第35話 偏屈な老坑夫
灰霧前砦の敷地内、緑色の線で区切られた居住区画の片隅。
急造された長屋群の隙間に、冒険者たちが廃材を寄せ集めて勝手に作った、小さな吹き抜けの酒場があった。
上等な酒などあるはずもない。バロス商会が持ち込んだ中で最も安価な、酸味の強いエールを薄めて出すだけの、労働者たちのための給水所のような場所だ。
だが、過酷な肉体労働を終えた大工や、迷宮から生還した下級冒険者たちにとって、ここは数少ない息抜きの場として重宝されていた。
「……おい、エリート様。本当にこんな埃っぽいところまで、あんたが直接来る必要があったのか?」
酒場の入り口に掛けられた薄汚れた布をくぐりながら、現場作業員頭のガルムが呆れたように振り返る。
彼の後ろに続くのは、銀縁眼鏡をかけ、常に清潔な身なりを保とうとしている迷宮管理者、レイン・ヴァルトだ。
周囲の冒険者たちは、砦の絶対的な支配者であるレインの姿を認めると、慌てて道を空け、緊張した面持ちで酒杯を下ろした。
「当然です。インフラ構築のための最重要プロセスのひとつ、現地専門家の採用ですからね。相手の縄張りに出向いて交渉するのは、管理者としての最低限の礼儀です」
レインは酸い酒と汗の匂いが混じる空気に顔をしかめることもなく、淡々と答えた。
「へっ、相変わらず堅苦しい理屈だぜ。……おっと、いたぞ。あそこの一番奥だ」
ガルムが顎でしゃくった先。
酒場の最も薄暗い隅のテーブルに、一人の小柄な老人が座っていた。
年齢は六十代の半ばといったところだろうか。
髪と髭は白く濁った灰色で、顔には深いシワと、幾つもの古い切り傷が刻まれている。着ている革鎧は油と泥で黒く変色し、その両手は、岩そのもののようにゴツゴツと節くれだっていた。
周囲の喧騒を完全に無視し、欠けた木杯になみなみと注がれた安いエールを、ちびちびと舐めるように飲んでいる。
「よう、生きてたか、クソジジイ」
ガルムが遠慮のない足取りで近づき、老人の向かいの席の椅子を足で引き寄せながら声をかけた。
「……誰かと思えば。まだ野垂れ死んでなかったのか、ガルムの小僧」
老人は木杯から口を離し、濁った、しかし岩穴の奥で光る鉱石のように鋭い瞳でガルムを睨みつけた。
ドスの効いた、地の底から響くようなしゃがれ声だった。
「俺が死ぬわけねえだろ。……紹介するぜ。こっちが今、この灰霧前砦を仕切ってる新しい管理者、レイン・ヴァルトだ。レイン、こいつが俺の言ってた昔馴染み。旧鉱山街の生き残りの老坑夫、ドルク・ハインだ」
「初めまして、ドルクさん」
レインは静かに一礼し、ガルムの隣に腰を下ろした。
ドルクはエールの残りを飲み干し、ドンッと音を立てて木杯をテーブルに置くと、レインの頭の先から足の先までを、値踏みするようにねっとりと見回した。
「……王都の役人か。また随分と線が細くて、偉そうなガキが来たもんじゃねえか。前の奴は半年で泣いて逃げたが、お前さんはいつまで持つかな」
「俺は逃げませんよ。逃げる場所もありませんから」
レインは挑発に乗ることなく、淡々と返した。
ドルクは鼻を鳴らし、懐から汚れた煙草を取り出して火をつける。
「ガルム。俺は王都から来る『頭でっかちの役人』がこの世で一番嫌いだって、昔から言ってるはずだがな。現場の泥も知らねえくせに、紙切れ一枚で偉そうに指図しやがる連中だ。……用があるならさっさと言え。俺は忙しいんだ」
「毎日昼間から安いエールを飲んでるだけのくせによく言うぜ。……ドルク、単刀直入に言う。俺たちは明日、迷宮の第2層、《地下水脈層》の封印を解いて中に入る」
ガルムの言葉に、ドルクの手がピタリと止まった。
紫煙の奥で、老坑夫の瞳がスッと細められる。
「……第2層だと? 何のためにだ。あそこは昔から、初心者のガキ共が入っていい場所じゃねえ。水と岩が入り組んだ、ただの迷路だぞ。ろくな魔石も採れやしねえ」
「水です」
ガルムの代わりに、レインが口を開いた。
