第142話 遠い懐の名
朝いちばんに卓へ載ったのはほとんど白紙の束だった。
セリドという名について灰霧の紙に残っているものをあるだけ集めた束である。集め終わるまでに半刻もかからなかった。
『買取の台帳に記載なし。外販の綴じに記載なし。初回講習の受講記録にも査察の写しにもありません』
セレスの列は三行で終わった。
『残っているのはこれだけです。宿の名寄せの一行です』
「無い、を並べてください」
『無いものを数えるのですか』
「どの帳面のどの欄に無いのかを並べます」
レインは白紙の束へ指を置いた。
「無い場所が分かっていれば、後で誰かが何かを言ってきたときに、どこと突き合わせるかを迷わずに済みます」
『欄を組みます』
ルカの字が速く流れた。
『灰霧の紙を十二に割ります。有るか無いかだけを書く形です。中身は書きません。書ける中身がありませんので』
『……絵になりませんね』
ミストの光が卓の端で薄く伸びた。
『無いものを十二並べたところでそこには何も掛かっていません。私の領分で申し上げるなら、白い紙を額へ入れて壁へ掛けるようなものです。人は額のほうを見て中に何かあると思い込みます』
「額を作ってください」
『……額を、ですか』
「思い込むのは外の人ではありません。半年後にこの束を開く当番です。中身のない欄が十二ある、と一目で分かる形にします」
ミストの光は珍しく素直に細くなった。
『では枠だけ意匠を揃えます。空の欄ほど堂々と枠を引くのが作法でして』
『持ち出しは記録してください』
ノアが硬く灯った。
『無いことの一覧は、こちらが何を探しているかの一覧です。外へ出れば、灰霧が南東の一点だけを見ていると読まれます』
「この部屋から出しません」
ベルダは筆の穂先を布で拭ってから空の欄を数えた。
「十二のうち十一が空ね」
「はい」
「あたしの台帳だったら、こんな頁は破って捨てるわよ」
「破らずに置いておきます」
「置いといて何になるの」
「今日埋まるかもしれません」
ベルダは鼻で笑って筆を置いた。笑ったが破りはしなかった。
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鐘の前に門から報せが来た。
坂を一人上ってきている、という。ガルムは手の者を出さずに自分で下りていった。戻りは思ったより早かった。
「例の使いだ」
「ヴェッセンさんですか」
「荷がねえ。連れもいねえ」
ガルムは腰の手拭いで手を拭いた。
「前は委員会の枠を通して来た。今日は何も通してねえ。門で名乗った。使いじゃねえとも言った」
「どんな様子でしたか」
「待ってた。……こっちが下りるまで動かずに待ってやがった」
「上げてください」
レインは控えの紙を新しく一枚出した。
「卓は使いません。控えの間で結構です。ベルダさんに控えを取ってもらいます。ガルムさんも残ってください」
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外套は前と同じものだった。乗っている埃だけが違う。宿場を継いで来た者の埃ではなく、道の外を歩いてきた者の埃だった。
「本日は使いではございません」
男は勧められる前にそう言った。
「伺っています」
「では、座ってもよろしゅうございますか」
レインは椅子を指した。ベルダが茶を出した。ヴェッセンは湯呑みへ手を伸ばさなかった。
「先に申し上げておきます。私はもう、私ども、と申せません。今日この場で申し上げることの後ろには、紋も、判も、責めを負う者もございません」
「では何をしにいらしたのですか」
「済んでいない勘定を片付けに参りました」
男は膝の上で手を組んだ。
「私は値をつける仕事をしておりました」
「品にですか」
「品にではございません。買いたいお方と売りたくないお方の間に立っていくらなら手が動くかを申し上げる仕事です。値がつけば、たいていの話はそこで終わります」
「終わらなかったのですね」
「あの一件だけ、値がつきませんでした」
湯呑みから湯気が細く上がっていた。
「高すぎたということですか」
「上がる一方でございました。……ただ、値が上がるほどふつうは買った後の話が細かくなるものです。どこへ運ぶか。誰に見せるか。いつまでに何を済ませるか。買値を吊り上げるお方ほど、買った後を細かく仰います」
「あの方は」
「一度も仰いませんでした」
ヴェッセンは初めて顔を上げた。
「三年でございます。三年のあいだ買値だけが上がって、買った後の話が一度も出ませんでした。私はそれを、値のつけようがない、と申し上げるほかありませんでした」
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「名をお出しします」
