第153話 未完了と書いた者たち
十四行目の下には何も彫られていない。
レインは表の下端へ指を置いた。面はざらついていて指の腹に何も引っかからない。
「締めていない表には、続く場所が要ります」
『書式に続きの場所がありません』
ミストの光が枠の外まで広がった。
『左に一つ。真ん中に六つ。右に一つ。これで一頁です。頁を継ぐなら同じ枠が下へもう一つ立ちます。立っていません』
「では表の外です」
『何を探すかを先に決めてください。決めずに探すと、見つかったものが答えに見えます』
「昨日の彫りは表ではありませんでした」
『ありませんでした』
「同じように手の届く場所へ、あれ以外の彫りがあるかを見ます。読める読めないは後です」
ノアの灯は戸口の側から動かなかった。
『三つ申し上げます。夜の当番の手順を一つも変えないこと。触れた場所を先に紙へ書くこと。写した者と灯を持った者の名を分けて残すこと』
「同じ組で下りてもらいます」
『結構でございます』
翌朝の卓に拓が六枚並んだ。
当番は札を先に置いた。弁の幅の欄は昨夜と同じ数で、書き直した跡もない。
「昨日のを除いて六枚です。どれも手の届く高さでした。四枚は同じ四角です。一枚は磨り減っていて形が出ません」
「六枚目は」
「これです。座ると目の前になります」
「座る場所というのは」
「管から一歩外れたところです。私はいつもそこに座ります」
拓は掌より少し横に長かった。四角の並びではない。細い線が横へ続いている。
『線の深さが揃っていません』
ミストの光が拓の端から端まで渡った。
『表の彫りは上から下まで同じ深さです。これは終わりのほうが浅くなります。彫り直した跡もありません』
「道具が違いますか」
『違います。表を彫った道具ではありません。手に持っていたもので彫っています』
『字は九つです』
ルカの罫が拓の上へ細かく降りた。
『表に出てくる字は二つだけです。残る七つは表にありません』
『控えを当てます』
セレスの列が九つぶん立った。
『七つ当たります。当たらないのが二つです』
「当たらない二つは」
『一つは表の右端と同じ字です。締めの字です』
『もう一つは控えのどこにもありません』
ミストの光が並びの上をなぞった。
『締めの字が後ろから二つ目にあります。控えの語では、締めの字は言い切りの手前へ置きます』
「文だということですね」
『文です。数の並びではありません』
『訳します』
ルカの字が三度組み替わった。
『継ぐ者。育てる。この二つが頭にあります。締めの字はその後ろです。最後の一つが分かりません』
「締めの字が後ろにあると、どうなりますか」
『終えた、になります。終えていない形にするなら打ち消しの字が要ります』
『あります』
セレスの列が一本前へ出た。
『分からないと申し上げた最後の一つが打ち消しの位置に立っています。字そのものは控えにありません。置かれている場所だけが打ち消しの場所です』
「では読めますね」
『読めます。……訳が二つ立ちます』
ミストの光が二行に割れた。
『引き継ぐ者を育てることを、終えていない』
『引き継ぐ者が育つのを、待てなかった』
「前のほうにします」
ノアの灯が一度だけ揺れた。
『理由を伺えますか』
「後ろは書いた者の気持ちが入ります。あの表を書いた者は、最後の行まで気持ちを書いていません」
光が一行へ戻った。
引き継ぐ者を、育て終えられなかった。
『申し上げます』
ノアの灯が拓の縁へ寄った。
『読めたと決める前に、当たらなかった字が二つあったことを同じ紙へ書いてください。訳は一つに見えます。ですが当たらない字が二つある訳です』
「書きます」
『もう一つ。この一行を読んで、あの者たちが真面目だったと決めないでください。真面目かどうかは、九つの字では出ません』
『数のほうを申し上げます』
セレスの列が縦に二本並んだ。
『下の三行で、座った者の数も座った刻もどちらも増えています。ですが一人あたりの刻が減っていません』
「上の行では」
『上では減っています。足せば一人の座る長さが短くなっていました。下の三行だけ短くなりません』
「足した端から足りなくなった、ということですね」
『そう動きます』
レインは最後の行から目を上げた。
「投げ出したのではありません。間に合わなかったんです」
ドルクが上がってきたのは鐘のあとだった。
老人は六枚目の前へ来て、そこから長いこと動かなかった。
「座ると目の前だと言ったな」
