第151話 なだめ方は渡せるか
三方が坂を下りたのは翌朝だった。
卓は組み替えたままにしてある。長い辺に椅子が並んだ形のまま、ルカが九つの写しを中ほどへ広げ直した。番の順ではない。読む順に並べたのだという。
『抜くところがありません』
『端から当たりました。奥のことを書いた行が一つもありません。下りる刻。座る場所。灯の向き。唸りの数え方。書いてあるのは手の動きだけです』
「初めからそう書いていますね」
『書いています。抜くものが無い紙は、そのまま出せる紙です』
ミストの光が横から差した。
『いいえ』
『この九つは読み手を選んでいます。読む者が何のために座るかを知っている前提で組んであります。順を入れ替えても抜けている場所は動きません』
「抜けている場所とは」
『なぜそうするのか、が一行もありません。……私が飾りを足せる余地のない紙は初めてです』
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読み合わせを試すことにした。
ベルダは受付の帳面を抱えたまま眉を上げた。
「読ませるだけ。下ろすんじゃないのね」
「下ろしません。紙を読んで、問いに答えてもらうだけです」
「それなら誰でもいいじゃないの」
「奥のことを知らない人がいいんです。知っている者が読むと、書いていないことまで読めてしまいます」
ベルダは少しのあいだ天井を見てから、暮らしの窓口の書き役を寄越した。十六の娘だ。紙の扱いには慣れている。
『先に一つ申し上げます』
ノアの灯が戸口の側へ寄った。
『九つに奥のことは書かれておりません。読ませることは開示に当たりません。ただし読んだ者の名を書いてください。誰が読んだか分からない紙は、こちらでは出さないことにしております』
「書きます」
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問いは十作った。
五つは紙に書いてある晩の話だ。娘は五つとも答えた。下りる刻を訊けば半刻前と答え、座る場所を訊けば管から一歩外れると答える。読んだとおりに言えば済む。
『次の五つは紙にない晩です』
ルカの字が卓の上を回った。
『唸りを数えている途中で音が消えました。どうしますか』
娘は紙を上から下まで読み直した。
「……書いてないです」
『書いてありません。それでも今夜のことです』
「待ちます。もう一度鳴るまで」
『鳴りませんでした』
娘は黙った。
『次です。二度細くなって三度目に戻りません。手順どおりに開けても音が戻りません。どうしますか』
「開け直します。……いえ、逆かもしれないです」
娘は筆を置いた。
「すみません。これ、何をしているところなんですか」
ルカの字が止まった。
レインは答えなかった。
「答えられないんですね」
「答えられません」
「じゃあ、分からない晩はどうしたらいいんですか」
「あなたならどうしますか」
娘は少し考えてから顔を上げた。
「閉めます」
「理由を伺えますか」
「窓口でもそう教わりました。分からない荷は開けずに置いておく。触ると増えるからって。……分からないものは触らないほうが安全だと思います」
名を書いてもらってから礼を言った。娘は紙の端を揃えて置いていった。
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「その子が悪いんじゃねえぞ」
ドルクは壁のほうから聞いていた。
「怖くなったら誰でも締める。俺も水番の初めの年に締めた」
「どうなりましたか」
「三日で戻るはずの溜まりが十日戻らなかった。締めた俺が正しいと思ってる間、下じゃ水が行き場を探してたわけだ」
老人は指を二本立てた。
「外し方は二つしかねえ。細くするか締めるかだ。理屈を知らねえ奴は必ず締めるほうへ倒れる。そっちのほうが真面目に見えるからな」
ドルクは指を下ろした。
「向こうの当主は真面目な男だろうよ。文の字が崩れてねえ」
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『紙にない晩がどれだけ来るかを当たりました』
セレスの列が卓の中ほどへ立った。
『こちらの三年ぶんの札で、九つに書いていない形の晩は四十七回あります。月に一度と少しです』
「向こうでは」
『分かりません。脈の癖が違えば数も変わります。増える側にも減る側にも変わります』
「見込みは出せますか」
『出せません。出せば当たっているように見えます』
ルカの罫が突き合わせの紙まで伸びた。