「現在、地上の砦は人口過多により、水と衛生インフラが完全に限界を迎えています。すでに疫病の初期症状も確認されている。このままでは二日以内に、拠点は内側から壊滅する。……生き延びるための巨大な水源として、第2層の水を地上に引き上げる必要があります」
レインは言葉を区切り、スッと右手をテーブルの上に差し出した。
彼の周囲を浮遊していた青い光の玉――分析精霊セレスが、レインの意図を汲み取り、テーブルの上に淡い光の立体地図を投影する。
「な、なんだこりゃあ……!?」
突如として空中に浮かび上がった光の図面に、ドルクが驚いて身を乗り出した。
『管理者様、第2層の現在の内部スキャンデータを展開しました。……しかし、不確定要素が多すぎます』
セレスの澄んだ声が響き、立体地図のあちこちが、データ不足を示す赤いノイズで点滅を始める。
『美しくないわ! かつての壮麗な水路の面影がまるでないじゃない! これじゃあ、どこが道でどこが水たまりなのか、さっぱり分からないわよ!』
赤い光の玉、ミストが嘆くように飛び回る。
『……データリンクの不備を確認。岩盤の崩落により、過去の設計図と現在の地形が一致しません。この状態での安全な導線確保は、システム上不可能です』
緑の光の玉、ノアが冷徹な事実を突きつけた。
「おい、新入り……。この光る玉っころ共の言う通り、図面が穴だらけじゃねえか。これじゃルートなんて引けねえぞ」
ガルムが険しい顔で地図を覗き込む。
確かに、投影された第2層の地図はひどい有様だった。本来なら整然と整備されていたはずの地下水路は、長年の放置と水害によって壁が崩れ去り、いくつもの巨大な水溜まりと、行き止まりの瓦礫の山が複雑に絡み合う、最悪の迷宮と化していた。
レインは無言のまま、ドルクの反応を窺った。
ドルクは紫煙を吐き出しながら、空中に浮かぶ光の地図をしばらくの間、じっと無表情で見つめていた。
やがて、老坑夫はフンと鼻で笑い、テーブルの上にペッと唾を吐き捨てた。
「……なるほどな。王都のエリート様が、なんで俺みたいな老いぼれを頼りに来たのか、よく分かったぜ」
ドルクは、光の地図を太い指で乱暴に払い除けるような仕草をした。
「お前さんたちのその便利な光のオモチャは、確かにすげえ。壁の向こうの空間まで透かして見えちまうんだからな。……だが、王都の連中はいつもそうだ。この『線』だけを見て、分かった気になりやがる」
ドルクはレインを鋭く睨みつけ、ドスの効いた声で言い放った。
「いいか、若造。こんな線を信じて地下に入る奴は、間違いなく土の下に埋まるぞ」
「……どういう意味ですか」
レインが静かに問い返す。
「図面には、一番肝心なもんが写ってねえって言ってんだよ。……いいか? 地下の水ってのはな、ただ溝を流れてるだけの水溜まりじゃねえ。雨が降れば一日で水位が人間の背丈を越えるし、岩が腐れば鉄砲水になって牙を剥く。壁が崩れる前には、必ず特有の『土の匂い』と、岩が泣く『音』がするんだ」
ドルクは自分のゴツゴツとした両手をテーブルの上に広げた。
「お前さんのそのピカピカの図面は、明日の水位を教えてくれるか? 足元の泥が、ただの泥か、それとも底なしの沼か教えてくれるか? ……教えてくれねえだろう。だから王都の連中は、図面通りに歩いて、勝手に水に飲まれて死んでいくんだよ」
老坑夫の言葉には、長年、光の届かない地下深くで、自らの五感と経験だけを頼りに生き抜いてきた者だけが持つ、圧倒的な重みがあった。
精霊たちが弾き出すデータは、あくまで「現在の空間の形」を示すだけの静的な情報に過ぎない。
だが、現場の現実は常に動いている。
『……反論できません。我々のセンサーでは、地質の含水率や微細な振動に基づく未来の崩落予測までは、処理リソースが足りずカバーしきれません』
ノアが、屈辱を堪えるような声で事実を認めた。
「だからこそ、あなたが必要なんです、ドルクさん」
レインは、ドルクの厳しい言葉を一切否定せず、深く頷いた。
