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AI精霊と始める迷宮再建 〜落第管理者ですが、運用改善で最強ダンジョンを作ります〜  作者: 結城ログ
第9章:国家級拠点編 ―― 器を替える前に、渡さないものを決めろ
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第139話 器を替えた

 窯場の戸は夜明けの前に開く。


 道へ灰と麦の匂いが流れていた。中では女が長い柄で灰をかき寄せている。火はもう起きていた。


「早いね」


「早いのはあなたのほうです」


「うちは鐘の前に焼かないと市に間に合わないんだよ」


 女は手を止めなかった。


「焼き上がりまで待つなら端に寄っといで」


「一つ伺いに来ました」


 レインは戸口の内側に立ったままだった。


「ここのことを、あなたは何と呼んでいますか」


 柄の音が止まった。


「灰霧だよ」


「砦とは呼びませんか」


「呼ばないねえ」


 女は灰の山を平らに均した。


「うちの人が生きてた頃は砦って言ってたさ。あの頃は本当に砦だったからね。……いまは灰霧で通るよ。粉屋の帳面にも灰霧行きで書いてもらってる」


---


 外は薄明るくなっていた。


 井戸の前に桶の列ができている。並んでいるのは新区画の者ばかりだった。


 レインは同じことを訊いて回った。返る言葉はほとんど揃っていた。灰霧。灰霧の上。灰霧の街。


 砦と答えたのは一人だけだった。杖をついた老人で、答えてから自分で笑った。


「爺の言い方だな。孫は灰霧って言う」


 老人は桶を持ち上げた。


「荷の宛名も砦にすると外の置き場へ行っちまうしよ。いまは砦のほうが遠回りなんだ」


 窓口の板戸が開く音がした。リナが鍵の束を提げて出てくる。


「あ、管理者。今朝は早いんですね」


「訊きながら回っています。あなたはここを何と呼びますか」


「灰霧です」


 即答だった。


「外から来た人に道を訊かれたときもそう言います。砦って言うと、どこの砦って訊かれるので」


「灰霧なら訊かれませんか」


「訊かれません」


 リナは鍵を一本ずつ確かめながら続けた。


「今朝は八組です。半分は家族連れで、宿じゃなくて新区画に部屋を借りたいと言っています。……去年のいまごろは、部屋を借りたいなんて言う人はいませんでした」


---


 谷の刻はこのところ明け方へ寄っている。


 レインが下へ降りると、若い当番が管の前に座っていた。ドルクは離れた岩に腰を掛けている。


「もう終わってる」


 ドルクは目だけを上げた。


「今朝は半息ぶん長かった。そいつが自分で気づいた」


 若い当番は耳を管から離して札に書き入れた。手は震えていない。


「一つ伺います」


 レインは屈んだ。


「あなたは上を何と呼んでいますか」


「上だ」


 ドルクは足元の石を蹴った。


「砦だろうが街だろうが、俺は下へ降りるだけだよ。名が変わって川の癖まで変わるってんなら考えてやるがな」


「変わりません」


「なら何でもいい」


 ドルクは当番の札を覗き込んだ。


「こいつが半年座り終わるのが先の月だ。そうすりゃ頭数が一つ増える。……三人で回してると、一人休ませた晩がどうしても細くなる。四人目が入ればそこが埋まる。上の名を決める会合より、そっちのほうが先に効くぞ」


