第36話 地下水脈層、歓迎しない入口
灰霧前砦の地下深く。管理中枢室のさらに奥に口を開けた、未知なる第2層《地下水脈層》へと続く重厚な石の階段。
そこを下っていくレインたちの顔には、第1層のシステムを再構築した時のような余裕は微塵もなかった。
先頭を歩くのは、油と泥にまみれた革鎧を着た老坑夫のドルク。彼の手には、魔力で一定の光を放つ光石ではなく、古びた油のカンテラが握られている。「魔法の均一な光は、岩のわずかな凹凸や水面の揺らぎを見落とす」というのが、彼の現場における絶対の持論だった。
そのすぐ後ろに、大槌を構えたガルムと、バロス商会が手配した屈強な作業員が数名。
そして最後尾に、管理端末を手にしたレインと、四体の光の精霊たちが続いている。
一段下るごとに、肌にまとわりつく空気の質が劇的に変わっていくのが分かった。
第1層のような、カビと獣の乾燥した臭いではない。ひどく重く、肺の奥まで侵食してくるような「冷たい水と腐った泥」の匂い。
そして何より、耳を塞ぎたくなるような不気味な「音」が、暗闇の底から絶え間なく響いてきている。
チョロチョロという水滴の音。ゴォォという遠くの濁流の響き。それらが複雑な岩肌に反響し、まるで巨大な獣が地下で呼吸をしているかのように、低い地鳴りとなって足元を揺らしていた。
「……気持ち悪いわね。私の設計した美しい水路の面影なんて、微塵もないじゃない」
赤い光の玉、ミストが不満げにレインの肩の周りを飛び回る。
『……生体反応センサー、および地形スキャンに著しいノイズが発生しています。湿気と高濃度の魔力溜まりが、空間データの取得を阻害している模様です』
青い光の玉、セレスが珍しく自信のなさを滲ませた声で報告した。
レインの手元の端末に表示されたマップは、ところどころが砂嵐のように乱れ、まともな輪郭を描けていない。
「データリンクの不調か。やはり、未整備の自然環境では、システムによる遠隔把握には限界があるな」
レインは端末の電源を切り、懐にしまった。
これ以上の計器への依存は危険だ。ここから先は、自分自身の目と、先頭を歩く案内人の勘だけが頼りになる。
やがて、長い階段が終わり、彼らはついに第2層の入り口となる広大な空間へと足を踏み入れた。
「こいつは……ひでえ有様だな」
ガルムが松明を高く掲げ、周囲を見渡して息を呑む。
そこは、かつて迷宮の水源を管理するために作られた「大水門」の跡地だったらしい。
だが、巨大な石造りの門は見る影もなく崩落し、ひび割れた壁の至る所から、地下水が滝のように噴き出している。
床一面には足首まで浸かるほどの冷たい泥水が広がり、そこから立ち上る薄白い霧が、空間の全貌を不気味に覆い隠していた。
第1層のような「人工的なダンジョン」の面影は完全に消え失せ、むき出しの自然の脅威がそのまま牙を剥く、未開の洞窟へと変貌していたのだ。
「いいか、ガキ共。ここから先は、一歩も俺の歩いた轍から外れるなよ」
先頭のドルクが、しゃがれ声で背後の作業員たちに釘を刺した。
「水たまりの下が、ただの窪みか、それとも底なしの縦穴か。見た目じゃ絶対に分からねえ。岩の表面も、苔と魔物の粘液で油みてえに滑る。……死にたくなきゃ、足元から絶対に目を離すな」
「へ、へい……!」
屈強な作業員たちも、ただならぬ雰囲気に気圧され、ゴクリと唾を飲み込んで頷いた。
ドルクを先頭に、一行は薄い霧の中を慎重に進み始めた。
ドルクの歩みは遅い。カンテラの灯りを頼りに、時折立ち止まっては岩壁の匂いを嗅ぎ、足元の泥の感触を杖で確かめている。
