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AI精霊と始める迷宮再建 〜落第管理者ですが、運用改善で最強ダンジョンを作ります〜  作者: 結城ログ
第2章:人口爆発と衛生インフラ問題 ―― 地下水脈層を解放せよ
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第31話:勝利の臭いは長持ちしない

 王都から派遣された特別査察官ヴィクターを、論理的かつ物理的な手段で跳ね除け、灰霧前砦が事実上の独立と不干渉を勝ち取った翌朝。


 拠点の上空には、長年この辺境の地を覆い隠し、人々の心を沈ませていた忌々しい灰色の霧を吹き飛ばすかのような、雲一つない爽やかな青空が広がっていた。


 昨晩の勝利の狂騒は、朝日がすっかり昇りきってもなお、砦全体を心地よい熱気として包み込んでいる。


 レイン・ヴァルトが魔力で出力した漆黒の防壁の内側では、緑色の線で区切られた居住区画に冒険者たちのテントが所狭しと立ち並んでいた。

 あちこちで焚き火が起こされ、大鍋からは香草とオーク肉を煮込む強烈に食欲をそそる匂いが漂っている。


 青い線で仕切られた商人区画では、バロス商会をはじめとする商人たちが朝早くから多数の荷馬車を引き入れ、忙しなく取引を始めていた。活気ある怒号と、硬貨が弾ける音が絶え間なく響き渡っている。


「……ふぅ。やっと、この拠点もまともに回り始めたってことかね」


 一階の受付カウンターの奥で、運用管理長に任命されたばかりのベルダは、分厚い台帳をパタンと閉じ、大きく背伸びをした。


 徹夜の作業で目の下には濃い隈が刻まれているが、彼女の表情はこれまでにないほど晴れやかだった。

 長年、赤字と死人の報告ばかりを書き連ねてきた帳簿に、今は桁違いの黒字と、未来への投資計画が書き込まれている。

 ルールが機能し、経済が回り、冒険者たちが笑顔で迷宮へと出発していく。長年この場所の絶望と衰退を見つめ続けてきた彼女にとって、今のこの活気に満ちた光景は、まるで信じられない奇跡のように思えた。


 だが、その安堵は、ひどくあっけなく打ち砕かれることになった。


 ふと、荒野から吹き込む風の向きが変わった瞬間。


 炊き出しの美味そうな匂いの下層から、ひどく生臭く、そして酸い腐臭が、這い寄るようにして受付ホールにまで流れ込んできたのだ。


「……なんだい、この臭いは。誰か生ごみでも処理せずに放置してるのかい?」


 ベルダが思わず顔をしかめ、鼻を覆った直後。

 外の広場からドタドタと乱暴な足音を立てて、数人の若い冒険者たちが受付カウンターへと駆け込んできた。

 彼らの顔には、昨晩まで浮かべていた希望に満ちた笑顔はなく、明らかな不満と、抑えきれない焦燥感が浮かんでいる。


「おい、ベルダの姐御! どうなってんだよ、裏の洗い場の水が泥水みたいに濁ってて、顔を洗うどころか手も洗えねえぞ!」


「あっちの仮設便所も酷いぜ! もう中身が限界まで溢れかけてて、近寄るだけで吐き気がする! 風向きによっては、テントの中まで臭えんだ!」


「解体場の裏に捨てた魔物の血や内臓に、見たこともねえデカい銀バエが大量に群がってる! いくらなんでも、あれを放っておいたらヤバいんじゃねえか!?」


 次々と浴びせられる苦情の嵐に、ベルダは目を丸くして言葉を失った。


 活気が生み出した圧倒的な熱量は、一晩にして「生活の排泄物」という最悪の副産物へと姿を変えていたのだ。

 急激に膨れ上がった人口に対し、拠点のインフラが悲鳴を上げ、その許容量キャパシティを完全に食い破ろうとしている。


「ちょ、ちょっと待ちな! 一気に文句を言われたって、アタシ一人じゃどうにもならないよ! ガルム! 親方はどこだい!」


 ベルダがパニックになりかけ、助けを求めて悲鳴を上げた、その時だった。


「騒ぐな。状況の異常はすでに把握している」


 静かな、しかしよく通る冷徹な声と共に、地下の管理中枢室へ続く階段から、銀縁眼鏡をかけた迷宮管理者、レイン・ヴァルトが姿を現した。


 彼の視線はひどく冷ややかで、手にした携帯端末スレートの画面には、無数のエラーログが真っ赤な警告の文字となって滝のように流れ続けている。


『管理者様。……地上の第1区画から第3区画における【水資源の要求リクエスト】が、供給可能量を完全にオーバーしています。さらに【未定義の汚染ステータス】が拠点全域で加速度的に蓄積中。これは致命的なメモリ不足(リソース枯渇)です』


