第23話:バロスとの取引
正午過ぎ。灰霧前砦の南側に広がる荒野に、もうもうと土埃を巻き上げながら、長大な幌馬車の列が姿を現した。
先頭の馬車から降り立ったのは、恰幅の良い体格に、上質だが華美すぎない実用的な外套を羽織った初老の男だ。
彼こそが、この辺境一帯の物流を牛耳る商工会会頭、バロスである。
彼は馬車から降りるなり、鋭い鷹のような目で灰霧前砦を――いや、昨日までただのボロボロの石造りだったはずの「黒光りする強固な要塞の一部」へと変貌している建築物を睨みつけた。
「……会頭。あれは一体、何事でしょうか。昨日まであんな黒い石の壁など……」
護衛の傭兵が呆然と呟くが、バロスは太い指で顎を撫でながら、ニヤリと唇を歪めた。
「どうやら、あの若い管理者は、私の想像以上に恐ろしい手札を隠し持っていたらしいな。……面白い。投資のしがいがあるというものだ」
迷宮の第一層が安全になり、冒険者たちが荒稼ぎをしているという報告は、すでにバロスの元に届いていた。
彼は利益の匂いを誰よりも早く嗅ぎつけ、大量の食料とポーション、そして武器防具を積んで、この砦の市場を独占するつもりでやってきたのだ。
だが、出迎えた受付嬢のベルダによって旧・所長室へと案内されたバロスは、そこで迷宮管理者レイン・ヴァルトから、想像を絶する提案を受けることになった。
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「――なるほど。この砦の周囲を壁で囲い、巨大な『防壁』と『門』を作る。そして門の内側に、我々商人のための強固で泥濘まない石畳の『荷捌き場』を用意してくれる、と」
応接用の長机を挟んで、バロスは分厚い両手を組み、机の上に広げられた周辺地図を見つめた。
彼の向かいには、銀縁眼鏡をかけたレインが静かに座っている。その周囲には、バロスからはただの「赤と青の光る玉」にしか見えない精霊たちがふわりと浮遊していた。
「ええ。現在、冒険者の数は増え続けており、彼らが持ち帰る素材の量も爆発的に増加しています。砦の中だけで取引を行うのは、今日が限界でしょう。だからこそ、外に巨大な取引区画を作ります」
レインの言葉に、青い光の玉――分析精霊セレスが、澄んだ声で補足する。
『現在の冒険者の流入ペースと、彼らの魔石および素材の回収効率から算出すると、三日後には取引量が現在の五倍に達します。広大な荷捌き場がなければ、物流は完全に麻痺します』
「……不思議な精霊殿だ。だが、言っていることは極めて正確だ。私の頭の中の計算盤と同じ数字が出ている」
バロスは光の玉を面白そうに一瞥してから、再びレインへと鋭い視線を向けた。
「しかし、管理者殿。あんたはその『石畳の地盤』だけを用意して、雨風をしのぐ倉庫や、商会が寝泊まりするためのテントは、一切用意してくれないと言う。……そして代わりに、私に『投資』をしろと要求しているわけだ」
「はい。バロス会頭には、三つのものをご提供いただきたい」
レインは指を三本立てた。
「一つ、防壁の材料となる『質量のあるゴミ』……荒野の岩や廃材をかき集めるための、冒険者たちへの『日当の支払い』。
二つ、それらを運搬し、現場を回すための『労働力の提供』と『資材の輸送』。
三つ、その石畳の上に建てる、商会用の『巨大な倉庫の自費建設』です」
その要求を聞いた瞬間、バロスの背後に控えていた側近の商人が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ふざけるな! 管理者としての仕事を放棄した上に、壁の建設費用から自分たちの倉庫の建築費まで、すべて我々商人に負担しろと言うのか! いくらここで利益が出るとはいえ、初期投資が莫大すぎる! 完全に足下を見ているじゃないか!」
だが、バロスは手を上げて側近を制し、目を細めてレインを見据えた。
バロスの頭脳は、超高速で損益分岐点を計算していた。
確かに初期投資は馬鹿にならない。だが、この安全で活気に満ちた迷宮の「玄関口」で、巨大な荷捌き場を自分たちの商会が独占できたとしたら……? 投資額など、わずか一ヶ月で回収でき、あとは莫大な黒字が永遠に転がり込んでくる。
「……計算は合う。いや、むしろ安いくらいだ、管理者殿。だが、私は商人だ。筋の通らない博打は打たない」
バロスは身を乗り出し、低い声で核心を突いた。
