第152話 起こすと止まらないもの
拓本の写しと向こうの控えは卓へ出したままにしてある。
ルカの罫が五つ目の欄の上で止まった。
『十四行とも同じ形です。上から下まで一つも変わりません』
「数ではないのですね」
『数ではありません。棒の向きも束ね方も控えの作法から外れています。それに数なら動きます。十四年ぶん一度も動かない数を欄に立てる理由がありません』
ミストの光が表の端から端まで渡った。
『幅がいちばん狭い欄です。書式でいえば、いちばん短い字を入れる場所になります』
「短い字とは」
『毎行同じことを書く字です。台帳でいう科目の欄にあたります』
「毎行同じ科目を書き続ける表は、何の表ですか」
『据えたものの表です。人の表なら名が入れ替わります。獣の表なら数が動きます。十四年ぶん同じ科目だけを書き続ける形は、道具に付けます』
『そう読めるだけです』
ノアの灯が表の縁へ寄った。
『読めるだけのものを確かめずに置きますと、この先に載せる紙が残らず傾きます』
「確かめる手を探します」
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ドルクは昼前に上がってきた。表を覗き込んで、五つ目の欄のところで顎を引く。
「その形なら下にもあるぞ」
「どこですか」
「管の付け根だ。弁の座の脇に彫ってある」
老人は指で四角を作ってから、その中を横に一度切った。
「暗がりで手を伸ばして触るんだよ。触れば場所が分かる。俺は目印にしてた」
「同じ形ですか」
「同じかどうかは知らん。似てるってだけだ。字は読めねえと言ってるだろ」
『拓を取ります』
ルカの字が手順の紙の上を走った。
『触れる者を一人。写す者を同じ一人。灯を持つ者を一人。三人の名を先に書きます』
『前段の設備でございます』
ノアが横から灯った。
『覗き穴の話ではありません。手の届く場所です。ただし夜の当番の手を止めない順で入れてください』
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拓は翌朝に上がってきた。谷の刻を終えた若い当番が札と一緒に置いていったものだ。紙は掌ほどで、墨は薄い。
「昨夜の幅は三です。間合いも内側でした」
若者は札を先に出してから、もう一枚を卓の端へ寄せた。
「弁の座の脇です。手の届く高さでした」
「触ったのはあなたですね」
「私です。名は書いてあります」
『重ねます』
ルカの罫が二枚の縁を合わせた。掌の拓が表の五つ目の欄の上へ乗る。
『重なりました。……表のほうが一画多いです』
「多いのはどこですか」
『下の縁を一度切る形です。弁の座にはありません』
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セレスの列が細かく割れた。
『控えを当たりました』
『同じ一画が数の書き方の中にあります。引いて残った側へ付ける印です』
「残った側とは」
『引いた差のうち、その行で締めない分です。付いた数は次の行へ越します』
「越した数はどうなりますか」
『次の行の頭へ入ります。控えでは三度そう使っています』
レインは掌の拓を五つ目の欄の脇へ置いた。
「では、下の彫りが据えたものです。表の欄はそれに一画を足した形になります」
『足した形です』
「訳せますか」
『訳します。据えたもののうち、その行で戻し切れなかったもの、になります』
『縮めれば一語です』
ミストの光が欄の幅ぶんに絞れた。
『戻し切れなかったもの。この幅へ入るのは、そこまでです』
ノアの灯は近寄らなかった。
『名ではございません。分類です』
「分類として扱います」
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四つ目の欄が残っている。
『人の数ではありません。刻でもありません。締めへ足されません』
セレスの列が二本に伸びた。
『こちらの三年ぶんの札と比を合わせました。夜ごとの幅を一年で束ねた数と同じ動きをします』
「通した量ですね」
『通した量として動きます。名は当たりません。動き方だけが当たりました』
『未確認の束へ入れます』
「入れてください。……その隣に、戻った量の欄はありますか」
列が一度伸びて、そのまま止まった。
『ありません』
『書式に場所がありません』
ルカの罫が六つの欄を順に叩いた。
『欄そのものが立っていません。書き落としではありません』
『初めから設けていない形です』
ミストの光が表の外へ出た。
『私が同じ表を組むなら、通した量の隣へ戻った量を置きます。並べなければ足りているかどうかが分かりません』
「置かなかった理由は読めますか」
『見る気がなかったのではないと思います。見ても仕方がなかったのだと思います』
