第144話 一人しか読めない
棚は夜のうちに分けた。
拓本は写しではなく原本として扱うと決めたので、卓へ出すのは合わせた一枚だけになる。ルカが開ける者と戻す者の名を先に書かせる形を組んで、それで済ませた。
朝の卓で最初に出たのは照合の結果だった。
『当たりました』
ルカの字が卓の上へ流れた。
『こちらの綴じは端から当てました。刻みの形と重なるものは一つもありません』
「委員会から来た紙は」
『当たりました。ありません。王都の様式は縦に伸びます。これは横に伸びます』
セレスが短い列を並べた。
『二枚目がない、ということです』
『照合には二枚が要ります。一枚しかない字は、読めないのではありません。字かどうかも確かめられません』
「昨日は表の形をしていると仰いました」
『形は言えます。中身は言えません。骨だけ見えていて肉が一つも付いていない状態です』
ベルダは朝からずっと同じ椅子にいた。筆を置いて紙の端を指で弾く。
「あんたたち、さっきから同じところを回ってるわよ」
「回っています」
「読めない字を読もうとするから回るの。探すのは字じゃなくて人でしょ」
「人を探すと、その人に見せることになります」
「そうよ。だから回ってるんじゃないの」
ベルダは筆を取り直して自分の頁へ戻った。
『人の当たりなら一つ申し上げられます』
紙の縁でミストが動いた。
『あれは道の終わりの正面に彫ってありました。読ませたい相手は、あの一本道を歩いてくる用のある者です』
「用のある者とは」
『あれを回していた者です。通りすがりに読ませたいのなら、もっと手前へ置きます』
セレスの列が伸びた。
『書式からも同じ側へ寄ります』
『帳面の並べ方は、使う者どうしでしか揃いません。バロス殿の荷帳とベルダ殿の台帳は同じ荷を書いていても欄の順が違います。あれを読めるのは同じ順で書いてきた者だけです』
「同じものを世話してきた家、ということになりますね」
『言い換えればそうなります』
卓が静かになった。ミルディン。セリドの土地を代々預かってきた家だ。灰霧の紙に載っているそういう家は、その一つしかない。
午後にガルムとバロスが上がってきた。
ベルダが控えを読み上げるあいだ、ガルムは椅子を使わずに立っていた。読み終わってから顎を掻いた。
「読めるのは向こうだけか」
「可能性です」
「委員会へ出た調査の枠の紙を覚えてるか」
「覚えています」
「こっちの頭を越して出た紙だ。門で止めたのは俺だぞ。……あれを出させた懐と、昨日の名が同じ懐かどうかは分からねえ。分からねえが、俺は忘れてねえ」
「忘れないままで結構です」
バロスは椅子を鳴らして座り直した。
「銭で片付くなら俺が動くぞ」
「読める学者を買えますか」
『買えません』
答えたのはルカだった。
『こちらの紙に読み手はいません。外に読み手がいるかどうかも、こちらの紙では分かりません』
「じゃあ向こうの家から人を借りる手だ。読ませて、そのあと口を縛る。縛りの値は張るが払えねえ額じゃねえ」
「縛れますか」
「……縛れねえな」
バロスは自分で頭を振った。
「銭で読ませると、読んだ中身も銭の側に付く。次にもっと高く積む奴が来た日に、そっちへ歩くだけだ」
『銭の前に一つ申し上げます』
ノアが卓の中ほどへ出てきた。
『言葉は握る、と綴じました。あれは灰霧が四百人の眠りと引き換えに守ってきた線です。線には越えたか越えていないかしかありません。細く越える、はございません』
「越えるとは言っていません」
『まだ言っておられないだけです』
光は動かなかった。
『順を申し上げます。読ませるには拓本を出します。拓本を出せば、どこで取ったかを訊かれます。どこで取ったかを答えれば、あの道の終わりに何があるかを答えたのと同じです』
「答えません」
『では向こうは読みません。読む理由が分かりませんので』
ミストは一度黙ってから続けた。
『それでは永遠に読めません』
『そうなります』
『……私は読める形を作る側です。読めないままで結構です、とは申し上げられません』
