第149話 向こうが起きた
紙は前の一通より厚かった。
馬方は門の内へ入れていない。ガルムが同じ場所で止めて、雇った宿場の名を控えへ書かせている。ベルダが坂を上ってきたのは灯を落としたあとだった。
「二度目だから早いわよ。順は前と同じでいいのね」
「同じで結構です」
開ける者と読む者の名を先に書いた。字が埋まってから封を切る。蝋の印は四角の中へ細い線が三本。前と変わらない形だ。
中は五枚あった。一枚目だけが文で、あとの四枚は控えだった。
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重ねてお便りを差し上げます。セリドの地を預かる者にございます。
先の一枚がお手元に届きましたかどうか、まだ存じません。行き違いでございましたらお許しください。
こちらの井戸と川は、濁りはじめてから三月を過ぎました。澄む気配がございません。汲む場所は三度変えました。三度目は村から一刻半かかります。
私の家では、下の世話を代々一人が担ってまいりました。前の一人は私の叔父にございます。三月前に亡くなりました。倒れてから二日でしたので、聞き取る間がございませんでした。
叔父の残した紙は十二枚ございます。下りる刻。座る場所。灯の置き方。唸りの数え方。そこまでは私にも読めます。
弁をどれだけ開けるかを書いた紙が、ございません。
二月のあいだ、私が下りております。私の耳で開けております。合っているかどうかは、私には分かりません。
突き合わせの結果を、いまもお待ちしております。それとは別に一つお願いがございます。どれだけ開けるかを書いた紙をお持ちでしたら、写しを一枚お分けいただけませんか。値は仰るとおりにいたします。土地の者には諮っておりません。私の一存でございます。
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字は最後まで崩れていなかった。
『書き直した跡がありません』
ミストの光が紙の上を端から端まで渡った。
『先の一枚は読ませる順に組んでありました。これは書いた順のままです。組み直す刻がなかったのだと読めます』
「丁寧さは同じですね」
『同じです。手だけが速くなっています』
『買値の行が入りました』
ノアの灯が文の下のほうへ寄った。
『先の一枚に無かった行でございます。値は仰るとおりに、と書いてあります。……これは値ではありません』
「値ではありませんか」
『こちらが言えば通る、と書いてあるだけです。書いた者は値を知りません』
ベルダが筆の尻で卓を軽く叩いた。
「バロスさんの言ったとおりじゃないの。一枚目で只をやる人は二枚目に頼みごとを書くって」
「一日で当たりましたね」
「あの人、そういうところだけは外さないのよ」
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控えの四枚はルカが夜のうちに並べた。
『四枚とも手順です。叔父にあたる方の紙の写しだと書いてございます』
罫が引かれて、灰霧の紙が横へ並んだ。
『こちらの九つと当たります。七つは同じことが書いてあります。二つが違います』
「どこですか」
『一つ。下りる刻です。こちらは谷の刻の半刻前。向こうは一刻前です』
『二つ。座る場所です。こちらは管から一歩外れます。向こうは管の真下です』
『残りの一つは、こちらにも向こうにもありません』
「十番目ですね」
『十番目です。向こうの十二枚にも無いと文に書いてございます』
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朝の卓でセレスが先に列を出した。
『濁りの始まりを当たり直しました。文にある月と、荷の値が動いた月が合います』
『値より十日早いです。濁ってから値が動くまでに十日かかったということです』
「三月というのは、こちらが噂を聞いた頃より前ですね」
『前です。噂が坂を上ってきたときには、向こうはもう二月目に入っています』
エルメアは薬箱を框へ置いたまま座らなかった。
「腹をやられる者は初めの十日で出ます。三月続いた土地で出るのは腹ではありません」
「何が出ますか」
「人が減ります。年寄りと乳飲み子から先に出ていきます。汲み場を三度変えた土地は、もう四度目を探しています」
「四度目はありますか」
「文には書いてありません。書ける状態なら書きます」
エルメアはそこで一度だけ声を落とした。
「一刻半の道を毎日往復して水を運ぶ暮らしは、半年もちません」
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ドルクは控えの二枚を腕の長さのぶん離して見た。字は読まない。ルカが読み上げた行だけを聞いている。
「真下に座ってんのか」
「そう書いてあります」
「真下は自分の息が返ってくる」
「こちらではそう教わりました」
老人は顎を引いた。
「向こうの管が太けりゃ返らねえかもしれん。細けりゃ何も聞こえねえ。……違うのか間違ってんのかは、こっちの耳じゃ言えねえよ」
「言えないと書きます」
『書きました』
ドルクは控えの端を指の節で押さえた。
「一人で座ってんだな」
「二月のあいだ、当主が一人でと書いてあります」
「比べる相手がいねえ晩は、外れても外れたと分からねえ」
老人は指を離さなかった。
「俺は三晩合わせた。合わせる相手がいたからだ。いなけりゃ三晩とも同じに聞こえて、それで終いだ」
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「他所の話だ」
ガルムは戸を開けたところで立ち止まったまま言った。
「うちの門は十二で回してる。夜番に穴を空けりゃ土塁の外が空く。出せる手はねえよ」
