第143話 読めない字
三晩目の札で印が一つ外れた。
方角の欄に丸を付けたのは別の当番だった。育成中の若者ではない。二年目の男が、元と先の二つのうち先のほうへ丸を付けてきている。
『二晩目です』
ルカが読み上げた。
『別の者が別の晩に同じ側を書きました。印を外す条件を満たしています』
「外してください」
『外します。残りは二つです』
レインは目的の欄の下の一行から未確認の印を消した。音の出る側がある。字はそのままで、頭に付けていた小さな丸だけが消えた。
『記述の格が一つ上がっただけです』
ノアの光が硬く差した。
『二人が同じ側を書いたことは、そちら側に何かがある証跡にはなりません。二人とも同じ場所に座って同じ管へ耳を当てています。座り方が同じなら聞こえ方も揃います』
「同じ座り方をした二人が同じ側を聞いた、と書いておきます」
『それなら結構です』
ベルダは台帳の余白へ同じ字を写してから筆を止めた。
「先って、どっちなの」
「水が出ていく側です」
「奥ね」
「そう言い換えると決めつけになります」
「決めつけなくても、あんたは今夜下りるんでしょ」
「今夜下ります」
ベルダは筆の尻で余白を一度叩いてから、次の頁をめくった。
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ガルムは道の話しかしなかった。
「締めは二つとも生きてる。一本道も先の月に打ち直したばかりだ。……人数は」
「四人です。谷のあいだだけ下ります」
「一人は上に残せ。締めの手前でいい」
「残します」
ガルムは壁に立てかけてあった手鉤を取り上げて肩へ担いだ。
「あんたが縁まで下りるのは久しぶりだな」
「読み手の当番が育ってからは行っていません」
「行かねえほうがいい場所だ。……行くなら、手ぶらで行け。両手が塞がってると、鳴った時に紙のほうを守る」
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谷の刻の縁は静かだった。
機構のある区画では若い当番が管へ耳を寄せている。そこから締めを二つくぐって細くなった道を進むと、音の質が変わる。管の唸りが遠のいて、代わりに壁そのものが低く鳴りはじめる。
ドルクは先に立って歩き、縁の三歩手前で足を止めた。中継結晶は当番の男が据えた。壁には触れない。緩衝の裾が切れて奥の脈が直に届く一点へ、結晶を置くだけだ。
『読みを通します』
セレスの声が細く届いた。
『持ち出しは通常の二倍です。半刻で切ります』
「切ってください」
当番の男は札へ数を書き入れていく。ドルクは管の走りを目で追っている。二人とも顔は下と横を向いていた。
レインだけが手ぶらだった。
だから壁の面を見た。
弁が指の幅ほど開いて、脈が半息ぶん鈍る。壁から吹き出していた細かい粉が舞うのをやめて、面へ落ちていく。落ちた粉は平らな場所を滑って低いところへ溜まった。
低いところが、線になっていた。
「ドルクさん」
老人は顔を上げなかった。
「今どこ見てる」
「壁です」
「……そいつは俺が三日かけて選んだ壁だ。何もねえ」
「粉が溜まっています」
ドルクが振り返った。灯を寄せる前に、老人は目を細めて壁を見た。それから短く息を吐いた。
「溝だな」
「はい」
「谷でしか出ねえ。……昔はここも谷で面が鳴ってた。緩衝を挟む前だ。鳴ってりゃ粉は溜まらねえ」
線は横に並んでいた。短い刻みが幾つか続き、少し空いて、また続く。空き方に癖がある。同じ長さの空きが繰り返し出てくる。
当番の男が札から顔を上げた。
「……字ですか、それ」
「分かりません」
レインは一歩も前へ出なかった。縁の線は足元に引いてある。線の内側から見えるものだけを見た。
鈴が鳴った。
「引きます」
当番が結晶を回収して、締めの手前で待っていた一人と合わせ、四人で来た道を戻った。誰も何も話さなかった。
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上へ戻ってからレインが最初にしたのは、見たものを書くことだった。
横に並ぶ刻み。空きの繰り返し。谷のあいだだけ見えて、脈が戻ると消える。読めるかどうかは分からない。
『写せますか』
ミストが訊いてきた。
『目で覚えて写すのでは、写した者の手が入ります。私に言わせれば、それは記録ではなく感想です』
