第22話:街ではなく、まずは生存圏
灰霧前砦の夜明けは、異様なほどの静寂と、それに続く爆発的なざわめきによって幕を開けた。
一階の大食堂に雑魚寝していたはずの冒険者たちは、目覚めると同時に己の目を疑うことになった。
彼らが横たわっていたはずの、汗と泥の臭いが染み付いた冷たい石の床は完全に消え失せていた。代わりに彼らを包み込んでいたのは、ほのかに温かく滑らかな漆黒の輝石で構成された、個室めいたカプセル状の寝台だった。
寝台の奥には柔らかな光を放つ魔導照明が埋め込まれ、完璧な温度管理と防音性が保たれている。
冷たい隙間風に震えることも、隣で寝ている野郎の地響きのようなイビキに悩まされることもない、まさに奇跡のような空間だ。
天井を見上げれば、長年の風雨で崩れかけていた不格好な木の梁は、幾何学的な紋様が刻まれた堅牢な石のアーチへと変貌し、大聖堂のような広々とした空間を支え切っていた。
「おい……なんだこりゃ。夢か? 俺たちは夜の間に死んで、天国にでも来ちまったのか?」
「馬鹿野郎、自分のほっぺたをつねってみろ。……痛え! 夢じゃねえ! 壁が、砦の壁が全部すげえ石に変わってやがる!」
冒険者たちが次々と寝台から這い出し、広大な空間へと生まれ変わった大食堂で信じられないといった歓声を上げる中。
砦の二階にある旧・所長室――現・迷宮管理室では、下の階の熱狂とは無縁の、極めて現実的で冷徹な戦略会議が行われようとしていた。
「……信じられないよ。あんた、地下で一体どんな魔法を使ったんだい? 宮廷魔導師でも、あんな芸当はできやしないよ」
淹れたての濃いハーブティーの入った木の実のカップを机に置きながら、受付嬢のベルダが呆れたような、しかし深い畏怖の念を込めた声で言った。
彼女の目の前には、徹夜明けのひどい顔をした迷宮管理者、レイン・ヴァルトが、大量の羊皮紙と木炭のペンを広げて座っている。
「魔法と呼ぶには、いささか泥臭い仕様ですよ。迷宮の底に溜まっていた余剰魔力を地上に引っ張り上げ、既存の脆い石や木材を核にして、物理法則を一時的に書き換えただけです」
「それを世間じゃ魔法って呼ぶんだよ。……下の連中は大騒ぎさ。これで雨風に震えることもなく、極上の宿舎で眠れるってね。あんたのことを、女神様の使いか何かだと思い始めてる奴もいるくらいさ」
「神の使い、ですか。……なら、すぐにその幻想は打ち砕かれますね。これから彼らには、血反吐を吐くような労働をしてもらうことになりますから」
レインが淡々とハーブティーをすすった直後、バンッ! と乱暴な音を立てて扉が開かれ、現場頭のガルムが転がり込んできた。
長年、砦の修繕を請け負ってきた屈強な大工の親方である彼の顔もまた、興奮と困惑で真っ赤に紅潮している。
「おい、管理者! 下の階のあれは一体どういうこった! 俺たちが昨日苦労して組み立てた三段ベッドが、全部ピカピカの石の寝床になっちまってるじゃねえか! おまけに壁の厚さが倍以上になってやがる。お前さん、一体いつの間にあんな大工事を……!」
「親方、ちょうど良かった。ベルダさんも、そこに座ってください。……査察官が来るまで時間がないので、単刀直入に言います」
レインはカップを置くと、机の上に広げた大きな羊皮紙を指で叩いた。そこには、灰霧前砦を中心とした周辺の簡素な地図が描かれている。
「これから三日間で、この砦の周辺を『要塞』へと作り変えます」
「要塞、だと?」
ガルムが目を丸くして身を乗り出した。
「はい。現在、迷宮の第一層が安全な稼ぎ場になったことで、冒険者の数は爆発的に増え続けています。さらに、今日の昼にはバロス会頭の商隊が本格的な買い付けにやって来る。今の砦の面積とインフラでは、人と物資を捌ききれず、確実に致命的な破綻を起こします」
「そりゃあ、俺も分かっちゃいるが……。さっきみたいなすげえ魔法で、外にもドカンとデカい街を作っちまえばいいじゃねえか。お前さんなら、一瞬で豪邸の立ち並ぶ街を出せるんだろ?」
