第140話 名のない欄
月が替わると恒久列に書き足す日が来る。
三通のうち毎月開くのは灰霧の一通だけだ。領と委員会の写しは年に一度めくられるきりで棚の上に置いてある。
ベルダは墨を摺りながら卓の端へ顎をしゃくった。
「そっちのも見せなさい」
「これは列ではありません」
「いいから」
レインは帳面を回した。頭書きの一行に灰霧と入っている。頁をめくるとその裏に空欄が一つあった。
「この欄、いつまで空けとくの」
「書ける字がないんです」
「先の月にあんたが判を押した紙を覚えてる」
ベルダは筆の穂先を布で拭った。
「空欄は残さない。残ってたら、その列は誰も負ってないってことよ。……あたしが書いて、あんたが押したの」
「あれは負う側の欄の話です」
「読む側がそんな区別をすると思う」
レインは答えなかった。
「知らないなら知らないって書きゃいいじゃないの」
「書きます」
「じゃあ今日書きなさい」
ベルダは手を止めずに続けた。
「あたしの頁は毎月増えるの。増えない頁が一枚だけ挟まってると、そのうち誰も開かなくなるわよ」
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昼にルカが当番の手順の束を持ってきた。
『九割まで組めました』
字が卓の上へ縦に並んだ。刻限の見当。管の並び。鈴の数え。弁を回す順。札の書き方。上へ上げる道筋。
『残りの一割が埋まりません。頭の欄です』
「頭の欄とは」
『何のために座るのかを書く欄です。手順書の一行目に要ります』
「無くても手は動きます」
『動きます。ですが目的の抜けた手順は順番を守るだけの作業になります』
ルカの字が速くなった。
『順番だけ守る者は、順番の外が起きた晩に止まります』
「止まった晩に何が起きますか」
『分かりません。手順の外です』
ノアが割り込んだ。
『その欄は書けません。灰霧はまだ何も知りません。知らないものを目的の欄へ書けば、それは推測です。安全基準に推測は載りません』
『では私が埋めましょう』
ミストの光が卓の上へ伸びた。
『いつか、と仰いましたね。あの晩の宿題です。本体を一度でも読めれば、頭の欄は一行で済みます』
「読みに行った者が帰ってこなければ、一行も残りません」
『……仰るとおりです』
ミストの光は素直に引いた。引き際だけはこの一年で覚えている。
「名がない、と書きます」
レインは帳面の空欄へ筆を下ろした。二文字だけ入れて筆を置いた。
『それは目的ではありません』
「目的の欄には別のことを書きます。分かっていることだけを並べてください」
四行になった。
溜まると濁る。濁ると上の水が変わる。ひと息ぶん通せば戻る。何がそうしているのかは分かっていない。
『四行目に意味がありますか』
「四行目を書かなければ、いつか誰かが勝手に埋めます」
ノアはしばらく黙っていた。
『記述としては正しいです。……ではもう一つ決めてください。この四行を読める者の範囲です』
「当番と育成中の者。ベルダ。ガルム。この卓の者」
『言葉は握る、と綴じてあります』
「握ったままです。握っている中で誰に渡すかを決めているだけです」
『了解しました。写しは作りません。原本を当番の詰所へ置いて、持ち出しは記録します』
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その夜レインは縦坑を下りた。
機構の前で若い当番が膝をついている。ドルクは離れた岩に腰を掛けて足を投げ出していた。
管へ耳を寄せた若者の指が三本目の弁へ伸びる。指の幅ほど動いてまた戻った。ざらついた水の通る音が壁の奥へ吸われていく。
若者は札に数を書き入れてから顔を上げた。
「一つ訊いてもいいですか」
「どうぞ」
「俺は何を聞いてるんですか」
管の低い唸りが二人の間に残った。
「分かりません」
「分からないんですか」
「分かっていません。分かっているのは三つです」
レインは昼に書いた四行のうち三つをそのまま言った。若者は聞き終えてから小さく頷いた。
「四つ目は」
