第32話 エルメアの警告
むせ返るような強烈な悪臭が、初夏の生温かい風に乗って灰霧前砦の広場を撫でていく。
王都から派遣された特別査察官ヴィクターを退け、事実上の独立を勝ち取った熱狂からわずか数日。
急造された漆黒の防壁の内側にひしめき合う五百人以上の人間たちは、歓喜の美酒に酔いしれる時期をとうに過ぎ、今や目に見えない「不快感」と戦っていた。
「おい、こっちの洗い場の水、もう完全に泥水みたいになってるぞ! これじゃ顔も洗えねえ!」
「文句を言うな! 飲み水だって圧倒的に足りてねえんだ、我慢しろ!」
青い線で区切られた商人区画の端で、泥だらけの冒険者たちが苛立ち交じりに声を荒らげている。
無理もない。急激に膨れ上がった人口に対し、砦に元から備わっていた古い井戸は完全に枯渇寸前だった。わずかに汲み上げられる水も、過剰な使用によって用途の切り分け(ルーティング)が完全に崩壊している。
飲み水、汗や泥を落とす生活用水、そして狩ってきた魔物の血抜き用。その区別が一切なくなり、洗い場の水槽はどろどろに濁った赤黒い汚水と化していた。
さらに深刻なのは、緑の線で区切られた居住区画の裏手だった。
急造された仮設便所は、五百人の排泄物を処理するにはあまりにも小さく、すでに許容量を遥かに超えていた。処理しきれない汚水が黒いぬかるみとなって地面を浸食し始め、じわじわと冒険者たちのテントへと這い寄っている。
不快な羽音を立てて無数の銀バエが飛び交い、そこに炊き出しの生ごみが無造作に放置されることで、強烈な腐敗の連鎖が加速していた。
「……最悪だね。これじゃあ、王都の貧民街の裏路地よりひどい有様だよ」
その地獄のような惨状を、眉一つ動かさずに冷徹に見つめている女性がいた。
飾り気のない実用的なローブを身に纏い、背中には薬草や医療器具がぎっしりと詰まった大きな背嚢を背負っている。年の頃は二十代後半。長い髪を後ろで一つにまとめ、知的な、しかしどこか冷めた光を宿した瞳を持つ彼女は、近隣の集落を回っている巡回治療師のエルメア・ソーンだった。
彼女は、死に体だった灰霧前砦が活気づいているという噂を聞き、迷宮で増えたであろう怪我人の治療のために足を運んだ。だが、漆黒の門をくぐった瞬間に彼女の顔は険しく歪んでいた。
プロの治療師である彼女の嗅覚は、冒険者たちの熱気よりも先に、この拠点に蔓延し始めている「死の匂い」を正確に嗅ぎ取っていたのだ。
「エルメア! 来てくれたのかい!」
分厚い書類の束を抱えた運用管理長のベルダが、広場の端に立つエルメアの姿を見つけて小走りで駆け寄ってきた。徹夜続きのベルダの目の下には、ひどい疲労の色が濃く刻まれている。
「久しぶりだね、ベルダ。随分と人が増えたって聞いて、傷薬や解毒薬を多めに持ってきたんだが……正直、ここまでひどい環境だとは思わなかったよ。迷宮で魔物に斬られる前に、この拠点の空気を吸ってるだけで肺が腐りそうじゃないか」
エルメアの辛口な評価に、ベルダは苦笑いをして肩をすくめた。
彼女としては、旧知の仲への軽い愚痴と相談のつもりだったのだ。
「アタシだってどうにかしたいさ。でも、人が一気に増えすぎちまって、水も便所も全部パンクしてるんだよ。バロス商会から水樽を大量に買ってしのいでるけど、飲む分に回すだけで全然追いつかないんだ」
「だろうね。水を買って外から運ぶなんてのは、ただの対症療法にすぎない。肝心なのは、使って汚れた水をどうやって外へ出すかだ。……ベルダ、少し現場の裏手を案内しておくれ。このままだと、怪我人より先に『病人』が山ほど出るよ」
エルメアの言葉は、いつもの軽口ではなく、医学的な事実としての重く冷たい宣告だった。
ベルダの案内で広場の裏手を歩き始めると、エルメアの表情は見る見るうちに険しさを増していった。
彼女の視線は、冒険者たちの活気や真新しい防壁ではなく、拠点としての「致命的な配置の悪さ」を次々と射抜いていく。
「駄目だね。居住区画と便所の距離が近すぎる。汚水が地面に染み込んで、雨が降ればすぐに寝床まで逆流する配置だ。それに、あっちの解体場……魔物の血や内臓の処理をどうしてるんだい?」
「広場の端に穴を掘って、そこにまとめて埋めてるよ。それしか方法がなくてね」