レインは十四行を上から下まで一度見た。
「奥にいるのは獣でも人でもありません。据えたものです」
ドルクが顔を上げた。
「据えたのか。あんなもんを」
「据えた者がいます。据えて、戻る量の欄を作らなかった者です」
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「セレスさん。こちらの三年で、通した量に対して戻る量は足りていますか」
『足りていません』
「足りない量は増えていますか」
『増えていません。減ってもいません。三年のあいだ毎晩ほぼ同じだけ足りません』
ドルクは湯呑みを置いた。
「壊れた樋は日によって漏れ方が変わる。同じだけ漏れるってのは、そういう作りだってことだ」
「壊れていないということですね」
「壊れてねえよ」
老人は表から目を離さなかった。
「壊れてりゃ直せる」
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「前に、通す手を止めた場合に街で何が起きるかを書きました」
『書きました。止めた晩から数えた紙です』
「あの紙の裏を伺います。止めれば奥は取る側へ回ります。取る早さと、この土地が戻す早さを並べられますか」
『並べました』
セレスの列が二本になって縦に並んだ。片方が先へ伸びて、もう片方は途中で足踏みをする。
『取る側が速いです。幅はありますが向きは一つです』
「速さが変わる置き方はありますか」
『ありません。人を増やしても土地が戻す早さは変わりません』
ドルクが低く言った。
「汲む早さが湧く早さを越えたら、池は空になるまで止まらねえ」
老人は湯呑みの縁を指の節で叩いた。
「釣瓶に悪気はねえよ。汲めと言われて汲んでるだけだ。止め方を教わってねえだけだ」
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「では、直せません」
卓の上で誰も相槌を打たなかった。
『直せません』
ルカの字が短く並んだ。
『止まる条件を書いた欄がありません。終いの見当を書いた欄もありません』
『一つ取り下げます』
ミストの光が表の上へ戻った。
『いつか本体を見たいと申し上げたことがあります。取り下げます。姿を見て埋まる欄が一つもありません』
「取り下げなくて結構です」
『残しますか』
「見たいと思った、と書いておいてください。書いておけば、次に同じことを思った人が下りる前に読めます」
『書きます』
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ベルダは帳面を抱えて上がってきた。空欄の頁を開いて、罫の上へ筆を置く。
「決まったの」
「名前ではありません。分類です」
「分類ってのは、何て書けばいいのよ」
「戻し切れなかったもの、と書きます」
「長いわね」
「短くすると名前になります」
ベルダは筆を持ったまま少し黙って、それから罫の外へ先に何か書いた。
「どこから持ってきた言葉かを先に書いとくわ。あとで揉めるのはたいていそこよ」
『三つ足してください』
ノアの灯が頁の上へ寄った。
『分類であること。拓を取った場所。写した者の名。この三つが揃わない書き入れは、こちらでは認めません』
「書きます」
ベルダが書き終えるまで誰も口を利かなかった。三年空いていた欄が一行で埋まった。
「これ、外には出さないのね」
「出しません」
『名。形。数。在り処。この四つは出しません』
ノアの灯が頁を離れた。
『類は名の代わりに読まれます。外へ出す一行は昨日綴じたものだけです』
「変えません」
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「一つ戻します」
レインは表の下のほうへ指を置いた。
「分からない束へ入れた行がありますね。締めが一つ多い行です」
『下から二つ目です。書き損じか拓本の欠けのどちらかへ入れました』
『当たり直しました』
ルカの罫が下から二つ目の右端で止まった。
『欠けではありません。数でもありません。今日の一画と同じ形です』
「締めへ付いていますか」
『付いています』
「では、その年を締めていないということですね」
『締めていません。次の行へ越しています』
「下から一つ目は」
『締めは合っています。一画は締めに付いていません』
罫が右へ動いて、行の末で止まった。
『行の末に付いています。……その先に彫りがありません』
「壁はそこで終わっていますね」
『終わっています』
ノアの灯が最後の行の上まで来て、そこで止まった。
『申し上げます』
『この者たちは、この表を締めていません』
灯は動かなかった。
『失敗と書いていません。……未完了と書いています』