ガルムの楽観的な言葉に、レインは静かに、しかしはっきりと首を横に振った。
「不可能です。魔法は無から有を生み出す万能の力ではありません。下の階にあれだけの宿舎を出力し、維持するだけで、迷宮から吸い上げた魔力の大半を食いつぶしています」
『管理者の言う通りです。現在の魔力収支はギリギリの均衡状態。もし無理に外へ向かって立派な街を作ろうとすれば、魔力不足で構造が維持できず、ある日突然、石壁が崩れ落ちて全員が圧死することになります』
レインの傍らにふわりと浮かんだ緑色の光の玉――監査精霊ノアが、冷徹な声で言葉を継いだ。
精霊たちの詳細な姿や表情はレインにしか見えないが、空中に浮かぶ光の玉としての実体と、その厳格な声は、ベルダやガルムにもはっきりと認識されていた。
「……おいおい、今サラッと恐ろしいこと言わなかったか、この緑の玉っころは。魔法の壁が突然消えてミンチになるだと?」
ガルムが顔を引きつらせて一歩後ずさる。
「事実です、親方。だからこそ、方針を明確にします」
レインは木炭のペンを手に取り、地図の中心にある砦をぐるりと大きく囲むように、歪で無骨な太い線を引いた。
「俺たちがこれから作るのは、綺麗で快適な『街』ではありません。外の脅威から人と物資を守り抜くための、最低限の『生存圏』です」
「……生存圏?」
ベルダが眉をひそめて復唱する。
「ええ。美観や快適さは二の次です。優先順位の第一位は、この太い線――すなわち『防壁』です。荒野の魔物や野盗、そして何より『王都から来る招かれざる客』の強行突破を防ぐための、圧倒的な質量を持った壁がどうしても必要です」
「おいおい、待ってくれよ」
ガルムが再び慌てて口を挟む。
「壁って言ったって、あんな外周を囲むような巨大な防壁、石を山から切り出して運んでくるだけでも何ヶ月もかかるぞ。魔力で一から作れねえんなら、どうやって三日で建てる気だ?」
「そこで、大工である親方たちの出番です。……親方、荒野に転がっている巨岩でも、古い砦の崩れた廃材でも、冒険者たちが捨てた壊れた荷車でも構いません。ありとあらゆる『質量のあるゴミ』を、この線の位置に山積みにしてください」
「はあ!? ゴミを積んでどうするんだ! そんなもん、ゴブリンが一匹突進してきただけで崩れちまうぞ!」
「崩れません。俺が『接着剤』になります。……形を綺麗に整えたり、ゼロから石を生み出したりする魔法は魔力を莫大に消費しますが、ただのゴミの山に魔力を流し込んで『一つの岩塊として硬化させる』だけなら、魔力消費は十分の一以下で済みます。ツギハギで醜悪な見た目になるでしょうが、大砲の弾をも弾き返す強度の防壁が、三日で完成します」
レインの極めて合理的で、常識外れな力技の提案に、ガルムは開いた口が塞がらないという顔をした。
大工としての美学や建築の常識を根底から覆す、まさにシステム管理者ゆえの「効率と強度最優先」の思考だった。
「……なるほどね。あんたが『血反吐を吐くような労働』って言った意味が分かったよ。つまり、冒険者や大工たちを総動員して、外からひたすら資材の代わりになる重いゴミを運ばせる気だね」
ベルダがくすりと笑う。
「その通りです。そして優先順位の第二位以降は、その防壁を貫く『門』と『荷捌き場』、そして増え続ける人間のための『新たな宿舎と倉庫の区画』の構築。……ここからはベルダさんの領域です」
レインは地図の入り口部分と、防壁の内側の広大なスペースに大きな丸印をつけた。
「壁を作れば、当然出入り口が必要になります。そして、門の周辺は人と物流の最大の負荷集中点になる。ここに、商人たちが荷馬車を安全に横付けし、冒険者たちが素材を換金し、野営するための『巨大な平地』を作ります。……ここだけは、俺が迷宮の魔力をふんだんに使って、雨が降っても泥濘まない完璧な石畳の地盤を出力します」