ルカの字が下から上へ戻った。
『頭の欄も空いたままになります。当番の手順の一行目です。九割は組めています。あそこが埋まらない限り、半年後に座る者は順番だけを守ります』
「順番の外が起きた晩に止まる、でしたね」
『止まります』
『止まるのと、線を越えるのとでは量りが違います』
ノアの灯は一度も緩まなかった。
レインは帳面を開いた。空欄のある頁ではなく、その手前の頁だ。
「決めていない、と書きます」
『決めていない、は記述ですか』
「記述です。今日この卓で決まらなかったことを書かずにおくと、次に開く者は誰かがもう決めたと読みます」
『では何行になさいますか』
「三行です。読ませるかどうかを決めていない。決めるのに何が要るかも決まっていない。決めるのがこの卓かどうかも決まっていない」
『三つとも空です』
「三つとも書きます。空いている欄と、空けたと書いた欄は違います」
ノアの光がわずかに落ちた。
『……記述としては通ります。基準の頁には載せません』
「載せません。こちらの帳面に置きます」
「日付を入れなさい」
ベルダが横から筆を伸ばした。
「埋まった日じゃないわよ。空けた日のほう。空いた日が分かってれば、どれだけ空いてるかは誰でも数えられるでしょ」
「入れます」
「あたしの受付だと、三月動かない申し込みは片付いたことにするの。……そっちのは片付かないけどね」
ベルダは筆を自分の台帳へ戻した。
「一つ聞いていいか」
ガルムはまだ立ったままだった。
「読めたとして、それで下の水が変わるのか」
「変わりません」
「弁の開けかたは」
「変わりません。今夜も指の幅です」
「じゃあ急ぐ話じゃねえな」
「急ぐ話ではありません。急がない理由のほうを書きます」
ガルムは鼻から息を抜いて出ていった。バロスもそのあとに続いた。
卓に残った紙を見ながら、レインはしばらく指を動かさなかった。
「セレスさん。こちらの耳は何人ですか」
『三名です。育成中を含めて五名』
「一人ではやらない、と決めた数ですね」
『そう決めた数です。一人に置くと、その一人が休んだ晩に欄が空きます』
「あの字を読める者は、世に一家しかありません」
セレスは列を出さなかった。
『一人しか読めないものは、その一人が消えた日に読めなくなります』
『それは灰霧の言い分です』
ノアが低く差し込んだ。
『向こうがそう思っているかどうかは、こちらの紙には書いてありません』
「書いてありません」
レインは三行の下へもう一行足した。向こうがどう抱えているかを、こちらは何も知らない。
その晩は下りなかった。
谷の刻に縁まで下りたのはドルクと育成中の若者、それに道を見る手の者が一人だ。レインは上の当番小屋で札を待った。
刻限は日ごとに前後する。半刻の遅れは珍しくもない。ただし上がってくる順はいつも決まっていて、先に札が上がり、人はそのあとに上がる。
その晩は札が先に上がってこなかった。
半刻が過ぎて、足音は二つ一緒に上がってきた。
ドルクは椅子には座らずに戸口の柱へ手を掛けた。若者が札を差し出した。
弁の幅の欄に書き直した跡がある。一度書いた字を潰して、その横へ書き直してある。潰した下の字は読めた。二と書いてあり、横の字が三だ。
「三本目です」
若者は訊かれる前に言った。訊かれる前に言うのは、この若者の癖ではない。
「二本目に手が伸びましたので、三本目です、と申し上げました」
「回す前ですか」
「前です。指が触る手前で止まりました」
レインはドルクを見た。老人は柱へ手を掛けたまま灯のほうを向いていない。
「聞こえは、いつもと同じでしたか」
「同じだ」
ドルクは短く答えた。
「同じに聞こえた。同じに聞こえて、手が二本目へ行った」
若者は札の端を持ったまま黙っていた。老人はその札を取らなかった。
「もう一遍下りる」
「今夜はもう上がりました」
「今夜じゃねえ。明日だ」
ドルクは柱から手を離した。
「明日も明後日も、同じ刻に同じ管へ耳を当てる。……それで違って聞こえたら、違ったのは川じゃねえ」




