第141話 起きているという報せ
ドルクの小屋には灯が点いていた。
戸へ手をかける前に中から声が出た。
「開いてる」
土間の卓に湯呑みが一つ出ている。老人は寝床にいなかった。
「起こしたかと思いました」
「この刻限に起きてねえ晩のほうが少ねえよ」
レインは走り書きの面を上にして札を置いた。ドルクは湯呑みを脇へ寄せてから紙を灯へ寄せた。しばらく何も言わなかった。
「こっち、か」
「方角を書く欄はありません。渡してある札にも作っていません」
「作ってねえのに書いたわけだ」
老人は紙の端に残った墨の跡を指の腹でなぞった。
「押さえた指はこっちを向いてる。……坑にいた頃は音の来た側を先に言った。何が鳴ったかより、どっちで鳴ったかのほうが早く命に関わる」
「欄を足します」
「足せ。ただし東だの西だのは書かせるな」
ドルクは胸の前で手を短く動かした。
「下で東を言える奴はいねえ。元と先だ。水の来る側が元で、出ていく側が先だ。それなら初日の奴でも書ける」
「こっちがどちらかは分かりますか」
「そいつに訊け」
老人は湯呑みを取り上げた。
「俺が決めると、そいつは次から俺の言う側を書くようになる」
詰所へ回ると若者は板の上で眠っていた。夜のあとの寝入りは深い。レインは札を枕元の箱へ戻して、上に紙を一枚だけ残した。欄を足すこと。書き方は元と先。それだけ書いて外へ出た。空はもう白んでいた。
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朝の卓でルカが札の様式を組み直した。
『裏に一つ足しました。元。先。分からない。三つのうちから一つに丸を付ける形です』
「分からない、を残しましたか」
『残しました。二つしかない欄は迷った者が必ずどちらかへ倒します』
「それで結構です」
レインは目的の欄の四行の下へ一行だけ書き足した。
音の出る側がある。
『一人の当番の一晩の言です』
ノアが灯った。
『安全基準の頁に載る記述ではありません』
「印を付けておきます。二晩目を別の誰かが書いたら外します」
『印の名は』
「未確認で結構です」
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鐘が鳴る前に荷捌き場が騒がしくなった。
台の上に空いた場所が二つある。石畳に降ろされた荷は数えるほどで、待っていた職人が二人、手を叩いて温めながら帰っていった。ベルダが帳面を抱えたまま空いた台を筆の尻で示した。
「南東の分が来てないのよ。二度続けて」
「品は」
「染めた布となめし革。どっちも南東から来る荷だわ」
ベルダは頁を繰った。
「宛名を灰霧で書いてくる荷は先の月より増えてるの。減ってるのは南東だけよ」
バロスは鐘のあとに上がってきた。荷帳を卓へ置いて、開いた頁を太い指で押さえる。
「炭が上がってる」
「うちが買う値ですか」
「うちの手前で買われてる値だ」
指が下へ滑った。
「素焼きの壺と目の細けえ布も上がった。上げてんのは南東から来た買い手だ。荷が着く前に道の途中で買っていきやがる」
「理由は分かりますか」
「分からねえ。分からねえから上がってきたんだ」
バロスは頁の端を二度叩いた。
「値がおかしい方角には、必ず理由がある。理由を知らねえまま売り続けると、二月あとに泣くのはこっちだぞ」
「噂なら聞いたわよ」
ベルダが横から口を挟んだ。
「南東の遠いところで、井戸と川が一度に濁ったって。市で三人から聞いたわ」
「止めますか」
「止められるもんですか。……止めたほうがいい?」
「止めません」
レインは自分の帳面を開いた。
「止めた噂は台帳に残りません。残らないものは突き合わせられません」
『では受け入れるということですか』
ノアが卓の上で灯った。
『情報の受け入れは開示の裏返しです。噂を集めれば、集めていること自体が外へ出ます。こちらが何を気にしているかは、握ると綴じた事柄の内側です』
「訊きません。買いません」
レインは荷帳を手前へ引いた。
「こちらにある紙だけで割ります。荷の遅れと値の動きです。どちらもすでに書いてあるものです」
『……それであれば基準に触れません。誰が何を読んだかは記録してください』