「俺は、この青い光の玉が万能だとは思っていません。むしろ、このシステムには決定的な欠陥がある。それは、現場の生きた情報……あなたが言った『匂い』や『音』といった、アナログなパラメータを感知できないことです」
レインはテーブルに身を乗り出し、ドルクの濁った目を真っ直ぐに見つめ返した。
「地図にないなら、地図の外を知っている人間に補完してもらうしかない。……俺たちは、安全な水源までのルートを引きたい。だが、この不完全な地図を信じて闇雲に進めば、作業員たちを無駄に死なせることになる。だから、俺たちの『目』と『耳』になってほしいんです」
「……へっ」
ドルクは、目を丸くしてレインの顔を見つめ返し、やがて呆れたように短く笑った。
「王都の役人が、自分の非を認めて、現場の泥臭いジジイに頭を下げるってか。……ガルム、お前が仕えてるこの新入り、頭のネジが数本飛んでるんじゃねえか?」
「俺も最初はそう思ったがな。だが、こいつは本気だ。本気でこの拠点を回すために、必要なら自分のプライドでも何でも切り捨てる。……俺たち大工の意見を聞き入れて、一昨日あのバカでけえ防壁を作ったのも、こいつだぜ」
ガルムがニヤリと笑って後押しする。
ドルクは再び煙草を口に咥え、深く煙を吸い込んだ。
その視線は、レインの銀縁眼鏡の奥にある、一切の妥協を許さない冷徹な瞳を探っているようだった。
「……地下は、ただの道じゃねえ」
やがて、ドルクがポツリと、地鳴りのような声で呟いた。
「地下は、生き物だ。機嫌の良い日もあれば、何の前触れもなく怒り狂って人間を飲み込む日もある。……俺たちの仕事は、そのバケモノの機嫌を伺いながら、少しだけおこぼれを頂戴するってことだ。王都の連中みたいに、魔法で力尽くで制圧しようとすれば、必ずしっぺ返しを食らうぞ」
「承知しています。だからこそ、その『生き物』の呼吸を読める案内人が必要なんです」
レインは引き下がらなかった。
ドルクはしばらくの間、天井の梁を見上げて黙り込んでいたが、やがて大きなため息を吐き出し、乱暴に頭を掻きむしった。
「……チッ。しゃあねえな。このままじゃ、俺が毎日飲んでるこの不味いエールも、疫病で運んでくる奴がいなくなって飲めなくなっちまうからな。……いいだろう、若造。俺の『鼻』と『耳』を貸してやる」
「ありがとうございます、ドルクさん。報酬は――」
「金の話は後だ。俺が案内する以上、地下では俺の指示が絶対だ。お前さんのその光るオモチャが右と言おうが、俺が左と言えば左に行け。それが飲めねえなら、今すぐこの話はなしだ」
ドルクの厳しい条件提示。
それは、システム管理者の権限を現場の人間に一部委譲(アクセス許可)することを意味していた。
「……分かりました。地下での進行ルートの最終決定権は、ドルクさんに委任します」
レインは迷うことなく頷いた。
「よし。交渉成立だ。……ガルム、お前も来るんだろうな?」
「当然だ。俺が前衛を張らねえで、誰がジジイの背中を守るってんだよ」
ガルムがドンッと自分の胸を叩く。
「へっ、威勢がいいのは結構だが、地下じゃあ足元をすくわれないように気を付けるんだな。……明日の朝一番だ。準備ができたら、第2層への入り口の前に集合しろ」
ドルクは立ち上がり、飲み代の銅貨をテーブルに投げ捨てると、背を丸めて酒場の奥へと消えていった。
残されたレインは、手元の端末を開き、明日の探索メンバーの編成を完了させた。
迷宮管理者であるレイン・ヴァルト。
現場作業員頭であり、護衛の要であるガルム。
そして、地図の外を知る老坑夫、ドルク。
ただの力自慢の冒険者を集めたわけではない。これは、第2層という未知のインフラ層を物理的に切り開くための、極めて専門的で特殊な「実務部隊」だ。
「……さあ、明日は早いですよ、親方。地下水脈という巨大なバグの巣窟に、俺たちの足で直接パッチを当てに行きます」
迫り来る疫病のタイムリミットまで、あとわずか。
灰霧前砦の生存を賭けた、第2層への泥臭い決死の探索が、いよいよ翌朝、幕を開けようとしていた。