『座る場所が違います。向こうは管の真下です。真下で数えれば返る音が混じります。混じった数を九つの四つ目へ入れれば、その先の五つも順に外れます』
「向こうの管が太ければ混じらないかもしれない、という話でしたね」
『でした。太さは分かりません』
「では、月に一度と少しは、向こうの当主が自分で決めることになります」
『なります。九つは決め方を書いていません』
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『渡せないのは中身ではありません』
ミストの光が九つの上をゆっくり渡った。
『判断の理由です。中身は初めから書いていませんし、書く気もありません。理由まで抜けた紙は、渡した先で外れたときに直せません』
「理由を一行だけ書くとすれば、どう書きますか」
『これです』
光が一行ぶん、字の形に絞れた。
奥のものは、起こすと止まらない類のものです。
『名は入っていません。形も数も、どこにあるかも入っていません』
『申し上げます』
ノアの灯が一行の上で止まった。
『開けない。閉じない。細く通す。一点だけ覗く。言葉は握る』
『五つ目でございます』
「変えません」
『変わりません。……変わりませんが、一つ申し上げます』
灯は動かなかった。
『握っている者だけが、何を出すか決められます。握っていない者は出すことも断ることもできません。この一行を出すか出さぬかをこちらが決められるのは、握っているからでございます』
「出さない、と決めることもできますね」
『できます。どちらでも綴じは傷みません。傷むのは、握っていない者が出した場合です』
「文言はノアさんが書いてください」
『書きます。逐語で綴じます。書き換えた写しが出た時点で、渡した紙はすべて無効といたします』
『出すのは類までです。名。形。数。在り処。この四つは出しません。四つのうち一つでも紙に載れば、そこで止めます』
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「向こうにも同じ形で書いてもらいます」
ルカの罫が止まった。
『同じ形とは』
「こちらが理由を一行出すなら、向こうも一行出します。向こうの下で分かっていて、こちらが知らないことを一行です。欄を双方の帳面に作ります」
ノアの灯が動かないまま返した。
『こちらが得をする話ではございません』
「得の話をしていません。一方だけが出す紙は、次の年に断れなくなります」
札を置きに戻ってきたベルダが、卓の端で足を止めた。
「昨夜の札よ。幅は三。書き直した跡はないわ」
「ありがとうございます」
「……あの子はどうだったの」
「答えられませんでした。こちらの紙が、答えられる形になっていませんでした」
「怒らなかったの」
「怒る筋がありません。読んで分からない紙を渡したのはこちらです」
ベルダは札の角を揃えた。
「貸しっぱなしの相手は、そのうち借りてることを忘れるのよ。……お互い出す形にするなら、そこは続くわ」
「量る形にもなります」
セレスの列が一段下がった。
『どのようにでしょうか』
「出した一行の数を双方が書きます。年に一度突き合わせて、片側だけが増えていたら止める。外から数えられます」
『それは量れます』
ルカの字が続いた。
『委員会の問いへの答えになっています』
「もう一つ足します。手順の後ろへ問いを付けてください。渡す前に向こうの座る者へ読んでもらって、答えられなかった問いを数えて書き残します」
『答えられなければ渡さないのですか』
「渡します。答えられなかった数だけ、こちらが返事を書きます。返事の要らない紙は、たぶん読まれていません」
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『一つ申し上げます』
セレスの列が一行の下へ出た。
『この一行を書いた時点で、こちらの帳面の空欄も埋まります』
「埋まりますか」
『名の欄に入るのは名だけとは限りません。類を書けば、それが名の代わりに読まれます。外へ出した一行は、外から見れば奥の名です』
レインは帳面を引き寄せて空いた頁を開いた。
欄は三年空いている。罫だけが引いてあって、日付も書き手の名も入っていない。
『書かれますか』
「書く言葉を、まだこちらが持っていません」
卓の隅には拓本の写しが伏せたままだった。名の当たらない欄が三つ残っている一枚だ。
『では当て直します』
ルカの罫が写しの上へ伸びた。
『三つのうち二つは数の欄です。数でない欄は一つだけです』
空欄へ入る言葉は、たぶんそこにある。こちらが選ぶ言葉ではなく、捨てた側がもう書き置いていった言葉として。