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『並べました』
セレスの列が卓の上へ伸びた。
『値の上がった品は三つ。炭。素焼きの壺。目の細かい布。三つとも水を漉すのに要ります』
「時期は」
『最初に遅れた荷は三月前です』
レインは列の端を見たまま黙った。昨日セレスが洗い直した札の束も、変わり方が変わったのは三月前からだった。
『符合は証跡ではありません』
ノアが即座に置いた。
『距離も違えば水脈も違います。同じ月に別のことが二つ起きただけです』
「同じ月に起きたことは書いておきます」
「その土地で何が起きているかは分かりますか」
『分かりません』
セレスの列は動かなかった。
『値の動きから場所と時期は絞れます。理由は絞れません。水が濁った理由は商いの紙に書かれません』
エルメアは荷帳より先に値の列を見ていた。
「井戸と川が一度に濁ったなら、十日で腹をやられる者が出ます」
「三月です」
「三月保っているなら、その土地はもう水を外から買っています」
エルメアは炭の欄を指した。
「濁った水を飲める水にするなら漉して沸かすしかありません。炭と壺と細かい布。買い集めている品が、そのまま向こうの困り方です」
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『並べ替えてよろしいですか』
ミストの光が荷帳の上へ薄く広がった。
『日付の順は書いた者の都合です。荷は道を通ってきますから、道の順に並べ直せば絵になります。……並べます』
「並べてください」
列が組み替わった。宿場の名が南東へ向かって四つ並び、そのそれぞれに遅れの日数が付いた。
『三つ目までは言い訳が揃っています。荷が重かった。橋が落ちた。人が足りない』
『四つ目には言い訳がありません』
「言い訳がないのは何故ですか」
『来ていないからです。自分の荷が遅れた中継は詫び状を書きます。来ない荷に詫びる者はいません。……そこだけ、絵が抜けています』
『手順にします』
ルカの字が下へ流れた。
『荷の遅れと値の動きを月ごとに突き合わせる形です。これまで見ていたのは遅れだけでした。値は商いの卓の紙にあって、こちらの帳面には入っていません』
「入れてください」
『入れると、こちらの帳面が商いの卓の紙を読むことになります』
バロスが鼻を鳴らした。
「読め。ただし写しは俺の判のある頁だけだ」
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四つ目の中継の先に何があるかを、その場で答えられる者はいなかった。
バロスは荷帳の後ろから薄い綴じを抜いた。荷ではなく人の泊まる場所の名寄せだった。
「うちの荷はここまでだ」
太い指が四つ目の名で止まり、それから一つ下へ落ちた。
「その先に一つある。街道から半日外れてるから荷は通らねえ」
「取引はありますか」
「ねえ」
バロスは頁を回して見せた。
「灰霧の帳面には一度も出てこねえ名だ。売った覚えも買った覚えもねえ。名前だけは知ってる。宿の名寄せに載ってるからな」
レインは頁の上の字を目で追った。
セリド。
『こちらの帳面に初めて入る名です』
ノアが確かめるように灯った。
『商いの記録にも、講習にも、査察の綴じにもありません。灰霧の紙に一度も出ていない名です』
「出ていないことが分かるのは、こちらが全部書いてきたからです」
レインはその名を帳面へ書き入れた。空欄の残っている頁ではない。その手前の、土地の名を並べる頁だった。
バロスは荷帳を閉じて、指輪の石で表紙を一度叩いた。
「言っとくがな。値ってのは、こっちが知る前に動くんだ。俺が気づいた頃には、もう誰かが動いてる」
「誰か、とは」
「知らねえよ。知ってりゃ商売になってる」
卓が空いたあとも二つの帳面が並んだままだった。片方には荷の遅れが三月前から並び、もう片方には下の間合いの変わり方が三月前から並んでいる。どちらの列も、それだけでは何も言っていない。
レインは土地の名を並べた頁を開いたまま置いた。灰霧が一度も売らず、一度も買わなかった名だ。売り買いのない相手のことは、商いの紙には何も書かれない。
書いていないものを、こちらは今夜から数えることになる。