「最悪だよ。血の匂いは害虫だけじゃなく、夜になれば防壁の外の魔物まで引き寄せる。さらにそのすぐ横の洗い場で、同じ水を共有して顔を洗ったり、鍋をすすいだりしてるじゃないか。……これじゃあ、自分から病原菌を体に取り込んでいるようなものだよ」
エルメアの的確な指摘に、ベルダは言葉を失った。
これまでは「不便で臭い」という生活上のストレスとしてしか捉えていなかった問題が、エルメアの目を通すことで、命に関わる「感染と疫病の導線」として明確に言語化されたのだ。
「いいかい、ベルダ。屈強な冒険者たちはまだ体力が余ってるから平気な顔をしてるが、病魔ってのは必ず『弱い部分』から食い破るもんだ」
エルメアは、居住区画の隅でぐったりと座り込んでいる商人の下働きの少年や、迷宮で足を負傷して休んでいる冒険者を指差した。
「最初に倒れるのは、ああいう連れてこられた子どもたち、迷宮で怪我をして免疫が落ちている者、そして、無理な労働で疲労が溜まりきっている現場の作業員たちだ。……今のこの悪臭と害虫の数を見れば、遠からず激しい腹痛と発熱を訴える者が出始めるはずだよ」
「……その見立ては、我が拠点のシステム分析と完全に一致しています」
静かな声と共に、二人の背後から銀縁眼鏡をかけた青年――迷宮管理者のレイン・ヴァルトが歩み寄ってきた。
彼の周囲には、一般人には見えない四つの光の玉が忙しなく浮遊している。
「あんたが、新しい管理者かい。話は聞いてるよ。王都の役人を論理で追い返して、この砦を独立させたっていう命知らずのエリート様だろ?」
「エリートではありません。ただのシステム管理者です。……巡回治療師のエルメアさんですね。あなたの専門的な知見をお借りしたい」
レインはエルメアを真っ直ぐに見据え、単刀直入に切り出した。
「現在、この拠点の衛生レベルは規定値を大きく割り込み、致死性の疫病が発生する確率がレッドゾーンに突入しています。……専門家の目から見て、現在の状況はどう映りますか」
エルメアはレインの理屈っぽい物言いに少し目を細めたが、現場の深刻さを隠さず、正確に把握しようとするその態度は嫌いではなかった。
「データだのなんだの難しいことは分からないけどね。私の目から見れば、ここは『病を爆発的に育てるための完璧な配置』になってるよ」
エルメアは容赦なく事実を突きつけた。
『……エルメア氏の予測モデル、当方のシミュレーション結果と九十八パーセントの確率で一致します』
レインの脳内に、分析精霊セレスの緊迫した声が響く。彼女が展開する空中の魔法陣は、拠点全体が真っ赤に染まっていることを示していた。
『バイオハザードの発生は、もはや「可能性」ではなく「進行中のプロセス」です。病原菌の増殖スピードが、人間の免疫力を上回る臨界点へと急速に近づいています。このままでは明日の朝には拠点機能が完全にダウンします』
「聞いてるだけでゾッとするわ! 私の美しいダンジョンが、そんな汚い病原菌の温床になるなんて絶対に嫌よ!」
赤い光の玉、ミストが激しい嫌悪感を露わにして飛び回る。
『早くなんとかしねえと、マジでバタバタ人が死に始めるぜ! 自動化の魔法で罠を動かせても、目に見えねえ病気だけはどうにもならねえ!』
黄色い光の玉、ルカも焦燥感に駆られて激しく明滅している。
「……分かっている。ハードウェア(インフラ)の欠陥が、内部のユーザー(住民)に直接的なダメージを与え始めている状態だ。早急なバグ修正が必要だ」
レインは奥歯を噛み締め、再びエルメアに向き直った。
「エルメアさん。もし今日、発症者が出た場合、あなたの持っている手持ちの薬でどこまで対応できますか?」
「腹痛と熱を抑える程度の解熱剤と抗生薬なら、数十人分はある。だが、それはあくまで症状を和らげるだけの気休めだ。原因である『汚水』と『不衛生な環境』を根本から取り除かない限り、一人治しても、また別の三人が倒れる」
エルメアはレインの目を射抜くように見つめ、冷たく言い切った。
「あんたが迷宮の罠を直して、冒険者たちを呼び戻したのは大した手腕だよ。……だけどね、迷宮を直しただけで満足するなら、ここはただの『巨大な病人の収容所』になる。飲み水は命をつなぐけど、汚水は命を簡単に奪うんだ」
それは、迷宮のギミックやシステムのエラーばかりに目を向けていたレインに対し、「人が暮らす」という当たり前の現実を突きつける、重く鋭いプロからの宣告だった。