「ちょっと待ちな。地盤だけかい? これからどんどん増える連中を寝かせる宿舎や、商人たちが雨風をしのぐための倉庫はどうするんだい? 魔力がないなら、それもゴミの山で作るのかい?」
「作りません。いや、作れません。……屋根や壁のある『建物』は、俺が魔力で維持するにはコストが高すぎる。だから、宿舎と倉庫の区画も、平らな地盤と最低限の雨除けだけを出力します。それに――」
レインは銀縁眼鏡をゆっくりと押し上げ、冷たい光を宿した瞳でベルダを見つめた。
「立派な建物を最初から王国の予算や管理者の権限で用意してやれば、王都から来る連中は『王国規約違反の不法建築だ』と言って、それを丸ごと没収するでしょう。だからこそ、俺が作るのはあくまで『ただの頑丈な地面』だけです」
「……どういうことだい?」
「その地面の上に建つ倉庫やテントは、商人たちに『自分たちの金と木材』で建てさせるんです。冒険者たちにも、自分たちの金でテントを張らせる。バロス会頭なら、俺が安全な土地と独占的な取引権(API)を提供すれば、喜んで自腹で堅牢な倉庫を建てるはずです」
そこまで聞いて、ベルダとガルムはようやくレインの描く「恐ろしい絵図面」の全貌を完全に理解した。
迷宮の魔力で、外枠(防壁)と土台(地盤)だけを作る。
そこから先の中身(宿舎や倉庫)は、民間の商人たちに投資させ、冒険者たちに労働させて作らせる。
そうして出来上がったものは、「王国の予算と魔法で作られた直轄施設」ではなく、「民間人が自分たちの生活と金のために築き上げた、強固な既得権益の塊」となるのだ。
「……あんた、本当に性格が悪いね」
ベルダが呆れ半分、感心半分といった様子で、深くため息をついた。
「もし王都の役人が来て『この街を没収する!』なんて宣言しようものなら、自腹で倉庫を建てた商人たちや、そこを生活の拠点にし始めた冒険者たちが黙っちゃいない。役人どもは、あんた一人じゃなく、ここにいる全員の生活と財布を敵に回すことになるって寸法さね」
「その通りです。システムを守るための最強の防壁は、石の壁ではありません。『ここで利益を得ている者たちの怒り』です。……三日後にやってくる特別査察官は、俺を解任してこの砦を乗っ取るつもりでしょうが、彼が到着する頃には、この場所は彼らの持っている『古い法律』では絶対に制御できない、別の生き物に進化しています」
レインは立ち上がり、窓の外――朝靄に包まれた荒野を見下ろした。
そこはまだ、何もないただの泥濘んだ大地だ。だが、数時間後には、生き残りをかけた凄まじい熱量の建設ラッシュが始まる。
「親方。大工たちと、手の空いている冒険者を全員集めてください。報酬は弾みます。迷宮に潜ってゴブリンを狩るよりも圧倒的に稼げる『土木クエスト』の始まりです」
「へっ……言うじゃねえか、お前さん。瓦礫を積み上げて魔法で固めるだけの不細工な城壁なんて、親方としてのプライドが許さねえが……。三日で王都のエリートどもの度肝を抜く要塞を作れるってんなら、俺の腕と魂、全部貸してやるよ!」
ガルムはニヤリと凶悪な笑みを浮かべ、分厚い拳を手のひらに打ち付けた。
「ベルダさん。あなたは商人たちを捌く『門番』であり、この新しい生存圏の『ルールの元締め』になります。俺は今日、これからバロス会頭と直接交渉に入ります。彼から労働力と資材を限界まで引き出して見せます」
「分かったよ。荒くれ者どもの交通整理と、商人たちの尻叩きはアタシに任せな。……さあ、忙しくなるよ。王都の阿呆どもに、辺境の泥水を存分に飲ませてやろうじゃないか」
ベルダもまた、かつての死んだような目を完全に払拭し、戦う女の顔になっていた。
迷宮管理者、受付嬢、そして現場頭。
そして宙に浮かぶ光の玉たち。
灰霧前砦の運営を担う者たちの意志が、完全に同期した瞬間だった。
王都の権力という巨大なバグ(脅威)が到達するまで、残り七十時間。
灰霧前砦は、ただの辺境の拠点から、前代未聞の『要塞生存圏構築プロジェクト』へと、そのステータスを本格的に移行したのである。