 脳内に直接響く、青い光の玉――分析精霊セレスの緊迫した報告。


『うげええっ! 地上の方、なんかスッゲェ気持ち悪い数値が出まくってるぜ! 不要なデータを捨てるためのダストボックス(ゴミ捨て場)も、排水ロジックも完全にパンク状態だ!』


 黄色い光の玉である自動化精霊ルカも、焦燥感に駆られて激しく明滅を繰り返している。


『当然ですわ! 人間が急に五百人も集まって、ろくな浄水設備もない場所で一気に生活を始めればそうなるに決まってるじゃない! 私が設計した美しい拠点が、こんな泥と汚物にまみれるなんて絶対に許せないわ!』


 赤い光の玉、設計精霊ミストがヒステリックに叫んでレインの周囲を飛び回り、


『……警告します。現在の拠点内の衛生レベルは、規定値を大きく下回っています。このままでは、拠点内の生命活動維持に重大な障害が発生します』


 緑の光の玉、監査精霊ノアが、一切の感情を交えずに冷酷な事実を告げた。


「レイン! あんた、聞いてたのかい! どうすんだよ、このままだと、せっかく集まった連中が嫌気をさして、みんな逃げていっちまうよ!」


 ベルダがすがるような目でレインを見つめる。


 だがレインは端末から顔を上げ、受付に詰め寄っていた冒険者たちと、その外に広がる惨状を極めて冷静に観察した。

 強大な外敵に勝利した翌日に、拠点が自らの出した汚物で腐り始めるという、この皮肉な現実。


 システム管理者として、トラフィック(人口流入)の急増が引き起こす物理的負荷ペイロードはある程度予測していた。だが、拠点にもともと備わっていた処理能力が、ここまで早く限界を迎えるとは。


「逃げていくならまだマシだ。最悪の場合、ここから誰も生きて帰れなくなる」


 レインの低く静かな言葉に、騒いでいた冒険者たちも一瞬にして凍りついた。


「ベルダさん。彼らが訴えているのは、単なる『生活の不便』や『一時的な水不足』といった、局所的なエラーじゃない。これは、都市という巨大なシステムを維持するための『生活インフラ全体の崩壊予兆』だ」


 レインは銀縁眼鏡を中指で押し上げ、ベルダに真っ直ぐに向き直った。


「綺麗な水が入り、汚れた水が滞りなく外へ出ていく。その『当たり前の循環サイクル』が存在しない密閉された箱の中に大量の人を詰め込めば、内側から腐敗するのは当然の物理法則だ」


「そ、そんな……! じゃあ、どうすればいいんだい!?」


「パニックを起こして無秩序に動いている暇はない。すぐに対応トラブルシューティングに移る」


 レインは端末を操作し、瞬時に役割分担を組み立てた。


「ベルダさん。あなたは受付に残り、冒険者たちから寄せられる『苦情の具体的な内容』と『発生箇所』、そしてバロス商会から運び込まれた『水樽の消費スピード』を、すべて正確に台帳に記録(ログ収集)し続けてください」


「き、記録? そんなのんびりしたことしてる間に、外の便所が完全に溢れちまうよ!」


「感覚的な判断で場当たり的に動けば、必ず対応に無駄が生じます。どこに、どれだけの物資と人員を優先的に割り当てるべきか、正確なデータに基づくトリアージが絶対に必要です。それが、運用管理長であるあなたの最重要タスクだ」


