第41話 逆流
ボコンッ、ボコンッ……!
広場の中央にそびえ立つ給水塔の出口から、茶色い泥水と生臭い空気の塊が吐き出された、その直後だった。
灰霧前砦の居住区画の裏手――先ほどまで運用管理長のベルダたちが視察していた、仮設便所や解体場のあるエリアから、鼓膜を劈くような絶叫が上がった。
「う、うわああああああっ!!」
「水だ!! 水が、排水溝から逆流してきやがった!!」
その悲鳴を聞いた瞬間、レイン・ヴァルトの全身からスッと血の気が引いた。
「ルカ! ポンプを止めろ!! 緊急停止だ!!」
『わ、わかってるぜ!! 動力遮断!!』
黄色い光の精霊ルカが慌てて地下の回路を強制切断し、地鳴りのようなポンプの駆動音がピタリと止む。
だが、一度配管の内に生じた強烈な水圧は、すぐには収まらない。
レインは給水塔から弾かれたように駆け出し、悲鳴の上がる居住区画の裏手へと走った。
大槌を放り出したガルムと、呆然としていたベルダもその後に続く。
居住区画の裏手に辿り着いたレインの目に飛び込んできたのは、まさに「地獄」と呼ぶにふさわしい光景だった。
地下深くの『腐れ谷』へと汚物を落とし込むために、昨日レインたちが魔法で構築した真っ直ぐな「排水溝」。
そのいくつもの吸い込み口から、本来なら落ちていくはずの汚水が、間欠泉のようにゴボゴボと激しい勢いで地上へと噴き出していたのだ。
それはただの泥水ではない。
これまで仮設便所に溜まっていた排泄物、解体場の腐った血、そして炊き出しの生ごみ。それらすべての汚濁が、地下から押し上げられた水圧によって一気に地表へと逆流し、黒く粘り気のある汚物の海となって、居住区画のテント群へと怒涛の勢いで流れ込んでいた。
「ひぃっ! 俺のテントが!」
「荷物を上げろ! 汚水に浸かるぞ!!」
冒険者たちがパニックを起こし、自分たちの寝床と全財産を守ろうと汚水の中で逃げ惑っている。
初夏の日差しに熱せられた汚物の強烈な悪臭が、一瞬にして広場全体を覆い尽くした。
「……嘘だろう。なんだい、この惨状は……!」
遅れて駆けつけたベルダが、信じられないものを見るように両手で口元を覆う。
彼女が昨日、喉を枯らして徹夜で整えた美しい「三色の線」のルールなど、溢れ出す黒い汚水の前には何の役にも立たなかった。緑の線で囲まれた安全な居住区画は、今や最も危険で不衛生な汚染地帯へと変貌していた。
『……警告。警告。拠点内の衛生ステータス、測定不能。高濃度の病原性バクテリアが居住区画の八十パーセントを汚染しました』
緑の光の玉、ノアの冷徹な声がレインの脳内に響く。
『いやあああああっ!! 汚い! 汚いわ!! 私の美しい拠点が、ただの巨大なドブ沼になっちゃったじゃない!!』
赤い光の玉、ミストが狂乱したように飛び回るが、レインにはそれを宥める余裕すらなかった。
手元の管理端末には、滝のように流れる真っ赤なエラーログが表示されている。
「……排水管の物理的な詰まりじゃない。水圧の計算ミスだ。俺が地下から引き上げた『給水量』の勢いに対して、真っ直ぐすぎる排水管が水を飲み込みきれず、行き場を失った水が最も抵抗の少ない『地上の開口部』へと逆流したんだ……!」
「理屈はいいから、どうにかしておくれよレイン!!」
ベルダが悲鳴を上げる。
そこへ、隔離テントの方角から、顔を青ざめさせた巡回治療師のエルメアが全速力で駆けてきた。
「あんたたち、一体何をやらかしたんだい!!」
エルメアは、汚水にまみれた居住区画を見るなり、激しい怒りと絶望の入り混じった声を張り上げた。
「ただでさえ病人が増えてるってのに、拠点中に汚物を撒き散らすなんて正気の沙汰じゃない! こんな泥水に少しでも触れれば、健康な人間だって半日で腸炎を起こして倒れるよ! ……いいかい、今日中にこの汚水を引かせて、土を完全に乾かさないと、明日の朝にはこの砦の全員が死の病に沈むよ!!」
医療の専門家からの、最も重く、最悪の宣告。
昨日まで「可能性」だった疫病による全滅のタイムリミットが、レイン自身の設計ミスによって、完全に「確定」してしまった瞬間だった。
「……クソッ! 病気で死ぬ前に、この臭いで気絶しそうだぜ!」
その時、大槌を放り捨てたガルムが、近くにあった工事用の巨大なスコップを引っこ抜き、ズカズカと汚水の海の中へと足を踏み入れた。
「親方! 泥水に触れれば感染のリスクが――!」
「黙ってろエリート様! 理屈こねてる間に、テントが全部沈んじまうだろうが!!」
ガルムはレインの制止を怒鳴り声で遮ると、汚水が最も激しく溢れている便所の裏手――防壁と居住区画の隙間の地面に、力任せにスコップを突き立てた。
「おい野郎共! 大工衆はスコップを持て! 冒険者のガキ共も、自分の寝床を守りたきゃ盾でも剣でもいいから土を掘れ!! 溢れた汚水がテントに行かねえように、防壁の外の荒野に向かって『仮の排水溝』を掘り抜くんだよ!!」