男は湯呑みへ手を掛けた。掛けただけで持ち上げなかった。
「ミルディン。……セリドの土地を代々お預かりの家でございます」
ベルダの筆が紙の上で止まった。止まったのは半息ほどですぐに続きが走った。
レインは何も言わなかった。昨日その土地の名を帳面へ書き入れたことも、書き入れた頁が壁一枚隔てた棚にあることも、口には出さなかった。
「ご存じの名でしたか」
「伺っておきます」
「……そう仰る時はたいてい既にご存じでございますな」
「どちらでも同じです」
レインは控えの紙へ目を落とした。
「あなたの言うことは、こちらの記録と突き合わせてから使います。突き合わせが済むまでは、聞いた、としか書きません」
「疑っておいでですか」
「疑うほど何も持っていません。持っていないものは信じることもできません」
男はしばらく黙っていた。それから小さく息を吐いた。
「値をつける者としてはいちばん困る御返答でございます」
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「一つ伺います」
レインは筆を置いた。
「あなたは何をお求めですか」
「答え合わせを」
「銭ではなく」
「銭は要りません。要らないと申し上げられる程度には残っております」
ヴェッセンは外套の裾を膝の上で直した。
「三年かけて値のつかなかったものがこの世に一つございます。私はそれが気持ちの悪いまま坂を下りました。……降りた者が持って帰れるのは、済んでいない勘定だけでして」
「なぜこちらへ」
「値のつかなかったものの片側が、この坂の下にございましたので」
「もう片側は」
「南東でございます」
男は初めて湯呑みを持ち上げた。ひと口だけ飲んで戻した。
「私は両方の側に立っておりました。こちらは売る気がなく、あちらは買った後の話をなさらない。……間に立った者にだけ、両方の妙な形が見えます」
「こちらはあなたを雇いません」
「存じております」
「今日この部屋で伺ったことは控えに残します。あなたが後でこれを別の卓で違う形に話しても、こちらの控えは変わりません」
「結構でございます」
男は立ち上がった。ガルムが壁から背を離した。
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戸口の手前でヴェッセンの足が止まった。
「最後に一つだけ、申し上げそこねたことがございます」
振り返った顔に以前の卓で見せた笑みはなかった。
「あの方が欲しがっておられたのは、たぶん奥のものではございません」
レインは椅子から立たなかった。
「では何ですか」
「奥のものの、扱い方でございます」
男は答えを待たずに戸を開けた。
ガルムが門まで送っていった。討たず押さず、前と同じ距離で。
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残された控えの紙には三つの言葉が並んでいた。ミルディン。セリド。扱い方。
『ミルディンという名を十二の欄へ当てました』
十二の欄の名が卓の上に並んだ。
『買取。外販。初回講習。査察の写し。荷。宿の名寄せ。口入れ。商人の登録。工房。市の場所代。帰還の報告。苦情の控え。……十二とも無しです』
『セリドは宿の名寄せに一件のみ。昨日から動いていません』
「では、この名は突き合わせられません」
ノアの光が硬くなった。
『こちらから出たものはありません。それは記録しました。ですが裏づけのない一行が帳面に入ると、次に読む者はそれを事実と読みます』
「未確認の印を付けてください」
『既に付いております。……印は増え続けています。音の出る側がある、が一つ。今日の名で三つ』
「増えたぶんは同じ束へ入れてください。突き合わせる相手が現れた日にまとめて当たります」
ベルダが空の欄の頁をめくって見せた。無しと書かれた欄の隣に、細い付け足しの欄が三つできている。
「破らなくてよかったわね」
「はい」
「言っとくけど、埋まったのは中身じゃないわよ。誰かが言った、ってだけの欄よ」
「そこも書いておいてください」
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ガルムは思ったより長く戻ってこなかった。
戻ってきた時には日が傾きかけていた。土塁の外まで見送ってそこからしばらく坂の下を見ていたという。
「乗り物も待ってなかった」
ガルムは戸口の枠に手を掛けたまま言った。
「迎えも連れもなしだ。あの手合いが供もなしで坂を上ってくるってのは、後ろに誰もいねえってことだ」
「降りたと言っていました」
「本当に降りてるな。……厄介なのはそこだ」
ガルムは顎を掻いた。
「使いが降りたなら、次に上がってくるのは使いじゃねえ」