レインにとっては、それは極めて非効率的でアナログな手法に思えた。だが、システムが機能しないこのブラックボックスの中においては、老坑夫のその「五感」こそが、唯一信頼できるセンサーなのだ。
「……右の壁際から、変な音がするぞ。ゴブリンか?」
ガルムが大槌を握り直し、警戒の声を上げる。
「いや、ただの空洞だ。水が岩の隙間を抜ける音が、笛みてえに鳴ってやがるだけだ。……気にせず進め。武器をガチャガチャ鳴らす音の方が、よっぽど魔物を呼ぶぜ」
ドルクは一瞥もせずに答え、淡々と先へ進む。
一行は、崩れた石柱や、半分水没した古い歯車などの残骸を乗り越えながら、迷路のような地下水脈を奥へ奥へと進んでいった。
薄暗さと絶え間ない水音のせいで、方向感覚も時間感覚も狂わされていく。
レインでさえ、もし一人でここに放り出されれば、数分で自分がどこにいるのか見失う確信があった。
「おっと……」
その時、隊列の中腹を歩いていた若い作業員の一人が、崩れた斜面を越えようとしてバランスを崩した。
彼の足元にあったのは、一見するとただの濡れた黒い岩肌だった。
だが、その表面には地下特有の粘菌がびっしりと繁殖しており、彼が踏み込んだ瞬間、まるで氷の上を滑るように革靴の底が完全にグリップを失ったのだ。
「わ、わぁっ……!?」
若い作業員が短い悲鳴を上げ、斜面をズルズルと滑り落ちていく。
「おい、馬鹿野郎! そっちは――!」
ガルムが叫んで手を伸ばすが、わずかに届かない。
作業員が滑り落ちていく先には、岩の裂け目を通って猛烈な勢いで流れ込んでいる、幅一メートルほどの「横流れ(地下川)」があった。
黒く濁った濁流が、渦を巻きながらどこか深い地底へと物凄い流速で吸い込まれている。
もしあの流れに落ちれば、ただでは済まない。
「ひぃっ……!」
作業員が必死に岩肌に爪を立てようとするが、粘菌のせいで全く引っかからない。彼の半身が、すでに濁流の縁へと投げ出されようとした、その瞬間だった。
「――ドジ踏んでんじゃねえぞ、若造が!!」
地鳴りのような怒声と共に、先頭を歩いていたドルクが、信じられないほどの身のこなしで斜面を滑り降りてきた。
老坑夫はカンテラを放り捨て、岩の隙間に自身の杖をガコンッと深く突き立てて支点にすると、空いた片手で濁流に落ちかけていた作業員の首根っこを、ギリギリのところで鷲掴みにした。
「ぐ、ぐえっ……!?」
首を絞められる形になった作業員が悶絶するが、ドルクの万力のような握力はビクともしない。
「ガルム! 引き上げろ!!」
「おう!!」
すぐさま駆けつけたガルムが、ドルクの腕ごと作業員を力任せに斜面の上へと引っ張り上げた。
ズザザァッ、という音と共に、二人が安全な平地へと転がり込む。
「はぁっ、はぁっ……た、助かっ、た……」
泥まみれになった作業員が、地面にへたり込んで激しく咳き込む。
だが、安堵する間も与えず、ドルクがその作業員の胸倉を掴んで強引に引き起こした。
彼の目は、鬼のように血走っている。
「てめえ、さっき俺が何て言ったか忘れたのか! 足元から目を離すなと言っただろうが!」
「す、すんません……! ちょっと気を抜いて、岩なら滑らねえかと……」
「馬鹿野郎!! ここは地上の水溜まりとはわけが違うんだよ!!」
ドルクの怒号が、水の反響音をかき消して地下空間に響き渡った。
彼は作業員の頭を鷲掴みにし、彼が落ちかけた濁流の淵を無理やり覗き込ませた。
「よく見ろ。あの黒い水の流れが、どこに向かってるか分かるか?」
「え、えっと……」
