第34話 保留はもうできない
王都の水運商会代理人、セドリック・ヴェインが余裕の笑みを残して天幕を去った後。
上等な絨毯が敷かれたバロス商会の天幕内には、ひどく重苦しく、冷たい沈黙が落ちていた。
バロス会頭が苛立たしげに新しい葉巻に火をつけ、紫煙を吐き出す。
水という「命綱」を外部の商会に握られれば、この要塞都市は瞬く間に彼らの傀儡と化す。だが、彼らの提案を蹴った以上、自らの手で早急に水を確保できなければ、結局は疫病によって拠点は内側から全滅するのだ。
「……保留は、もうできませんね」
迷宮管理者レイン・ヴァルトが、銀縁眼鏡を押し上げながら静かに沈黙を破った。
「ベルダさんは、引き続きエルメアさんと共に地上の検疫と隔離を進めてください。親方は、腕の立つ大工と、護衛のできる冒険者を数名見繕ってください。……地下水脈層へのルート構築を開始します」
その言葉に、現場作業員頭のガルムが顔を上げた。
彼の目には、先ほどまでの絶望感や焦燥感とは違う、純粋な戦士としての熱い光が宿っていた。
「第2層……! ついにあの奥の重い扉を開けるってのか。おう、待ってたぜ! 第1層でゴブリン狩りをしてるだけじゃ、うちの若い連中も腕が鈍っちまうからな。奥にはもっと強え魔物と、高く売れる珍しい鉱石がたんまり眠ってるんだろう?」
ガルムは肩を回し、腰に提げた巨大なハンマーを嬉しそうに叩いた。
長年、この辺境の砦で腐っていた元冒険者の血が騒ぐのだろう。新たな階層の解放という響きは、彼のような荒くれ者にとっては「未知の冒険」と「莫大な富」を意味していた。
しかし、レインはガルムの熱を帯びた視線を、氷のように冷たく、極めて事務的な眼差しで射抜いた。
「勘違いしないでください、親方」
レインの低く沈んだ声が、天幕の空気をピリッと引き締める。
「これは、未知のロマンを求める『冒険』ではありません。今行かなければ、俺たちが地上から腐り落ちて死ぬから行くんです。……今回は稼ぐためじゃない。腐らない拠点を作るための、極めて後ろ向きで、切羽詰まった『インフラ復旧工事(出勤)』です」
「……インフラ復旧工事、ねえ」
ガルムは毒気を抜かれたように肩をすくめ、後頭部をガシガシと掻いた。
「わかっちゃいるが、お前さんは本当に夢がねえな。冒険者のロマンをなんだと思ってやがる」
「ロマンで疫病は治りませんからね。……バロス会頭、我々が地下から水を汲み上げ、この拠点全体に行き渡らせる『配水網』を構築するまでの間、なんとか外部からの水樽の搬入を継続していただけませんか。あなたの物流網だけが、今の我々の命綱です」
「……ふん。商売としては割に合わんが、共同経営者殿への先行投資だと思えば安いものだ。ギリギリまで馬を走らせてやろう。だが、私の商会の体力にも限界がある。せいぜい三日だ。それ以上は無理だと思え」
バロスの重々しい約束を取り付け、レインたちが天幕を出ようとした、その時だった。
「……三日なんて、とても持たないよ」
天幕の入り口の布が乱暴にまくられ、巡回治療師のエルメア・ソーンが顔を出した。
彼女のローブは汗と泥で汚れ、疲労の色が色濃く浮かんでいる。だが、その瞳だけは、命を預かる専門家としての鋭い光を失っていなかった。
「エルメア! 隔離した連中の様子はどうだい?」
ベルダが慌てて駆け寄るが、エルメアはゆっくりと、絶望的な重さで首を横に振った。
「最悪だよ。さっき、新しく五人が腹痛と高熱を訴えて倒れた。怪我人用のテントを急遽、隔離病棟に回したが……もうベッドが足りない。持ってきた解熱剤も、明日の朝には底を突く。……いいかい、レイン」
エルメアはレインの胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「水不足で脱水症状を起こしているところに、強烈な腸炎が重なってるんだ。体力のない子どもや、栄養状態の悪い下働きたちは、もってあと二日だ。……二日以内に、泥水じゃない安全な水を大量に飲ませて、体を清潔に保てる環境を作らなきゃ、本当に死人が出るよ」
それは、数字上のシミュレーションではない。現場で命の灯火が消えかかっているのを見ている治療師からの、血を吐くような悲痛な宣告だった。
「……承知しました。猶予は二日ですね」
レインは一切の言い訳をせず、ただ静かに、その重い事実を受け止めた。
「ベルダさんは、手すきの者を総動員して、エルメアさんの看病の補助と、汚物の処理にあたってください。処理の際は必ず布で口と鼻を覆い、作業後は念入りに手を洗うこと。……親方は俺と共に、地下の管理中枢室へ。作戦会議を行います」
「おう! わかったぜ!」
それぞれの持ち場へと走り出すベルダとエルメアを見送り、レインとガルムは足早に地下への階段を駆け下りていった。
地下五階の管理中枢室。
冷たい石室の中央で、青白い光を放つ管理核の前に立ったレインは、手元の管理端末を操作し、四体のAI精霊たちを呼び出した。
「セレス。第2層《地下水脈層》の現在のステータスと、空間情報を空中に展開しろ」
『了解しました、管理者様。……第2層の封印プロトコル、解除プロセスを開始。内部情報のスキャンを実行します』
青い光の玉、分析精霊セレスの澄んだ声と共に、空中に巨大な半透明の立体地図が投影された。