 レインの有無を言わせぬ論理的な指示に、ベルダはギリッと奥歯を噛み締め、大きく頷いた。


「……わかったよ! アタシは記録と情報収集に徹する。水と苦情の管理は任せな!」


「親方! ガルムさんはどこだ!」


 レインがホールの外へ向かって声を張ると、大槌を肩に担いだ現場作業員頭のガルムが、鼻をつまみながら泥だらけの顔で駆け込んできた。


「おう、エリート様! 裏の解体場と便所の様子を見てきたが、冗談じゃねえぞ! あんなもん、俺たち大工がスコップで掬ってどうにかなる量じゃねえ! 足の踏み場もねえくらいに溢れかえってやがる!」


「親方。あなたは数人の部下を連れて、溢れかけている仮設便所、用途が混在して汚濁した洗い場、生ごみが放置されている解体場の『実地確認』に回ってください。どこまで汚染が物理的に広がっているか、被害の進行度(エラー範囲)を正確に把握したい」


 レインは言葉を切って、ガルムの目を鋭く見据えた。


「ただし、絶対に汚水には直接触れないように。少しでも体調に異変を感じたら、すぐに報告してください」


「おう、わかった! 触りたくても触れねえくらい臭えがな! 行ってくる!」


 ガルムが踵を返して、再び悪臭の漂う現場へと走っていく。


 レインは再び手元の端末に目を落とし、拠点の全体図と、警告を示す赤い光点を見つめた。

 これまで対峙してきた敵は、迷宮内の「魔物」であり、王都が押し付けてくる「理不尽な権力」だった。

 だが、ここから先の敵は違う。


 剣で斬ることもできず、魔法で撃退することもできない。

 最も泥臭く、しかし最も命に直結する絶対的な脅威。


「衛生崩壊……。これこそが、拠点運営における真の死の淵か」


 その日の日中は、ベルダの緻密な記録と、ガルムの力技の奮闘により、なんとか最悪の破綻だけは食い止めていた。

 バロス商会から追加で水樽を買い上げ、洗い場の使用時間を制限し、便所の周囲には大量の砂と灰を撒いて、物理的に悪臭と汚水を抑え込もうとした。


 だが、それはあくまで表面的な対症療法(パッチ当て)に過ぎなかった。

 根本的な解決である「巨大な水の流れ(パイプライン)」が存在しない以上、拠点が内部から腐っていく速度をわずかに遅らせているにすぎない。


 そして、その恐るべき結末は。

 夜の帳が降りた宿舎区画で、静かに、しかし確実に牙を剥いた。


「……ベルダ! レイン!」


 夜更けの受付ホール。

 ランタンの灯りの下で、昼間の苦情データを台帳に整理していた二人の元に、ガルムが血相を変えて飛び込んできた。

 その歴戦の元冒険者らしからぬ表情は、昼間の悪臭に対する苛立ちではなく、明確な『恐怖』に染まっている。


「どうした親方。夜間警備で何か異常でもあったか?」

 レインが顔を上げる。


「居住区画の第3エリアだ。……そこで寝てた若い荷運びの連中が数人、急に腹を抱えてのたうち回り始めた。尋常じゃねえ熱を出して、嘔吐が止まらねえらしい」


 その報告に、ベルダの手から羽ペンが滑り落ち、パタンと音を立てて床に転がった。


「腹痛と、発熱……? 怪我じゃなくて……病気、かい?」


「ああ。魔物に襲われたような外傷なんて一つもねえ。ただ、あいつら今日の昼間、あの泥水みたいになった洗い場の水で、喉が渇いたからって顔を洗って、ついでに一口飲んじまったって言ってやがった」


 重苦しい沈黙が、深夜のホールに落ちた。

 それは、レインが最も恐れていた事態。


 インフラの限界という論理的なエラーが、直接的に人間の肉体ハードウェアを破壊し始めた、明確なサインだった。


「……戦えない、より先に、拠点が腐り始めたか」


 レインは静かに立ち上がり、窓の外を見つめた。

 ランタンの灯りが不安げに揺れる宿舎区画からは、微かに苦しげなうめき声が聞こえてくるような気がした。


 昨日まで満ちていた勝利の余韻など、すでにどこにもない。


「次の敵は、魔物でも役人でもない。……目に見えない『病』になる」


 レイン・ヴァルトは、迷宮のバグを直す単なるシステム管理者から、人が暮らす拠点を守る「運営者」となるための、最も過酷で泥臭い戦いの始まりを、冷徹な覚悟と共に受け入れていた。

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