第154話 名乗る側
満ちの二日前に、宿場から先触れが上がってきた。
ガルムは門の当番を一人だけ増やした。ほかは何も変えていない。
「荷は」
「無えよ。馬が三頭。人が三人。括ってんのは着替えだけだ」
「文には供が二人とありました」
「合ってる」
ガルムは土塁の上から坂を見下ろしたまま顎を動かした。
「合ってるから気に食わねえ」
---
ベルダは受付の紙を土塁の外まで持って下りた。名と所と用向きを先に書かせる形は変えていない。
馬を下りたのは背の高くない男だった。外套は旅の埃で色が変わっている。指に石は嵌めていない。供の二人は年寄りと若者で、どちらも一歩下がったところで手綱を持ったまま動かなかった。
「セリドの地を預かる者にございます。ミルディンと申します」
男は帽子を取ってから名乗った。ベルダの筆が追える速さで、所と用向きまで続けた。
「門で止めていただいて構いません。そう書いて寄越しました」
「止めてるとこだ」
ガルムは戸の前から動かない。
「先に一つ聞く」
「どうぞ」
「うちの頭越しで、委員会の卓に奥の調査枠を乗せた願いがある。出した名前はヴェッセンだった」
ミルディンは目を逸らさなかった。
「私の家の銭にございます」
「詫びるか」
「詫びます」
「詫びは要らねえ」
ガルムは腕を組んだ。
「次に同じことをやるかどうかだけ言え」
男はすぐには答えなかった。供の若者が何か言いかけて、年寄りのほうが袖を引いて止めた。
「やらないとは申し上げられません。……間に合わないと見えましたら、私はまた同じことをいたします」
ガルムは長く息を吐いてから、戸の脇へ半歩どいた。
「通れ」
「よろしいのですか」
「嘘つかれるよりましだ」
---
控えの間には紙を伏せて置いた。
「三人で伺います。別々に書いて、あとで突き合わせます」
「結構でございます」
ミルディンは膝の上で手を重ねた。
「そういう作法の家だと伺っておりました」
「誰にですか」
「ヴェッセンに」
ベルダは筆を持ったまま眉を上げた。
「二人は決まりね。もう一人は」
「窓口の書き役をお借りします」
「あの子でいいの」
「下のことを知らない人が要ります。知っている者が書くと、書かれていないことまで書けてしまいます」
『先に申し上げます』
ノアの灯が伏せた紙の角をひとつだけ照らした。
『向こうの言葉は向こうの綴じでございます。ですが聞く者はこちらの人間になります。三枚とも名を書いて、こちらの束へ入れてください。持ち出しは認めません』
「そうします」
『それと、こちらの一行はまだ綴じの途中でございます。今日この場では出しません』
「出しません」
---
書き役の娘が筆と紙を抱えて入ってきた。ミルディンは娘にも一礼した。
「値の話から伺います」
レインは伏せた紙の端へ指を置いた。
「三年のあいだ、あなたは一度も値切らなかったと伺いました。話した者の名を書いて、裏づけのない束に入れてあります」
「値切っておりません」
「その束から出すには、書いた者ではなくあなたの口が要ります」
「そのとおりでございましょう」
男は少し黙ってから顔を上げた。
「私は、買えないと分かっているものに値をつけておりました」
ベルダの筆が一度だけ止まった。
レインは束の紐へ指を掛けた。
「買えないと分かっていて、なぜ上げたのですか」
「土地の者に申し上げるためでございます。寄合の卓で、やれるだけのことはやったと」
声の調子は変わらなかった。
「値をつけている間は、まだ手が残っていることになります。手が残っていないと申し上げた日から、村は水を諦めます」
『申し上げます』
ルカの罫が紙の上へ細く伸びた。
『三年ぶんの値の動きと、そちらの井戸の濁りの記しを並べました。値が跳ねた月は、濁りが増えた月の翌月です。どの年も同じ順です』
「順が逆なら、商いの話でした」
ミルディンは罫の伸びた先を見たまま答えた。
「商いにはなりませんでした」
---
鐘が鳴ってしばらくすると框の板がひとつ軋んだ。ドルクだった。
名乗りもせずに腰を下ろして外套の裾を払っている。
「何晩座った」
「八十一晩にございます」