しかし、そこに映し出されたのは、初心者向けに真っ直ぐな道が整備されていた第1層とは、根本的に異なる複雑怪奇な地形だった。
『……ひどい有様です。第2層の地形データ、王都のデータベースに残っている初期の設計図と、現在の実際の地形が実に六十パーセント以上乖離しています。長年の放置による大規模な岩盤の崩落と、地下水の増水により、元の通路の多くが水没、あるいは切断されています』
「なんだこりゃあ……迷路どころの騒ぎじゃねえぞ。水たまりと岩の壁がグチャグチャに絡み合ってやがる。これじゃあ、どこが道でどこが水路なのか、さっぱりわからねえ」
立体地図を見上げたガルムが、顔を引きつらせて呟く。
『当然よ! 第1層が初心者向けの訓練区画だったのに対して、第2層は元々、迷宮の奥深くから資源を採掘し、地下水を浄化して循環させるための本格的な実務層(本番環境)だったんだから! 危険度が桁違いだわ!』
赤い光の玉、設計精霊ミストが興奮したように明滅する。
『私の記憶にある美しい地下湖や、荘厳な大水門が残っていればいいのだけれど……。こんなに崩落してちゃ、景観も何もないわね』
『景観なんてどうでもいいぜ! 管理者様、俺たちがやるのは配水管を引くことだろ!? 水を地上に上げるには、巨大な魔導ポンプを設置するための安定した足場と、地上まで一直線に繋がる垂直の立て坑が必要だ! こんなグチャグチャの地形で、どこにポンプを置けってんだよ!』
黄色い光の玉、自動化精霊ルカが、複雑すぎる図面を見てパニックを起こしたように飛び回る。
『……警告します。現在の地形データは不確定要素が多すぎます』
緑の光の玉、監査精霊ノアが、冷酷な事実で締めくくった。
『水脈の流れは常に変化しており、水没した通路の奥にどのような水棲の魔物が巣食っているか、予測が不可能です。さらに、地盤が緩んでいるため、不用意に壁を崩せば、鉄砲水や大規模な生き埋め事故を引き起こす確率が極めて高い。……現状の不完全な地図情報のみを頼りにした進出は、自殺行為であると断定します』
「……机上のデータ(ログ)だけでは、安全なルート(導線)を設計しきれないということか」
レインは腕を組み、立体地図を睨みつけながら重い溜息を吐いた。
システム管理者としての彼の強みは、正確なデータを元に、合理的な最適解を導き出すことにある。しかし、その根幹となる「地図データ」そのものが古く、信用できないとなれば、彼の立てる作戦は砂上の楼閣に過ぎなくなる。
「親方。俺の魔法で地盤を固めながら進むことは可能ですが、魔力の消費が激しすぎる。それに、地下水脈の『流れの癖』や『崩落の兆候』を、この青い玉たちのセンサーだけで完全に感知しきれる確証がない。……現場の勘が必要だ。この地下の複雑な地質と、水の流れを熟知している坑夫や案内人は、今の砦にいませんか?」
レインがガルムに問いかけると、ガルムは顎髭を撫でながら、難しい顔で唸った。
「地下の勘、ねえ……。普通の冒険者は、水の流れる音を嫌って第2層には近づかねえ。足元が滑って戦いにくいからな。だが……」
ガルムは何かを思い出したように、ハッと顔を上げた。
「……一人だけ、心当たりがあるぜ。冒険者じゃねえが、昔、この辺りの鉱山街がまだ活きてた頃から、ずっと地下に潜り続けてた古株の爺さんがいる」
「古株の坑夫ですか。その人は、地下水脈の構造に詳しいと?」
「詳しいなんてもんじゃねえ。あの爺さんは、地図なんか見なくても、壁の湿り気と反響音だけで、水の流れと岩盤の脆さをピタリと言い当てる。……俺が若造だった頃から、この灰霧迷宮の『癖』を知り尽くしてる本物の現場のプロだ。ただ……」
ガルムは、ひどく忌々しそうに顔をしかめた。
「ただ、なんだい?」
いつの間にか、地上の対応を仲間に任せて降りてきたベルダが、会話に割り込んできた。
「……ただ、そいつは底抜けの偏屈で、頑固で、口が悪い。特に、王都から来る『頭でっかちの役人』を親の仇みたいに嫌ってやがるんだ。……お前さんみたいな、理屈とデータでモノを言うインテリ様とは、最悪の相性だろうな」
ガルムの警告に、レインは小さく笑みを浮かべ、銀縁眼鏡を押し上げた。
「偏屈な現場のプロ、大いに結構です。俺が求めているのは、愛想の良い素人ではなく、システムに足りない情報を埋めてくれる正確な『部品』ですから。……その方の名前は?」
「ドルクだ。ドルク・ハイン。……今日もたぶん、砦の端っこの酒場で、安いエールをちびちびやってるはずだぜ」
ガルムが答えると、レインは迷いなくコンソールに向き直り、最終的な承認キー(エンター)を強く叩き込んだ。
『第2層《地下水脈層》への物理ロック、解除します。……封印隔壁、開放』
ノアの無機質なアナウンスと共に、中枢室のさらに奥深くに続く重厚な扉が、地鳴りのような重低音を立ててゆっくりと開いていく。
開かれた闇の奥からは、ひんやりとした湿った空気と、微かな、しかし絶え間ない「水音」が、不気味な反響を伴って漏れ聞こえてきた。
「……ベルダさんは、引き続き地上の防衛線を死守してください。親方、俺をそのドルクという人物のところへ案内してくれ。……彼を、俺たちの運営チーム(パーティ)に組み込む」
猶予は二日。
迫り来る病魔のタイムリミットを前に、レイン・ヴァルトは、未知なる危険なインフラ層へと続く深く暗い口を見据えながら、静かに、そして確固たる決意で歩み出した。