「紙を当てて取ります」
言ってから、レインは自分で止まった。
壁に触ることになる。
『綴じてある五つを読み上げます』
ノアが灯を強めた。
『開けない。閉じない。細く通す。一点だけ覗く。言葉は握る。……壁へ触れるなという行はありません。触れることは開けることではありません』
「基準の外だということですね」
『基準の外です。ですから、基準ではなく現場が決める事柄です』
ドルクはまだ上の当番小屋にいた。縁から上がったなりの外套を着たまま、札の束を若い当番へ渡している。
「紙を当てるのは、耳を当てるのと同じですか」
老人は札を渡し終えてから、しばらく梁を見上げていた。
「耳は乗せるだけだ。紙は乗せるだけじゃ写らねえ」
「押すことになります」
「そこだ」
老人は指を三本立てた。
「水は使うな。濡らしゃ壁が吸う。吸ったもんがどこへ行くかは誰も知らねえ」
指が一本折れた。
「こする向きは一つだ。行って戻ってを繰り返すと、細けえ粉が溝から出ちまう。出たら次に来た時にもう見えねえ」
もう一本折れた。
「剥がす時に爪を立てるな。端から起こせ」
「鈴が鳴ったら」
「途中でも剥がして引け。半分の紙を持って帰れ。……壁は逃げねえ」
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次の晩に取った。
一枚目は失敗した。紙が乾きすぎていて、乗せた端から浮いた。二枚目は当番の男が両端を指の腹で押さえ、レインが乾いた墨で一方向へ撫でた。撫でる音は脈より小さかった。
鈴が鳴るまでに紙は三枚取れた。三枚は少しずつ重なっている。
『継ぎ目で合わせます』
朝の卓でルカが手順を組んだ。
『三枚を重なりで合わせて一枚にします。合わせる時に見るのは字ではなく、空きの繰り返しです。字を見て合わせると、似た字を同じ字と思い込みます』
「手順にしておいてください。次に取る者が同じ順で合わせられるように」
『組みました。七つです。取る前に二つ。取る間に三つ。取ったあとに二つ』
『持ち出しの記録を』
そこへノアが入ってきた。
『拓本は写しではありません。原本です。棚を分けてください。読める者を増やす前に、置き場所を決める順です』
「分けます。今夜のうちに決めます」
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合わさった一枚は思ったより横に長かった。
『配置を申し上げます』
ミストの光が紙の上を端から端まで走った。
『高さは立った者の目の高さです。低くも高くもありません。しゃがむ必要も背伸びする必要もない位置に彫ってあります』
「壁の中ほどということですか」
『中ほどではありません。道の終わりの正面です。あの一本道を歩いてきた者が、足を止めたときに真正面へ来ます』
ミストの光が一度絞れた。
『飾りではありませんね。意匠がありません。縁取りも角の処理もない。私が同じものを作るなら、これは掲示です。読ませたい者がいて、読ませたい場所へ置いた形です』
「読ませたい相手は誰ですか」
『そこまでは申し上げられません。……ただ、ここを通る者に読ませようとしたことだけは、置き方が言っています』
ベルダが紙の端を持ち上げて灯へ寄せた。
「読めるの、これ」
「読めません」
「あたしにも読めないわよ。字に見えないもの」
「字に見えないものを字だと思って持ち帰りました。そこは書いておきます」
『そうとも限りません』
セレスが割って入った。
『三枚を合わせてから並びを数えました。刻みの束が横に八つあります。八つのうち六つは短くて長さが揃っています。残りの二つは長い。長い束は左の端と右の端です』
「揃っているのは何を意味しますか」
『意味は分かりません。形だけ申し上げます。左に長い束。真ん中に短い束が並ぶ。右にもう一つ長い束。この並びが上から下へ十四回繰り返されています』
ベルダの手が止まった。
「……それ、うちの台帳と同じよ」
『同じです』
セレスの光がわずかに揺れた。
『左が名前の欄。真ん中が数の欄。右が締めの欄。項目が並んで数が入って、端で締める。……これは表の形をしています』
「読める者は」
『この卓にはいません』
誰にも読めない字が、灰霧の帳面と同じ幅で並んでいた。