「一人でか」
「一人でございます」
「合わせる相手は」
「おりません」
ドルクは茶にも触れずに自分の手を裏返してこちらへ向けた。
「開けるとき、指をどこに置いてる」
「座の縁に掛けております」
「縁は駄目だ」
老人は自分の手首の内側を叩いた。
「縁に指を掛けると、自分の脈を数えちまう晩がある。俺は三年目に気づいた。掛けるなら座の外の石だ」
ミルディンは自分の手を見てから、もう一度老人を見た。
「……書き留めてよろしいですか」
「好きにしろ」
ドルクは框から立たなかった。
「言っとくが、教えられるのはそこまでだ。どれだけ開けるかは俺にも口じゃ言えねえ」
---
「私の家の一行を申し上げます」
ミルディンはそう言って、三人が筆を構えるまで待った。
「紙にできないと書きましたのは、書けば土地に印がつくからでございます。写しはいずれ家の外へ出ます。あの土地の下が動きかけていると外に知られましたら、婿も職人も来なくなります」
「伺います」
「濁る前に、一晩だけ下の音が止みます」
娘の筆が紙を擦る音だけがした。
「止んだ次の晩から井戸が濁ります。三代前に一度。叔父の代に一度。私の代に一度でございます」
「今度の濁りの前も、止みましたか」
「分かりません」
男の答えは速かった。
「そのころ座っておりましたのは叔父でございます。倒れてから二日で亡くなりましたので、聞き取っておりません。私が座り始めたのは濁ったあとでございます」
「では、伝え聞いた形ですね」
「伝え聞いた形でございます」
『そのように書いてください』
ノアの灯が三枚の紙の上を順に照らした。
『伝聞であること。聞いた者の名。話した者の名。三つが揃わない書き入れは認めません』
---
三枚を突き合わせたのは夕方だった。
ルカの罫が三枚の縁を合わせて、合わない行の頭に印を置いていく。
『二つ合いません。一つは止む長さです。ベルダさんは晩のあいだ、書き役の方は一晩まるごと、三枚目は晩のうち一度と書いています』
「もう一つは」
『何度目の濁りかの数です。二枚は三度、一枚は二度と書いてあります』
ミルディンを呼び戻して二つとも聞き直した。長さは「一晩まるごととは聞いておりません」に落ち、数は三度で揃った。娘は自分の一行に線を引いて、その脇へ聞き直した旨を書き足した。
「これで残るのは、合った行だけですね」
『残ります。合った行のほうが少なくなります』
---
『こちらの三年を当たりました』
セレスの列が細かく割れて年ごとに三本へ分かれた。
『唸りの数が零と書かれた晩はありません』
「では、こちらでは起きていないということですね」
『申せません』
列が一段下がった。
『札には数える前に止んだ晩を書く欄がありません。数え始められなければ、当番は何と書けばよいか決まっていません。書かれていないことと、無かったことは別です』
「三年ぶんは分からないままですね」
『分かりません。今夜から先だけが分かります』
「欄を足してください。今夜からです」
『足します。止んだ、と書く欄です。長さと刻もあわせて』
ミストの光が札の形をひと巡りして、幅の欄の右で止まった。
『ここです。離すと、書く者がその晩に思い出しません』
「幅より狭いですね」
『狭くしてあります。広い欄は、埋めるために埋められます』
---
ベルダは受付の紙を抱え直して、卓の端で足を止めた。
「あの人には出すのね」
「出します」
「次に来た人には」
「今日の紙に、次の人の欄を先に作ります。……情で決めた紙は二度目を断れません」
ミルディンは黙って聞いていた。それから両手を膝に置いた。
「では、いただけますでしょうか」
卓の上には拓本の写しと、綴じかけの一行と、三枚の書き取りが並んでいる。ガルムは戸の外で背中を見せたまま動かない。ドルクは框に座ったままだった。
「渡します」
男の肩が一度だけ下がった。
「ただし、渡すのは扱い方です。奥に何がいるかは渡しません」
「承知しております」
「承知していただくだけでは足りません」
レインは三枚の書き取りを揃えて、卓の中ほどへ寄せた。
「そして――渡す条件が四つあります」




