第139話 器を替えた
窯場の戸は夜明けの前に開く。
道へ灰と麦の匂いが流れていた。中では女が長い柄で灰をかき寄せている。火はもう起きていた。
「早いね」
「早いのはあなたのほうです」
「うちは鐘の前に焼かないと市に間に合わないんだよ」
女は手を止めなかった。
「焼き上がりまで待つなら端に寄っといで」
「一つ伺いに来ました」
レインは戸口の内側に立ったままだった。
「ここのことを、あなたは何と呼んでいますか」
柄の音が止まった。
「灰霧だよ」
「砦とは呼びませんか」
「呼ばないねえ」
女は灰の山を平らに均した。
「うちの人が生きてた頃は砦って言ってたさ。あの頃は本当に砦だったからね。……いまは灰霧で通るよ。粉屋の帳面にも灰霧行きで書いてもらってる」
---
外は薄明るくなっていた。
井戸の前に桶の列ができている。並んでいるのは新区画の者ばかりだった。
レインは同じことを訊いて回った。返る言葉はほとんど揃っていた。灰霧。灰霧の上。灰霧の街。
砦と答えたのは一人だけだった。杖をついた老人で、答えてから自分で笑った。
「爺の言い方だな。孫は灰霧って言う」
老人は桶を持ち上げた。
「荷の宛名も砦にすると外の置き場へ行っちまうしよ。いまは砦のほうが遠回りなんだ」
窓口の板戸が開く音がした。リナが鍵の束を提げて出てくる。
「あ、管理者。今朝は早いんですね」
「訊きながら回っています。あなたはここを何と呼びますか」
「灰霧です」
即答だった。
「外から来た人に道を訊かれたときもそう言います。砦って言うと、どこの砦って訊かれるので」
「灰霧なら訊かれませんか」
「訊かれません」
リナは鍵を一本ずつ確かめながら続けた。
「今朝は八組です。半分は家族連れで、宿じゃなくて新区画に部屋を借りたいと言っています。……去年のいまごろは、部屋を借りたいなんて言う人はいませんでした」
---
谷の刻はこのところ明け方へ寄っている。
レインが下へ降りると、若い当番が管の前に座っていた。ドルクは離れた岩に腰を掛けている。
「もう終わってる」
ドルクは目だけを上げた。
「今朝は半息ぶん長かった。そいつが自分で気づいた」
若い当番は耳を管から離して札に書き入れた。手は震えていない。
「一つ伺います」
レインは屈んだ。
「あなたは上を何と呼んでいますか」
「上だ」
ドルクは足元の石を蹴った。
「砦だろうが街だろうが、俺は下へ降りるだけだよ。名が変わって川の癖まで変わるってんなら考えてやるがな」
「変わりません」
「なら何でもいい」
ドルクは当番の札を覗き込んだ。
「こいつが半年座り終わるのが先の月だ。そうすりゃ頭数が一つ増える。……三人で回してると、一人休ませた晩がどうしても細くなる。四人目が入ればそこが埋まる。上の名を決める会合より、そっちのほうが先に効くぞ」
「効きます」
レインは札の数字を目で追った。三月前と同じ幅で弁は開いている。上の人数が四百から五百になっても、下で垂らす水の量は変わらない。
変わらないものが一つあることに、今朝は助けられた気がした。
---
卓は昼前に開いた。
三方の写しが並んだところでレインは筆を取り、紙の一行目に灰霧と書いた。それだけだった。
『区分がありません』
書かれたばかりの二文字の真上でノアが灯った。
『砦とも街とも書かれていません。読む側が区分を勝手に入れます』
「入れていただいて構いません」
レインは筆を置いた。
「呼び名は三方で違ってよいと考えました。指す先が同じであれば足ります」
「領の科目は灰霧の街で起こす」
ハルドレイが即座に言った。
