷宮だと聞いてきた。それが本当なら、俺が連れてきた若手の実地訓練に使えると思ったんだが」
彼の後ろで、若手の一人がぼそりと言った。
「三列に分けてるのに、まだ詰まってるじゃないですか。大したことなさそうですね」
その声は、レインにもヤルゼンにも聞こえた。
ヤルゼンは何も言わなかった。
レインも、その言葉には反論しなかった。
右列ではまだ怒号が飛んでいる。仮列は流れ始めたが、右側だけが滞っている。大したことない、と言われれば今の状態はそう見えるかもしれない。
三十分前よりはずっと流れている、ということは、今朝の怒号の地獄を見ていなければ分からない。
「今日の夕方、時間を取れますか」
レインはヤルゼンに向かって言った。
「この拠点が何をやっているのか、実際に見てもらったうえで話した方が早い。今の状態で話を進めても、お互いの前提がずれたまま噛み合わなくなります」
ヤルゼンは少し考えてから、短く頷いた。
「分かった。ただし、若手にはここを自由に見学させてもいいか」
「今日は見学区画の中だけにしてください。どこが見学区画かはベルダに確認を。採集区画と訓練区画には、まだ案内なしでは入らないでほしい」
「……なぜだ?」
「説明なしで入ると、案内板の意味が分からないまま進む人間が出ます。今朝それで一件ごたついたばかりなので」
ヤルゼンは片眉を上げた。
「管理が厳しいな」
「厳しいんじゃないです。今の整備状況に対して、適切な受け入れ方をしているだけです」
返答に詰まったのか、ヤルゼンは小さく鼻から息を抜いた。それから受付の右列をもう一度眺め、何か考えるような顔をした。
後ろの若手たちは互いに顔を見合わせていた。
砦の中では、ベルダが右列の先頭の採集者に説明を続けている。声が聞こえる距離だ。採集札の仕組み、立ち入れる区画、退避線の意味、帰還報告のやり方。
説明は長い。
そして、右列の後ろにいる人間たちは、その説明が終わるのを黙って待っていた。
——やはり、説明を受付の中でやるのは限界だ。
レインは頭の中で、次の改善の輪郭をなぞり始めていた。