「お、おう!!」
「親方に続けええっ!!」
ガルムの決死の号令に、パニックに陥っていた大工や冒険者たちがハッと我に返り、次々と泥水の中へ飛び込んでいく。
彼らは武器や木の板、素手すら使って、必死に地面を掘り返し始めた。汚水が居住区画の中心へと向かう流れを断ち切り、少しでも外へと逃がすための、文字通り泥にまみれた肉体労働だ。
「……っ」
泥水に足を取られ、悪臭に顔を歪めながらも、必死に自分たちの寝床を守ろうと泥を掻き出す男たち。
その光景を前に、レインは立ち尽くすことしかできなかった。
完璧なはずだった設計図。
最短、最速、最小の魔力消費。論理的には何の破綻もなかった。
だが、その「机上の正解」が、現場の人間にこれほどの屈辱と過酷な労働を強いている。
「……だから言っただろうが、若造」
不意に、レインの背後からしゃがれた声が響いた。
振り返ると、老坑夫のドルクが、腕を組んで忌々しそうに汚水の海を睨みつけていた。
「水は、紙の上の絵図面とは違う。生き物なんだよ。……お前さんが真っ直ぐに引いた『最短ルート』の排水管。あそこの途中にあった『岩の咽せ(くの字の狭い穴)』が、一気に流れ込んできた大量の汚水で息を詰まらせて、逆流返ったんだ」
ドルクの言葉は、冷酷なまでに正確だった。
システムの論理は、岩盤が水圧に耐えられると判断した。だが、水流の摩擦や、地下の複雑な地形がもたらす『乱水流』といった、アナログな不確定要素を計算しきれていなかったのだ。
「俺たち現場の人間が、なんで面倒でも遠回りな横穴を掘るか、これで分かったか? ……自然の理を無視して、機械の理屈だけで真っ直ぐな線を通そうとすれば、必ずこうやって現場がツケを払わされるんだよ」
ドルクの痛烈な批判に、精霊たちは誰も反論できなかった。
青い光のセレスも、緑の光のノアも、自分たちの弾き出したデータが「現場の事実」の前に完全敗北したことを悟り、力なく明滅を繰り返している。
「……俺の、傲慢でした」
レインは深く頭を下げ、ギリッと唇を噛み締めた。
王都のエリートたちを「現場を知らない」と見下していた自分が、結局は彼らと同じように、数字と効率だけを見て、現場のアナログな脅威を軽視していたのだ。
その代償は、あまりにも大きかった。
「謝ってる暇があるなら、手を動かしな、レイン!!」
怒声と共に、ベルダがレインの腕を強く引いた。
彼女はすでに、受付嬢の上着を脱ぎ捨て、泥だらけになりながら冒険者たちに指示を出していた。
「アタシとエルメアで、まだ汚水を被ってない連中を青い線の商人区画へ避難させる! ガルムたちは泥を掘って時間を稼いでる! ……あんたは、あんたの仕事をやりな!! 地下の管を直せるのは、あんたしかいないんだろ!!」
「ベルダさん……」
「泣き言は、この臭い泥水が全部綺麗に引いてから聞きっぱなしてやるよ! さあ、行け!!」
ベルダの力強い声に、レインはハッと顔を上げた。
そうだ。システム管理者の最大の責務は、バグを起こさないことではない。起きてしまった致命的なエラーを前に、決して逃げ出さず、最速でシステムを復旧させることだ。
「……ルカ。セレス。俺の端末に、地下の排水ルートの『修正パッチ』の画面を展開しろ」
『おうっ! 任せとけ!!』
レインは端末を開き、ドルクに向き直った。
そして、これまで見せたことのないほどに深く、一切のプライドを捨てて頭を下げた。
「ドルクさん。俺は、自然の地形という巨大なシステムを甘く見ていました。俺の『最短の線』は、ここでは通用しない」
レインは顔を上げ、老坑夫の濁った目を真っ直ぐに見つめた。
「教えてください。あなたの知っている、地図の外の『道』を。……水が息を詰まらせない、生きた地下のルートを。あなたの知識と、俺の魔法を完全に同期させて、もう一度、この配管をゼロから作り直します」
その言葉に、ドルクは少しだけ目を丸くした。
王都から来る役人は、失敗すれば必ず誰かのせいにし、決して自らの非を認めることはなかった。ましてや、現場の汚い坑夫に向かって頭を下げるエリートなど、彼の長い人生で一度も見たことがなかった。
「……へっ」
ドルクは、やれやれと首を横に振り、懐から汚れた煙草を取り出して火をつけた。
「お前さん、本当に変な役人だな。……いいだろう。どうせこのままじゃ、俺の寝床までウンコまみれになっちまうからな。特別に、水が一番喜んで流れる『裏道』を教えてやる」
老坑夫の唇の端に、ニヤリと不敵な笑みが浮かぶ。
「さあ、来なインテリ様。俺の『鼻』と、お前さんの『光るオモチャ』で、暴れる水を綺麗に手懐けてやろうじゃねえか」
地上の惨状をガルムとベルダたちに託し。
レインとドルクは、再び深く暗い地下迷宮へと続く階段を駆け下りていった。
失敗を乗り越え、真の「現場とシステムの統合」を成し遂げるための、時間との過酷な闘いが始まった。