「この砦の土地は、法的には王室と迷宮管理局の所有物のはずだ。私がどれだけ金をかけて立派な倉庫を建てようと、王都の役人がやってきて『ここは国の土地だ。無断で建てた建物は没収する』と言えば、私は一瞬で全財産を失うことになる。……違うかね?」
バロスはすでに、王都の古い体質と、レインが置かれている「左遷された管理者」という危うい立場を正確に見抜いていた。
いくら現場が潤おうと、国が「違法」と断じればすべては水泡に帰す。そのリスクがある限り、巨額の投資はできない。それは商人として極めて全うな判断だった。
しかし、レインはその言葉を待っていたかのように、薄く笑った。
「さすがはバロス会頭だ。リスク管理の解像度が素晴らしい。……だからこそ、今回、あなたとは『公開条件付きの契約』を結ばせていただきます」
「公開条件付きの契約、だと?」
レインは机の下から、分厚い羊皮紙の束を取り出し、バロスの前に滑らせた。
それは、緑の光の玉――監査精霊ノアと共に、王国の複雑怪奇な法律の抜け道を徹底的に解析し、一晩かけて作り上げた「悪魔の契約書」だった。
「この契約書は、私(管理者)と、バロス会頭(商工会)の間で交わされる『正式な区画利用権の貸与契約』です。土地の所有権は王国のままですが、その上に建つ『建築物』の所有権と、『区画における独占的な優先取引権』は、すべてバロス会頭に帰属する、という条項が明記されています」
『さらに、この契約は王都の商業ギルド本部にも即日写しを送付し、公的な記録として登録します』
ノアの冷徹な声が響く。
「……なるほど。土地は国のものだが、上モノ(建物)と商売の権利は私のものだと、公に認めさせるわけか。だが、王都の役人がそんな契約を後から反故にしたらどうする?」
バロスが訝しげに尋ねる。
「もし王都の役人が、この契約を一方的に破棄し、あなたの倉庫や商品を強制的に没収しようとした場合、それは『王国迷宮管理局による、商業ギルドの正当な財産権への重大な侵害』となります」
レインは銀縁眼鏡の奥で、冷酷なシステム管理者の光を放った。
「つまり、彼らが私からこの砦を奪い取ろうとすれば、同時に『全国の商業ギルド』という巨大な組織を敵に回し、泥沼の法廷闘争と、物流ストライキという報復を受けることになります。……現場を知らない王都の役人にとって、それは絶対に避けたい『致命的なバグ』です。彼らは手出しができなくなる」
バロスは目を見開き、そして数秒の沈黙の後、腹の底から湧き上がるような大笑いを響かせた。
「クックック……ハハハハハ! 恐れ入った! 要するに管理者殿、あんたは私に『防波堤』になれと言っているわけだ! 自分の首を守るために、私の商会と財産を、王都に対する『最強の盾』として使う気だな!」
「お互い様でしょう、会頭」
レインは一歩も引かずに答える。
「私はあなたに、無限に金を生み出す『安全な狩場』を提供する。あなたは私に『王都の権力を弾き返す盾』を提供する。これは、極めて健全で合理的な相互依存関係です」
「……あっぱれだ。これまで数え切れないほどの役人と取引をしてきたが、あんたほど腹が黒く、そして『筋の通った儲け話』を持ってくる男は初めてだ」
バロスは満面の笑みを浮かべ、机の上の契約書を引き寄せると、迷うことなく懐から羽根ペンを取り出し、豪快にサインを書き殴った。
「交渉成立だ、管理者殿! いや、これからは良き共同経営者と呼ばせてもらおう! ……おい、外にいる若い衆に伝えろ! 馬車から荷を下ろし、大工の手配を急げ! 冒険者どもには『石ころ一つ運べば、銀貨一枚出してやる』と触れ回れ!」
バロスが側近に怒鳴ると、側近は慌てて部屋を飛び出していった。
金が動く。人が動く。物流がうねりを上げて加速していく。
「頼もしい限りです、バロス会頭。……では、私は外周の『接着剤』の準備に入ります。親方が集めたゴミの山を、決して崩れない城壁へと変換しなければなりませんからね」
「楽しみにしているぞ、共同経営者殿。三日で王都の度肝を抜く城を作ってみせようじゃないか!」
バロスとレインは、固く、力強い握手を交わした。
地下の魔力と、地上の経済力。
二つの巨大なシステムが完全に噛み合い、轟音を立てて回り始めた瞬間だった。
王国の古い法規を書き換えるための、民間人を巻き込んだ前代未聞の「要塞都市構築の三日間」が、いよいよ本格的な物理拡張のフェーズへと移行する。