「効きます」


 レインは札の数字を目で追った。三月前と同じ幅で弁は開いている。上の人数が四百から五百になっても、下で垂らす水の量は変わらない。


 変わらないものが一つあることに、今朝は助けられた気がした。


---


 卓は昼前に開いた。


 三方の写しが並んだところでレインは筆を取り、紙の一行目に灰霧と書いた。それだけだった。


『区分がありません』


 書かれたばかりの二文字の真上でノアが灯った。


『砦とも街とも書かれていません。読む側が区分を勝手に入れます』


「入れていただいて構いません」


 レインは筆を置いた。


「呼び名は三方で違ってよいと考えました。指す先が同じであれば足ります」


「領の科目は灰霧の街で起こす」


 ハルドレイが即座に言った。


「領の帳面は科目の名で引く。街の名で起こしておけば、掃除代も便所の穴も同じ一つの科目にぶら下がる。……ばらばらに起こすと、削るときもばらばらに削られるでな」


「委員会は灰霧拠点で登録する」


 ドレファスが指の先で卓を一度押さえた。


「国庫の宛先に街の名は使えん。街は領のものだ。国が銭を出す先は拠点でなければ通らん」


「三つになりますが」


 代官補佐が控えめに口を挟んだ。


「灰霧の街。灰霧拠点。紙の頭書きは灰霧。……帳面が三つに割れませんでしょうか」


『割れます』


 ノアが即答した。


『名が三つあれば条項の読みも三つに割れます。附則を足します。三つの名が同じ当事者を指すことを条文の末尾に書きます』


「それで足ります」


 レインは頷いた。


「割れてよいのは名です。中身は三枚の紙が書いています」


 ドレファスが初めて頁を閉じた。


「呼び名は好きにせよ。委員会が毎年量るのは呼び名ではない」


---


 判は昼のうちに押された。


 ハルドレイは木札を卓へ置いてから、指先でそれを二度叩いた。


「暫定の綴じは本日で閉じてよろしゅうございますか」


 エイクが薄い束を持ち上げた。


「一年ぶんございます。閉じますと、これは写しではなく古い紙になります」


「閉じてください」


 エイクは表紙に何か書き入れ、束を膝の上で揃えた。それから初めて息を吐いた。


「恒久列の写しは三通ね」


 ベルダが墨を拭った。


「領へ一通。委員会へ一通。うちに一通。……あたしのは毎月書き足す側よ。あっちの二通は年に一度見るだけ」


「書き足す側が重いです」


「重いから決められるんでしょうが」


---


 午後は門へ回った。


 石畳は土塁の内側まで敷き終わっている。歩けば乾いた音がした。雨の日でも泥濘まない道の上に、宿の二階と工房の屋根が並んでいる。屋根から上は一つとして同じ形がなかった。建てた者が違うからだ。


 門柱に古い板が残っている。灰霧前砦と彫ってあった。


「外すか」


 ガルムが顎で示した。


「新しいのはもう彫ってある。並べて掛けとくと外の荷が迷うぞ」


「新しいほうを大きくして、こちらは下へ移せますか」


「移せる」


 ガルムは板の縁を指でなぞった。


「……残しといたほうがいい。この板を立てた日は、石が三十人ぶんしかなかった。覚えてる奴が減ってからじゃ、ただの古い板になる」


「土台はあんたんとこの仕事だ」


 バロスが石畳を靴の先で叩いた。


「屋根から上は俺たちの銭だぞ。だから場所代の使い道は毎年見せろって言ってんだ。見せねえ場所代を払う商人はいねえ」


「毎年出します」


『屋根の高さを揃えてみせましょうか』


 ミストの光が門の上へ伸びた。


『色も丈もばらばらでしょう。並びを揃えれば、外から来た者が最初に見る絵が一段よくなりますよ』


「揃えません」


 レインは屋根の並びを端から端まで目で追った。


「不揃いなのはそれぞれの持ち主が建てたからです。揃えれば誰が建てたか分からなくなります」


『では数のほうを揃えます』


 セレスが門柱の脇で細く灯った。


『滞在者は五百三十一人。うち百九十四人が新区画に住まいを持っています。便所は十四。掃除の頭数は日に六人。夏は十二人の見込みです』


『奥の当番は三名。育成中を含めて五名』


「その数だけ変わっていません」


『手順を組みます』


 ルカが速く点いた。


『掃除も巡回も当番も月ごとに割り当てを先に組めば、日ごとに考える手間が消えます』


「組んでください。例外の欄だけ残して」


『例外は手順の外です』


「外に置くから手順が保ちます」


「夏の十二人は、いまのうちに集めておいてください」


 エルメアが横から言った。


「病が出てから集めた人は間に合いません」


---


 日が落ちてからレインは管理棟の窓辺に立った。


 灯は新区画の端まで届いている。門から端まで歩けば、いまはゆっくりで四半刻かかる。着任した冬は、門の内側だけで足りていた。


 守れる場所を作った。次に、開けずになだめ続けられる場所にした。今日からは賑わいと重さを両方抱えたまま回していく場所になる。


 器は替わった。替える前に渡さないものを決めておいた。三つの譲れないものと、奥に関わる扱い。三枚目の紙にだけ分担の欄がない。


 重さは割れた。中身は割らなかった。


---


 谷の刻が回ったのは日付が変わってからだった。札はその晩、当番の手で直に運ばれてきた。


 弁の幅。息の数。数字は昨夜と変わらない。変わったのは裏のほうだった。走り書きが一行から二行に増えている。


 今夜は俺一人で聞いた。合ってる。明日は半息ぶん早い気がする。


 二行目は初めて次の晩のことを書いていた。数えるだけだった手が、読むほうへ半歩動いている。レインは札を綴じ込んだ。帳面の頭には今日から名が入っている。同じ日付で三方の帳面にも載った。


 頁をめくると空欄が一つ残っている。ずっと前から空いたままの欄だった。


 奥にいる何かの名を書く欄だ。


 街には名が付いた。拠点にも名が付き、何十年ぶんの条文の一行目も埋まった。だがその真下でひと息ぶんの水を待っているものには、まだ何の名もない。誰がそれを寝かせ、なぜここを捨てて去ったのかも、帳面のどこにも書かれていない。


 卓を去った男の言い残しだけが、名の入った紙の上に残っていた。確かめぬままにはしておかない、という一句だ。


 レインは窓を閉めた。


 名のない欄が埋まる日が来るとすれば、それはこちらが書く日ではなく、向こうが名乗る日かもしれなかった。

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