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AI精霊と始める迷宮再建 〜落第管理者ですが、運用改善で最強ダンジョンを作ります〜  作者: 結城ログ
第2章:人口爆発と衛生インフラ問題 ―― 地下水脈層を解放せよ
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第40話 水を売る者たち

 地下の暗闇から地上へと通じる重い鉄格子を抜け、灰霧前砦の広場へと足を踏み出した瞬間。

 レイン・ヴァルトの肺に流れ込んできたのは、爽やかな朝の空気ではなく、ひどく淀んだ、病と排泄物の混じり合った重苦しい悪臭だった。


 徹夜の泥まみれの配管工事を終え、ようやく太陽の光を浴びたというのに、一行の顔に達成感はない。

 広場の片隅に設けられた隔離テントの周りでは、依然として強い匂いの薬草が焚かれ、そこから漏れ聞こえてくる苦しげなうめき声は、昨日の出発前よりも明らかに人数が増えていた。


「……ひでえ有様だな。一晩で、さらに病人が増えやがったのか」


 大槌を肩に担いだガルムが、忌々しそうに顔をしかめる。

 彼ら大工衆の顔には、極度の疲労と睡眠不足の色が濃く張り付いていたが、それ以上に「仲間が苦しんでいる」という事実が、彼らの心を重く沈ませていた。


「親方、皆さん、本当にお疲れ様でした。……ですが、休むのは水を通してからです。バルブの最終点検と、排水溝の接続確認(テスト準備)を急いでください」


 レインが指示を出すと、作業員たちは無言で頷き、広場の中央に新設された不恰好な「給水塔」――地下から真っ直ぐに伸びてきた太い配水管の出口へと向かっていった。


 その時だった。


「おお! 戻られたか、共同経営者殿! それに大工衆も、地下での大仕事、見事であった!」


 青い線の商人区画から、恰幅の良いバロス会頭が、満面の笑みを浮かべて出迎えてきた。

 だが、彼の横には、見慣れない――いや、レインにとっては一度だけ顔を合わせたことのある、厄介な男が並んで立っていた。


「おはようございます、やり手の管理者殿。いやはや、凄まじい執念ですね。まさか本当に、一晩で地下水脈からのパイプラインを引き上げてしまうとは。……王都の怠慢な役人どもに見せてやりたいほどの、素晴らしい手腕です」


 上質な服に身を包み、完璧な笑みを浮かべた若い男。

 王都の水運商会連合の代理人、セドリック・ヴェインだった。


 レインは銀縁眼鏡の奥で目を細め、セドリックの背後にある青い区画へと視線を向けた。

 そこには、昨日は存在しなかった巨大な荷馬車が数台停められており、真新しい、見た目にも美しいオーク材の巨大な「貯水樽」がいくつも並べられていた。

 樽の周囲には冷気を放つ魔法陣が刻まれており、夏の熱気の中でも、樽の表面にはひんやりとした水滴が結露している。


「……セドリックさん。あの立派な設備ハードウェアは、一体何のつもりですか」


「おや、冷たいですね。私はただ、あなた方が汲み上げた命の水を、この砦の隅々まで『安全かつ快適に』お届けするための、ささやかなインフラ投資を持ってきただけですよ」


 セドリックは芝居がかった手つきで、背後の樽を指し示した。


「地下から水を汲み上げても、それを一時的に溜めておく巨大な『貯水槽』がなければ、冒険者たちは泥だらけの給水塔に群がり、結局はまた水を汚染してしまうでしょう? ……それに、病人のいる隔離テントまで、誰が重い水を運ぶのですか?」


 セドリックの指摘は、極めて正確で、かつ現実的な問題だった。

 レインが構築したのは、あくまで「地下から広場へ水を出す」ところまでだ。そこから先、五百人の住人へどうやって水を配るか(ラストワンマイルの配送網)の設計は、まだ完全に手付かずの状態だった。