「……その言葉、真摯に受け止めます」
レインは一切の反論をせず、ただ静かに頷いた。
自分の設計した「安全な迷宮」と「強固な防壁」が、多くの人間をこの辺境の地に呼び込んだ。だが、その人間たちが生み出す「排泄物」と「消費」のスピードを計算しきれていなかった。
システム管理者として、最も恥ずべきインフラの全体設計ミスだ。
「ベルダさん。エルメアさんの指示に従い、拠点内の隔離エリアの選定と、手洗いの徹底などの衛生ルールの周知を行ってください」
「わ、わかったよ! すぐに手配する!」
ベルダが駆け出し、エルメアもまた、背嚢を揺らして広場にいる弱った者たちの検診へと向かっていった。
残されたレインは、手元の管理端末に表示された、真っ赤に染まる拠点のステータス画面を睨みつけた。
『管理者様。……拠点内の汚染ステータスが加速度的に上昇しています。現在の物理的な浄化能力では、このエラーの蓄積を止めることは不可能です』
緑の光の玉、ノアの厳格な警告が、冷たく脳内に響く。
「ああ。分かっている。対症療法(パッチ当て)の時間は終わった。根本原因の解決に移行するしかない」
レインは、悪臭の漂う広場から、砦の奥に口を開ける地下迷宮への入り口へと視線を向けた。
そして、エルメアの厳しい警告は、夜の闇と共に静かに、しかし確実に牙を剥き始めた。
その日の夜更け。
広場の焚き火が消え、砦全体が寝静まろうとしていた頃。
事務室のランプの下で、明日の配給表の整理を続けていたベルダの元へ、現場作業員頭のガルムが血相を変えて飛び込んできた。
その歴戦の元冒険者らしからぬ表情は、明確な『恐怖』に染まっている。
「ベルダ! 起きてるか!」
「なんだい、大声出して。こっちは明日の配給の手配で頭がいっぱいなんだよ」
「そんなもん後回しだ! ……さっき、俺のところの若い大工が一人、急に腹を抱えてうずくまりやがった。熱もひどい。エルメアに薬をもらって飲ませたが、まだうんうん唸ってる」
その報告に、ベルダの顔からスッと血の気が引いた。
持っていた羽ペンが、パタンと音を立てて床に落ちる。
「……また一人、腹を下したってのかい。夕方にも、宿舎の方で商人の下働きが倒れたって報告があったばかりだよ」
「マジかよ……。おい、これってまさか」
「ああ。エルメアの言った通りだ。水と下水が限界を超えて、ついに砦全体に毒が回り始めたんだ」
ベルダは両手で顔を覆い、震える声を漏らした。
ただの体調不良ではない。これは明確な「疫病の連鎖」の始まりだった。
このまま放置すれば、明日には十人、明後日には百人と病人が増え、砦は内側から完全に崩壊する。
同じ頃、地下の管理中枢室。
レインはコンソールに展開された地上の生体反応モニターを、無言のまま睨みつけていた。
健康状態の低下を示す「黄色い光点」が、夕方から夜にかけて、拠点内にポツリポツリと、しかし確実に増え始めている。
「……タイムリミットだ。これ以上の保留は許されない」
レインは管理卓を強く叩き、青白い光を放つ管理核を見上げた。
彼の瞳に、かつてないほどの決死の光が宿る。
「ノア。以前、地上の受け皿が足りないという理由で保留にしていた、迷宮の第2層を覚えているな」
『はい。第2層《地下水脈層》。……膨大な水源と、未知の生態系が広がる未踏のエリアです』
「その封印を解け。……これより、拠点インフラの根本的な改善を開始する」
第2層は、初心者向けだった第1層とは根本的に異なる。地下水が入り組み、足場は悪く、何が潜んでいるか分からない危険な領域だ。
だが、そこに行き、巨大な水源を確保し、同時に地上の汚水を物理的に排出するための「巨大な水路」を構築しなければ、この拠点は確実に内側から全滅する。
『了解しました。管理者様。……第2層へのアクセス権限を解放プロセスに移行します』
中枢室の奥で、何百年もの間閉ざされていた重厚な石の扉が、地鳴りを立ててゆっくりと開き始める。
勝利の余韻は完全に消え去った。
レイン・ヴァルトは「迷宮を動かす管理者」から「人が暮らせる拠点の運営者」へ進むため、最も泥臭く、そして最も命に直結する衛生インフラ問題という次なる強敵との戦いに、静かに足を踏み出そうとしていた。




