第146話 どれだけが書けない
朝の卓に手順が並んだ。
ルカが番を振り直したので並びは昨夜と違っている。下りる刻。座る場所。灯の向き。唸りの数え方。九つまで行が埋まって、十番目の頭にだけ点が打ってあった。
『九つは清書できました』
『十番目に書き出しがありません。ここへ入るのは「どれだけ開けるか」です。前の九つはすべてこの一行の下ごしらえです』
「九割書けた、とは言えませんね」
『言えません。九つは支度で、十番目が仕事です』
ドルクは当番小屋から戻らないまま朝になっていた。壁へ背をつけた恰好で湯呑みを持っている。
「半息を、こちらで測ってよろしいですか」
「測れるもんなら測れ」
老人は湯呑みの縁を親指でこすった。
「俺は数で聞いてねえ。数にしたもんが俺の聞いてるやつと同じかどうかは、俺には言えん」
「同じでなくて構いません。同じ晩に同じ幅へ行き着くなら足ります」
「……そういう測り方か」
ドルクは湯呑みを卓へ置いた。まだ飲み終えていなかった。
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セレスは材料を先に並べた。
『札は昨日洗いました。今日洗うのは結晶の側の記録です』
『使えるのは中継結晶を据えた晩だけです。三年で四十三晩あります』
「毎晩の札では足りませんか」
『足りません。札に載るのは上がった刻と弁の幅です。その晩の脈がどれだけの間合いだったかは数で残っていません』
『残っているのは耳の中です』
「四十三晩ぶんは数で残っていますね」
『残っています。据えた晩は必ず当番が下りていますので、間合いと幅が一つの晩で揃います』
ルカが四十三の晩を間合いの順に並べ替えた。小さいほうから右へ流していく。
右の端に近い側で幅の字が変わった。三が続いていた列に二が混じり、途中から二だけになる。
セレスの光が字の変わり目で止まった。
『境目です』
『ドルク殿の手は、この間合いを越えた晩に一段狭くなります。越えない晩は三本目のままです。四十三のうち境目を挟んで外れているのは二晩だけです』
「外れた二晩は」
『一晩は風の強い日です。もう一晩は分かりません』
「分からないと書いてください」
『書きます』
ドルクは卓の端から数の列を見ていた。
「そいつが半息か」
「そう置ける、という話です」
「置いたところで俺の耳は変わらんぞ」
「変わらないほうが助かります」
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『では、その数を十番目へ書けばよろしい』
ノアの声が先に出た。光は動かなかった。
『境目が数で出たのなら耳を要しません。当番は間合いを測り、この数と比べ、越えていれば二本目にします。それで書けます』
「セレスさん。他の当番の晩も同じ形で出ますか」
『出ます』
列が四本増えた。
『同じ晩の脈を、それぞれがどれだけの間合いとして読むかの比です。ドルク殿が十と読む間合いを、二年目の男は十三と読みます。もう一人の当番は九。育成中の若者は七。もう一人の育成中の者は据えた晩に二度しか下りていませんので出せません』
「幅が広いですね」
『広いです。同じ数を配っても、七と読む者は三本目のままにして、十三と読む者は二本目へ落とします』
『どちらかが誤っているのでは』
『そうとは限りません』
セレスの列は動かなかった。
『七の者と十三の者は別の晩に座ってきました。どちらの晩も上の水は止まっていません。いずれかが誤りであれば、片側に外れが溜まります。溜まっていません』
『では基準にできません』
ノアの声が硬くなった。
『一つのことに五つの答えが出るものは物差しではありません』
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ベルダが入ってきたのはその言い合いの途中だった。台帳ではなく木の桝を三つ抱えている。
「受付の分を返しに寄っただけよ。……何の話」
「耳が人によって違うという話です」
「そんなの当たり前でしょ」
ベルダは桝を卓の隅へ並べた。三つとも同じ形に見える。
「これ、うちの量りよ。同じ職人が同じ日に削ったの。それでも一つは擦り切れて浅いし、一つは縁が反ってるわ」
「揃えないのですか」
「削り直したら、去年の帳面と今年の帳面が合わなくなるじゃないの」
ベルダは桝の底を指の背で叩いた。
「だから桝に名前を彫ってあるの。貸した相手と桝を組で書くのよ。取り替えると必ず苦情が来るから。量りが変わったって」
「違う量りを、違うまま使っているということですか」
「違うまま使ってるわ。違うと分かってるものは、違うまま使えるの。……厄介なのは同じだと思って使ってるやつよ」
ベルダは桝を置いたまま受付へ戻っていった。
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「ばらつきを消しません」
レインは十番目の空いた行の下へもう一本線を引いた。
「一つの数へ揃えると、七の者は自分の耳より先に数を見ます。数と耳が食い違った晩に、その者は手を止めます」
ノアが引かれた線の端へ光を落とした。