「さあ、管理者殿、バロス会頭。少し座って、建設的な未来の商談おはなしをしましょう」


 セドリックに促されるまま、レインとバロス、そして騒ぎを聞きつけてやってきたベルダの三人は、商会の天幕へと足を踏み入れた。


 上等な椅子に腰を下ろすなり、セドリックは一枚の美しい羊皮紙をテーブルの上に広げた。


「我が水運商会が、この砦の『配水事業』を全面的に代行いたします」


 セドリックは、滑らかな口調でプレゼンテーションを開始した。


「広場に巨大な冷却魔導具付きの貯水タンクを設置し、専門の給水係を常駐させます。さらに、病人のいるテントや、遠くの商人区画へは、我々の手配した配水車が定期的に巡回し、清潔な水を直接お届けする。……水を汲むための行列も、水場での乱闘騒ぎも、すべて我々が責任を持って管理マネジメントいたします」


「……至れり尽くせりだね。で、その莫大な設備投資と人件費の『対価』はなんだい?」


 ベルダが、疑り深い目でセドリックを睨みつける。

 セドリックはニコリと笑い、羊皮紙の最後の一行を指で叩いた。


「もちろん、砦の管理側から費用は一切いただきません。すべて『自費』で構築します。……その代わり、この砦における『水の販売権』を、我々水運商会に完全独占させてください。末端の利用者である冒険者や大工たちから、毎日わずかな『水代』を徴収する。……それだけで結構です」


 天幕の中に、重い沈黙が落ちた。


 設備投資を無料にする代わりに、利用料で永続的な利益を回収するビジネスモデル。

 一見すると、金も人手も足りていない砦の運営側にとっては、非常に魅力的な提案に聞こえる。


「……なるほど。インフラの維持管理(保守運用)を外部に丸投げ(アウトソーシング)し、エンドユーザーから直接課金させるというわけですか」


 レインが静かに呟くと、隣に座っていたバロスが、葉巻の煙を吐き出しながら深く頷いた。


「商人としての目線で言えば、極めて理にかなった提案だ。……レインよ、配水設備の維持や、水回りのトラブル対応には、想像以上に金と人手がかかる。我々商工会も、防壁の建設や食料の調達で、すでにかなりの出血を強いられている。……ここから先の『水売り』の面倒な実務を彼らに任せてしまえば、砦の運営コストは劇的に軽くなるぞ」


 バロスは、セドリックのことが個人的には好きではないようだったが、その提案がもたらす『経営的な合理性』は、プロの商人として正当に評価していた。


「アタシも……悔しいけど、バロス会頭の言う通りかもしれないと思うよ」


 ベルダが、疲れ切った顔でポツリとこぼした。


「今、広場じゃ水不足で殺気立ってる連中が山ほどいる。あいつらに水を公平に配るために、またアタシが怒鳴り散らして列を整理するのかい? そんな人手、もうどこにも残っちゃいないよ。……このままじゃ、病気の前に、水場を巡る暴動で砦が崩壊する。専門の業者が綺麗に配ってくれるなら、少しくらい金を取られても、任せちまった方がマシかもしれない」


 現場で最も苦労しているベルダの、切実な本音だった。


 論理的にも、経営的にも、そして現場の感情としても。

 セドリックの提案する「水の完全商品化」は、極めて正しい最適解に見えた。


『管理者様。……バロス氏とベルダ氏の意見を支持します。当方のシミュレーションでも、配水業務を外部委託した場合の管理者側のタスク負荷は、現在の六十パーセント削減されると出ています』