「名前がありません」
「……そうですか」
若者は膝の上で札を裏返してまた表へ戻した。
「半年座ります。あと二月ちょっとです。……座り終わったら、俺は次の奴に何を教えるんですか」
ドルクが岩の上で足を組み替えた。
「そいつを訊かれたのは初めてだな」
「爺さんは誰に教わったんですか」
「川だ」
老人は顎で上を指した。
「こっちは二十年かけてる。そいつは半年しかねえ。同じ覚え方をさせようってのが土台無理なんだよ」
「教え方のほうを書いてください」
レインは若者の札を覗き込んだ。
「あなたが半年で覚えたことを覚えた順に書いてください。その紙が次の人の一枚目になります」
「俺の書いたものでいいんですか」
「あなたの半年がいちばん新しいので」
若者は札を握ったまましばらく黙っていた。それから膝を回して管のほうへ向き直った。今夜の残りはまだ半分ある。
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翌朝セレスが三月ぶんの札を洗い直していた。
『弁の開き幅は変わっていません』
数の列が卓の上に並んだ。
『戻すまでの間合いも幅の内側です。どの数字も動いていません』
「では何が引っかかりましたか」
『変わり方が変わりました』
列の並びが二段に割れた。
『三月前は晩ごとの間合いがほとんど揃っていました。いまは晩ごとに前後します。前後する幅は指の幅の内側で、札の様式では拾えません。拾えたのは三月ぶんを一度に並べたからです』
『規則の外ではありませんね』
ノアが確かめた。
『外ではありません。中の並び方が変わりました』
卓の隅でドルクが茶をすすっていた。呼ばれて上がってきたのに椅子には座らず壁に背をつけている。
「川もそうだよ」
老人は湯気の向こうで目を細めた。
「量は毎年同じなのに、鳴り方だけ先に変わる年がある。そういう年は秋に何かある」
「何がありますか」
「知らねえ。何かだ」
レインは札の束を手前へ引いた。
「札に欄を一つ足せますか」
『足せます』
ルカの字が即座に並んだ。
『ただし当番の数える手が一つ増えます。刻限の測りと弁の順で手はもう埋まっています』
「増やしてください。名の欄は空けたままにします。空けたままにする代わりに、その周りを細かく書きます」
『非効率です』
「そうです」
ルカの光が一度細くなってからまた戻った。
『欄の名は』
「間合いで結構です」
ベルダが台帳の余白へ同じ四行を写した。写し終えてから筆の尻で空欄を軽く叩いた。
「一枚だけ増えたわね」
「増えました」
「上等よ。あたしの列は毎月それをやってるの」
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その晩の札は日付が変わってから上がってきた。
弁の幅も息の数も昨夜のままだった。新しく足した間合いの欄にも印が入っている。今夜が初めての欄なのに字は丁寧だった。初めて書く欄を丁寧に書く癖は、暮らしの窓口の書き役の届けにも同じものがある。
裏を返すと走り書きがあった。昨夜は二行だった。今夜は一行しかなく、その一行は昨夜までのどれとも違っていた。
今夜は、こっちから聞こえた。
こっちがどちらなのかは書いていない。若者はまだ図の書き方を教わっていない。渡してある札は一枚きりで、方角を写す欄はどこにも作っていなかった。教えていないものを、書ける形がないまま書いてきたことになる。
レインは札を灯へ寄せた。走り書きの末尾に墨の押し跡が一つ残っている。指で押さえた跡だった。押さえた指の向きだけが紙の上で奥のほうを指している。
半年で覚えたことを覚えた順に書け、と昼に言ったばかりだった。あの若者はもう、教わっていない順のほうを書き始めている。
名のない欄の周りに書ける行が四つ増えた日だった。その日のうちに五つ目が要ることになった。五つ目の欄には、方角と書くことになる。
レインは札を綴じずに手に持ったまま部屋を出た。老人を起こすには早すぎる刻限だった。それでもこの一行は朝まで置いておける種類の字ではない。