『止まるのは安全側です』
ドルクが低く息を吐いた。
「止まってる間に脈は戻る」
「戻ってから開けても遅い」
『では五つの数を基準へ載せますか』
「載せません。基準へ載せるのは数ではありません。座る前に自分の目盛りを測っておくこと。それと、他人の目盛りで開けないこと。この二つです」
『数はどこへ置かれますか』
「札です」
『札は基準ではありません』
「基準ではありません。ですから基準は形だけを当てます。中身は札が持ちます」
ノアの光が一度だけ強くなった。
『……条件を三つ申し上げます。一つ、目盛りには測った日を入れること。二つ、半年を越えた目盛りは当たらないものとすること。三つ、測ったのが誰かを書くこと』
「二つ目の理由を伺います」
『耳は変わるからです。落ちる側にも育つ側にも変わります。変わったものを古い数で押さえれば、押さえたほうが外れます』
ドルクは三つ目のところで顔を上げた。
「測るのは誰がやる」
「こちらでやります」
「じゃあ半年ごとに、俺の目盛りは作り直しか」
「作り直します」
老人はそれ以上何も言わなかった。手順の紙を自分のほうへ向けて、十番目の空いた行を指で押さえただけだった。
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その晩は結晶を据えた。
機構のある区画で三人が離れて座った。ドルクは管から一歩外れた場所。二年目の男はその向かい。育成中の若者は入口寄りの柱の陰だ。互いの手元は見えない。
紙は先に配ってある。今夜は何本目か、と一行だけ書く紙だ。
唸りが二度細くなって、三度目に戻らなかった。
レインは上の当番小屋で待った。上がってきた紙は三枚とも折ってあった。
開くと、三と三と二が出た。
セレスの数が卓へ出た。
『今夜の間合いは境目の際です』
『ドルク殿の目盛りでは越えていません。二年目の男の目盛りでは越えています。若者の目盛りでも越えていません』
「三人とも自分の目盛りどおりですね」
『どおりです』
「今夜は誰が正しいのですか」
『問いが立ちません』
ルカが横から入った。
『下りたのは三人ですが当番は一人です。当番の目盛りで開けます。残りの二人は測りに行っただけです』
弁を回したのは若者だった。三本目で通した。上の水は朝まで何も起きていない。
二年目の男は自分の紙を見返してから顔を上げた。
「私は二と書きました」
「書いてください」
「間違いとしてですか」
「目盛りとしてです。あなたの十三は今夜も十三でした。ずれていません」
男は紙を束のいちばん下へ入れた。
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翌朝ルカが要りようを出した。
『一人ぶんの目盛りを初めて取るには結晶を据えた晩が十二晩要ります。境目がどこにあるか分からないまま広く当たるからです。五人で六十晩です』
『三年で四十三晩ですから、いまの据え方では年に十四晩ほどしか取れません。取り終えるのに四年かかります』
『閉じません』
字が一度上へ戻った。
『半年を越えた目盛りは当たらないという条件を足しました。四年かけて取れば、初めに取った目盛りは取り終える前に外れます』
「二度目も十二晩要りますか」
『要りません。二度目は前の目盛りの前後だけを当たれば足ります。一人につき三晩です。五人で十五晩。半年ごとですから年に三十晩です』
「初めの六十晩と、毎年の三十晩ですね」
『そうです。据える晩を月に三晩まで増やせば、初めのぶんは二年で取り終えます。以後は年に三十晩が残り続けます』
「持ち出しは」
『据えた晩は通常の二倍です。年に十四晩を三十六晩へ増やせば、中枢の列はその分だけ太ります』
「太った分は台帳に出ます」
『出ます。測り直しの条件がありますので、これは一度で終わる費えではありません』
「終わらない列が、もう一本増えるということですね」
『増えます』
レインは数を見ていた。
「増やします。列の名は目盛りにしてください」
『名を先に決められますか』
「名のない費えは次の年に削られます」
『書きました』
ルカの字がそこで止まった。
『一つ申し上げます。この手順は灰霧の外へは渡せません』
「外の話をしていましたか」
『しています。決めていない、と書かれた頁がございます。三行あります。あれが空いている限り、外へ出す形になるかどうかは勘定に入ります』
字が十番目の行の下へ回った。
『九つまでは紙で渡せます。下りる刻も座る場所も灯の向きも、読めば同じことができます。十番目だけが紙になりません』
『十番目は札に紐づいています。札は人に紐づいています。この手順を誰かへ渡すのなら、渡すのは紙ではなく人です』
「人は渡しません」
『では渡せません』
卓が静かになった。
ベルダの桝はまだ隅に並んでいた。ドルクは一つ引き寄せて底を返し、彫ってある字を親指でなぞった。
「桝なら送れるんだがな」
老人は桝を元へ戻した。
「耳は箱に入らねえ」
坂の下の宿には、雇われていない男がまだ泊まっている。ベルダの受付には来訪の理由の欄が空のままの紙が一枚、挟まったままになっていた。