 レインの脳内で、緑の光の玉――監査精霊ノアが、冷徹なデータに基づく同意の意思を示した。

 効率と安全を考えれば、この契約書にサインするのが、システム管理者としての「正解」であるはずだ。


 だが。


「……お断りします」


 レインの口から出たのは、一切の迷いがない、氷のような拒絶の言葉だった。


「なっ……!?」

 バロスが目を見開き、ベルダが息を呑む。

 セドリックだけは、予想していたかのように眉を少しだけピクリと動かした。


「おや。これほど合理的な提案を蹴るとは。……理由をお聞かせ願えますか、管理者殿」


「水は、選択可能な娯楽オプション・サービスではありません。人間が生きていくための、絶対的な基盤コア・インフラです」


 レインは銀縁眼鏡の奥で、セドリックの作り物の笑顔を鋭く射抜いた。


「もし、この契約書にサインして、水の供給をすべてあなたの商会サードパーティ依存ベンダーロックインしてしまえば、どうなるか。……今は『わずかな水代』と言っていますが、あなた方は市場を独占した後、必ず価格を吊り上げに来る。商売とはそういうものです」


「人聞きの悪い。我々は適正な価格を――」


「適正価格を払えない人間が、真っ先に死ぬんです」


 レインは、セドリックの言葉を冷酷に遮った。


「ベルダさん。今、隔離テントで苦しんでいるのは誰ですか? 体力のない子どもたちや、迷宮で怪我をして稼げなくなった下働きの者たちだ。……彼らに『適正な水代』を払う余裕がありますか?」


 その問いに、ベルダはハッとして顔を青ざめさせた。


「……払えないよ。あいつら、その日暮らしで、今は一文無しだ」


「そうです。もし水を完全に商品化してしまえば、金のない弱者から順番に水を断たれ、不衛生な環境に取り残されて死んでいく。……それは、一部の富裕層だけが生き残るための、極めて欠陥だらけのシステム(バグ)だ」


 レインはテーブルの上の契約書を指先で弾き、セドリックの側へと滑り返した。


「俺が構築しようとしているのは、一部の人間から利益を吸い上げるための搾取機構ではない。この拠点にいる全員を生かし、システム全体を底上げするための『巨大な循環インフラ』です。……命に関わるコア機能を、外部の利益論理ビジネスに明け渡すわけにはいかない」


 天幕の中に、張り詰めた沈黙が流れた。

 バロスは腕を組み、面白そうに喉の奥で喉を鳴らす。ベルダは、自分が見落としていた弱者への視点に気づかされ、深く頷いた。


「……なるほど。頑固で、ひどく青臭い理想論ですね」


 セドリックは契約書を静かに懐へしまうと、初めてその瞳の奥に、本物の冷たい商人の光を宿した。


「ですが管理者殿。理想だけでは喉の渇きは癒えないと言ったはずです。……あなた方は、あの泥だらけの給水塔から、どうやって五百人に水を配るおつもりですか? 暴動が起きれば、結局は弱者が踏み潰されるだけですよ」


「配水網の構築ラストワンマイルは、俺たち自身の責任で設計します。……これ以上の交渉セッションは無用です」


 レインが席を立つと、セドリックもまた、優雅に立ち上がって一礼した。


「では、私は外で『見物』させてもらうとしましょう。……あなた方の泥臭いシステムが、本当にこの五百人の渇きを癒やせるのかどうかをね」


 セドリックは天幕を後にし、バロスもまた「手伝いはせんぞ、共同経営者殿」と笑いながら外へと出て行った。


 残されたベルダが、不安げにレインを見上げる。


「……啖呵を切ったのはいいけどさ、レイン。本当にどうするつもりだい? 金を取らないってことは、アタシたちが無料で水を配るってことだろ。そんな人手も設備も……」


「ええ。完全な公共インフラとして維持するには、俺たち管理側の負担が大きすぎる。ですが、セドリックに完全独占させるのも最悪の選択です。……今はまだ、結論を出す段階ではない」