「出す話はまだしていません」
「これから出るだろうが。人の書いた紙が二枚も来て、上がってこねえわけがねえ」
リナは戸口の脇で手を膝の前へ揃えていた。声を出すまでに間があった。
「私がここへ来た年、水は濁ってました」
誰も遮らなかった。
「顔を洗える日が来るなんて、あのころは誰も思ってなかったです。……直した人は、ここの人じゃなかったです」
ガルムが一度だけレインのほうを見た。
「言いてえことは分かる」
「私、押しつける気はないんです。ただ、あのとき誰も来なかったら、と思って」
ベルダは筆を置いた。
「情でやると次が続かないわよ」
「はい」
「一度だけ助けた相手は二度目も来るの。二度目に断ると、初めから助けなかったときより恨まれるわ。……受付を十年やった人間の言うことよ」
「二度目の話は、一度目を決める前に書きます」
「そこは信用してるわ」
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バロスは昼前に上がってきて、頼みごとの行のところで指を止めた。
「言い値ときたか」
「そう書いてあります」
「いちばん高くつく買い方だ。買う側が値を知らねえと、あとで必ず高すぎたと言い出す。言い出すのは本人じゃねえ。土地の連中だ」
「値をつけるとしたら、どこの卓ですか」
「うちの卓じゃねえな。俺が値をつけていいのは、俺が仕入れられる物だけだ」
商人は椅子を鳴らして座り直した。
「言っとくが、只でやるのは反対だぞ。只でやったら、次に困った土地が来たとき、ここは情でやってくれる場所になる」
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『卓の話をなさるおつもりですね』
ノアが文の上から離れた。
『載せた時点で、渡す道があると外に読まれます』
「載せなければ、決めないことをこの卓が決めたことになります」
『……そうなります』
レインは帳面の手前の頁を開いた。決めていない、と書いた三行の頁だ。
「三行目を動かします。決めるのがこの卓かどうかは決まっていない、と書いた行です」
『昨日は動かないと申し上げた行でございます』
「向こうが起きました。動かない理由が先に無くなりました」
『どこへ動かしますか』
「三方の卓です。領と委員会と灰霧。奥のことは三つ目の内側にありますので、こちらの卓だけでは足りません」
『一行目は動きません。二行目は、昨日の一つから増えていません』
「動かしません。読ませるかどうかも、要るものがそろったかも、まだ書けません」
ルカの罫が日取りの列を組んだ。
『使いは領へ二日。委員会へは四日かかります。返しの日数を入れて、いちばん早い日で十日後です』
「十日後にしてください」
『卓へ載せる紙を三つ申し上げます。一つ、向こうの控えとこちらの九行の突き合わせ。二つ、行の場所。三つ』
字が止まった。
『三つ目は、こちらにも十番目が無いという一行です』
「いちばん上へ置いてください」
『不利でございます』
ノアの灯が動いた。
『こちらが書けていないと先に出せば、渡す渡さない以前の話にされます』
「されて結構です。持っていない物を渡す話をすると、卓が一度止まります。止まるのは十日後より後になります」
『……日取りだけ先に書いてください。議題は前の日に閉じます』
「閉じます」
ミストが招集の紙の枠を出した。
『三方へ同じ紙を出します。読む順も揃えます』
「見栄えは要りません」
『要りません。同じ日に同じところで詰まっていただく形にします。ばらばらの紙を配ると、卓に着くまでに三通りの話が出来上がります』
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返事の紙は昼のうちに出した。書いたのは一行だけだ。受け取りました、とだけ書いて、開けた者と読んだ者の名を添えた。
「結果は書かないの」
「書きません。書くかどうかを十日後に決めます」
「向こうは待つかしらね」
「待てないと思います」
その晩の札は日付が変わる前に上がってきた。弁の幅は三。書き直した跡はない。上の水は朝まで何も変わらなかった。
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ヴェッセンは翌朝に呼んだ。控えの間へ通して、紙は伏せたままにした。
「二枚目が届きました」
「さようでございますか」
「頼みごとが書いてありました。値は言い値で構わない、と」
男は湯呑みへ手を掛けなかった。膝の上で指を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
「……値がつかなかった理由が、いま分かりました」
「伺います」
「あの方は買おうとしておられたのではございません」
ヴェッセンは顔を上げた。
「三年のあいだ、私は値を運ぶだけの仕事をしておりました。上げたのは私ではございません。あの方は一度も値切られませんでした。買う気のある方は必ず値切ります。買値を上げるだけで、買った後の話を一度もなさらなかった」
「では何をしていたのですか」
「間に合わなかったときのためでございます」
男の声はそこだけ低くなった。
「土地の者へ、やれるだけのことはやったと申し上げるために、買えるものを全部買おうとしておられたのだと存じます。……値のつかないものにまで、値をお付けになりました」
レインは伏せた紙の上へ手を置いたまま動かさなかった。
男は帽子を取って戸口で一礼した。
「聞いた側の束へお入れください。裏づけはございません」
「入れます」
ヴェッセンが坂を下りていったあと、卓には返事の写しと十日後の日取りだけが残った。
向こうの谷の刻は、こちらの十日を待たない。