「当番がそう書いています」
「立ってる奴に読ませた表とは違うわけだ」
ドルクは膝を折って拓の高さへ目を合わせた。それからまた黙った。湯呑みも持たずに黙る老人を、卓の誰も急かさなかった。
「……俺は間に合ってる側か」
「分かりません」
「分からんか」
「間に合ったかどうかは、あなたが座らなくなった年に誰かが数えます。数えるための紙が、いまのこちらにありません」
老人は膝へ手をついて立ち上がった。
「作れよ、その紙」
「引き継ぎ書の頭へ、この一行を書きます」
ノアの灯が紙の上で止まった。
『他所の言葉です。頭へ置けば、次の代はこれを灰霧の言葉として読みます』
「出どころを一緒に書きます。よそのものであること。拓を取った場所。訳した者の名。当たらなかった字が二つあること」
『四つでございますね』
「四つです」
『では認めます。四つのうち一つでも欠けた写しが出れば、その写しは無効といたします』
『置き方を申し上げます』
ミストの光が引き継ぎ書の紙へ落ちた。
『罫の外へ出してください。枠の中へ入れると手順の一つに見えます。手順に見えたものは順番どおりに飛ばされます』
「大きくしますか」
『しません。大きい字は一度で覚えられます。覚えた字は次から読まれません』
ルカの罫が下の頁まで伸びた。
『頭へ一行が入ると手順の番号が一つずつ動きます。動いた番号で書かれた古い札が残っています。頭の一行には番号を振りません』
「そうしてください」
夕方に育てている二人のうち若いほうが控えの間へ来た。半年を数え始めて四月になる者だ。
若者は頭の一行を指でなぞってから顔を上げた。
「これ、うちの言葉じゃないんですね」
「よそのです。ずいぶん古いものです」
「読んでいいんですか」
「読むために頭へ置きました」
若者はもう一度読んだ。
「前に、自分は何を聞いているんですかと訊きました」
「憶えています」
「答えはまだ書けていないんですね」
「名前は書けません。何のために座るのかは、これで書けます」
若者は紙を巻いて脇へ挟んだ。
「じゃあ今夜からは、こっちを先に読みます」
リナは窓口の紙束を抱えて上がってきた。引き継ぎ書の写しを見せると頭の一行だけを二度読んだ。
「これ、下のことは書いてないんですね」
「書いていません。書けなかったという話だけです」
「窓口にも一枚もらえますか」
『分けてください』
ノアの灯が横から差した。
『この一行は奥のことではありません。ですが置く場所は当番の紙です。窓口へ出す紙と混ぜますと、次の年に線が引けなくなります』
「分けます。……リナさん、いま何に使うつもりだったかだけ聞かせてください」
「新しく来た人に最初に渡す紙の一行目って、だいたい忘れられるんです」
リナは紙束を抱え直した。
「これは忘れないと思ったので」
「一行目を作る話は、こちらの紙でやります」
こちらから出す一行は、まだ坂を下りていなかった。
ノアが逐語で綴じ、写しへ読む者の名を書く欄を足している途中だった。その手が止まったのは日の傾いたころだ。
門から上がってきたのは荷を持たない男が一人だった。宿場の馬方ではない。名を名乗って封を置き、返事を待たずに坂を下りていったという。
ガルムは男を土塁の外までしか入れていない。
「顔を憶えた。次に来たら分かる」
ベルダは受付の紙を先に卓へ出した。
「名は聞いたわよ。所は言わなかったわ」
「理由の欄は」
「本人が書いていったわ。当主から預かった紙を届けに来た、って」
封の蝋には四角の中へ細い線が三本入っている。
中は一枚きりだった。
突き合わせた結果はまだ伺っておりません。急かすつもりはございません。
そちらが何かを出してくださるのであれば、こちらも同じだけ出すのが筋と存じます。ですが私の家の一行は、紙にして出すことができません。書けば写しが残ります。写しは私の家の外にも残ります。
ですので私が参ります。次の満ちの前に坂の下へ着きます。供は二人です。門で止めていただいて構いません。
ノアの灯が封のほうへ傾いた。
『口で言われたものは残りません』
「残す形はこちらで作ります。聞く者を三人にして、三人が別々に書きます。突き合わせて、合わない行から先に出します」
『それなら残ります』
紙には値も頼みも書いていない。着く日と人数だけだった。
帳面の空欄はもう埋まっている。埋めたのは名ではなく分類だ。
名乗るほうが、あとから坂を上ってくる。