 レインは深く息を吐き、天幕の入り口から、広場の中央に立つ不恰好な給水塔を見据えた。


「まずは、水を出力アウトプットすることが先決です。システムが物理的に稼働するかどうか。それを確認しなければ、次の設計図は描けない」


「……そうだね。いくら議論したって、水が一滴も出なけりゃただの笑い話さ」


 二人は足早に天幕を出て、給水塔の前に集まっているガルムたちの元へと向かった。


 広場には、すでに噂を聞きつけた数百人の冒険者たちが、乾ききった唇を舐めながら、手桶や水筒を持って給水塔の周りを二重三重に取り囲んでいた。

 隔離テントの入り口からは、エルメアが祈るような目で見守っている。

 そして、群衆の少し離れた場所では、セドリックが腕を組み、冷ややかな笑みを浮かべてその様子を観察していた。


「エリート様! バルブの最終確認、終わったぜ!」


 大槌を持ったガルムが、泥だらけの顔を輝かせて叫ぶ。

 その隣には、地下の案内役を務めた老坑夫のドルクが、腕を組んで忌々しそうに給水塔の太い木管を睨みつけていた。


『管理者様。地下の魔導ポンプ、稼働準備完了しています。圧力パラメーター、正常値。……いつでも、通水試験テストランを開始できます』


 レインの脳内に、セレスのクリアな声が響く。


 広場の全住人の視線が、レインの一挙手一投足に集中していた。

 彼らが数日間、泥水と悪臭の中で耐え忍んできた苦しみが、今、この一本の管から出る水によって報われるのかどうか。


 レインは給水塔の巨大な鉄のバルブに手をかけ、そして、意を決してそれを力強く回した。


「ルカ! ポンプ起動ブート!!」


『おうっ!! 全力で水を引き上げるぜえええっ!!』


 地下の最深部で、巨大な魔導ポンプが唸りを上げる重低音が、足元の石畳を微かに震わせた。

 ゴゴゴゴォォォ……という、水が太い管の中を猛烈な勢いで駆け上がってくる音が、広場全体に響き渡る。


 誰もが息を呑み、給水塔の出口を見つめた。


 水が出る。

 澄み切った命の水が、ついにこの地上の地獄に降り注ぐ。


 誰もがそう確信した、その次の瞬間だった。


「……あ?」


 給水塔の出口の真横に立っていたガルムが、間抜けな声を漏らした。


 ボコンッ、ボコンッ……。

 給水塔の出口から吐き出されたのは、美しい清水などではなかった。


 それは、少量の茶色い泥水と、生臭い空気の塊だった。

 まるで、巨大な獣が喉に何かを詰まらせて、苦しそうに咳き込んでいるかのような、不気味な飛沫。


『……警告アラート! 警告!』


 レインの周囲に展開されていた緑色の魔法陣が、一瞬にして真っ赤な警告色へと反転した。


『地下の第3ジョイント付近で、想定外の超高水圧を検知! 流速が激減しています! 水が、上に上がってきません!』


「なんだと……!?」


 レインが血相を変えて端末を叩いた、その直後。

 給水塔から少し離れた、居住区画の裏手――先ほどまでベルダたちが視察していた、仮設便所や解体場のある方向から、けたたましい悲鳴が上がった。


「う、うわああああああっ!!」

「水だ!! 水が、排水溝から逆流してきやがった!!」


 広場の人々が一斉に振り返る。

 そこには、地底湖から引き上げられるはずだった大量の水が、行き場を失って地下の別の経路――つまり『排水管』を逆流し、汚物と血にまみれた泥水となって、地上の居住区画へと間欠泉のように噴き出している、地獄のような光景が広がっていた。


「……だから言っただろうが、若造」


 混乱する広場の中で、老坑夫のドルクだけが、一切驚くことなく、忌々しそうに地面に唾を吐き捨てた。


「水は、紙の上の絵図面の通りには流れねえ。……『岩の咽せ』で息を詰まらせて、暴れ出したんだよ」


 最短・最速を求めたシステム管理者の「正解」が、現場の「アナログな現実」によって無惨に打ち砕かれた瞬間だった。

 最大の希望となるはずだった通水試験は、拠点をかつてない最悪の汚物の海へと沈める、大失敗クリティカル・エラーという形で幕を開けたのである。

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