「分からねえだろうな。俺にも分からねえよ。この迷宮の地下水脈は、何百層も下の地底まで、複雑な網の目みたいに繋がってやがるんだ。……いいか」
ドルクは、恐怖で震える作業員の耳元で、冷酷な真実を叩き込むように囁いた。
「ここは、落ちたら死ぬんじゃない。『見つからなくなる(消える)』んだ」
その言葉の重みに、作業員だけでなく、周囲で見ていた者たちも一斉に息を呑んだ。
「骨一つ、髪の毛一本すら地上に帰れなくなる。暗くて冷たい水の底で、自分がどこに流されてるのかも分からないまま、息が続かなくなって溺れ死ぬ。……それが、この第2層の本当の恐ろしさだ。死ぬよりタチが悪いんだよ」
ドルクは作業員を突き放し、地面に転がったカンテラを拾い上げた。
「……次は助けねえぞ。自分の命は自分で守れ」
老坑夫はそれだけ言い捨てると、再び無言で先頭に立って歩き始めた。
その背中を見つめながら、レインは眼鏡のブリッジを押し上げ、深く息を吐いた。
冷たい汗が、こめかみを伝い落ちていく。
(……便利な水源、などという生易しいものではない。ここは、少しのエラー(油断)が即座にロスト(完全消失)に直結する、致命的な環境だ)
第1層のような、警報を鳴らして失敗を学ばせるような親切なUIなど存在しない。
ただ無慈悲な自然の脅威が、口を開けて人間を飲み込もうと待ち構えているのだ。
レインは、自分たちが地上の「水不足」という焦りから、このインフラ層の危険性を無意識に低く見積もっていたことを痛感した。
「……全員、ドルクさんの指示通り、完全に足跡をトレース(追従)しろ。ロープを出して、互いの腰に繋げ。一人で滑落するリスク(単一障害点)を物理的に分散させる」
レインの指示に、作業員たちが青ざめた顔で急いでロープを結び合い始めた。
『管理者様……。この空間、私の計算モデルではどうしても安全係数が上がりません。本当に、こんな場所で拠点の水を賄えるような安全な水源が見つかるのでしょうか』
緑の光の玉、ノアが不安を隠しきれない声で明滅する。
「見つけるしかない。……いや、見つけて、俺たちの力で制御可能なシステム(パイプライン)へと組み伏せるんだ」
レインは決意を新たに、泥濘む足場を踏みしめた。
薄い霧と、絶え間ない水音に包まれた不気味な地下行軍は、それから数時間に及んだ。
誰もが無言になり、ただひたすらにドルクの背中と、自分の足元だけを見つめて歩き続ける。
湿気で服は重く肌に張り付き、体温がじわじわと奪われていく。
やがて、先頭を歩いていたドルクの足が、ピタリと止まった。
「……どうした。何かいるのか?」
ガルムが警戒して大槌を構える。
ドルクはカンテラを高く掲げ、空気を何度か深く嗅いだ。
そして、これまで険しかった顔のシワを少しだけ緩め、ニヤリと笑った。
「……聞こえるか、インテリ様」
「聞こえるか、とは?」
「音だよ。これまでの、泥水をすするような重てえ音じゃねえ。もっと軽くて、澄んだ音だ」
ドルクに言われ、レインは耳を澄ませた。
確かに、遠くの濁流のゴォォという重低音に混じって、ピチャピチャと、岩清水が軽やかに跳ねるような清涼な音が、前方の暗闇から聞こえてきている。
それに、空気中のカビ臭さが薄れ、どこか冷たく澄んだ空気が流れてきているように感じられた。
「……湧水、ですか」
「ああ。しかも、かなりの量だ。……来な。とりあえずの『水源』のお出ましだぜ」
ドルクがカンテラを振って合図する。
一行は、疲労で重くなった足に鞭を打ち、その澄んだ音のする方角へと歩みを速めた。
暗く、人を拒む地下水脈の底で、ようやく一筋の明確な希望の光が見えようとしていた。