「領の帳面は科目の名で引く。街の名で起こしておけば、掃除代も便所の穴も同じ一つの科目にぶら下がる。……ばらばらに起こすと、削るときもばらばらに削られるでな」
「委員会は灰霧拠点で登録する」
ドレファスが指の先で卓を一度押さえた。
「国庫の宛先に街の名は使えん。街は領のものだ。国が銭を出す先は拠点でなければ通らん」
「三つになりますが」
代官補佐が控えめに口を挟んだ。
「灰霧の街。灰霧拠点。紙の頭書きは灰霧。……帳面が三つに割れませんでしょうか」
『割れます』
ノアが即答した。
『名が三つあれば条項の読みも三つに割れます。附則を足します。三つの名が同じ当事者を指すことを条文の末尾に書きます』
「それで足ります」
レインは頷いた。
「割れてよいのは名です。中身は三枚の紙が書いています」
ドレファスが初めて頁を閉じた。
「呼び名は好きにせよ。委員会が毎年量るのは呼び名ではない」
---
判は昼のうちに押された。
ハルドレイは木札を卓へ置いてから、指先でそれを二度叩いた。
「暫定の綴じは本日で閉じてよろしゅうございますか」
エイクが薄い束を持ち上げた。
「一年ぶんございます。閉じますと、これは写しではなく古い紙になります」
「閉じてください」
エイクは表紙に何か書き入れ、束を膝の上で揃えた。それから初めて息を吐いた。
「恒久列の写しは三通ね」
ベルダが墨を拭った。
「領へ一通。委員会へ一通。うちに一通。……あたしのは毎月書き足す側よ。あっちの二通は年に一度見るだけ」
「書き足す側が重いです」
「重いから決められるんでしょうが」
---
午後は門へ回った。
石畳は土塁の内側まで敷き終わっている。歩けば乾いた音がした。雨の日でも泥濘まない道の上に、宿の二階と工房の屋根が並んでいる。屋根から上は一つとして同じ形がなかった。建てた者が違うからだ。
門柱に古い板が残っている。灰霧前砦と彫ってあった。
「外すか」
ガルムが顎で示した。
「新しいのはもう彫ってある。並べて掛けとくと外の荷が迷うぞ」
「新しいほうを大きくして、こちらは下へ移せますか」
「移せる」
ガルムは板の縁を指でなぞった。
「……残しといたほうがいい。この板を立てた日は、石が三十人ぶんしかなかった。覚えてる奴が減ってからじゃ、ただの古い板になる」
「土台はあんたんとこの仕事だ」
バロスが石畳を靴の先で叩いた。
「屋根から上は俺たちの銭だぞ。だから場所代の使い道は毎年見せろって言ってんだ。見せねえ場所代を払う商人はいねえ」
「毎年出します」
『屋根の高さを揃えてみせましょうか』
ミストの光が門の上へ伸びた。
『色も丈もばらばらでしょう。並びを揃えれば、外から来た者が最初に見る絵が一段よくなりますよ』
「揃えません」
レインは屋根の並びを端から端まで目で追った。
「不揃いなのはそれぞれの持ち主が建てたからです。揃えれば誰が建てたか分からなくなります」
『では数のほうを揃えます』
セレスが門柱の脇で細く灯った。
『滞在者は五百三十一人。うち百九十四人が新区画に住まいを持っています。便所は十四。掃除の頭数は日に六人。夏は十二人の見込みです』
『奥の当番は三名。育成中を含めて五名』
「その数だけ変わっていません」
『手順を組みます』
ルカが速く点いた。
『掃除も巡回も当番も月ごとに割り当てを先に組めば、日ごとに考える手間が消えます』
「組んでください。例外の欄だけ残して」
『例外は手順の外です』
「外に置くから手順が保ちます」
「夏の十二人は、いまのうちに集めておいてください」
エルメアが横から言った。
「病が出てから集めた人は間に合いません」
---
日が落ちてからレインは管理棟の窓辺に立った。
灯は新区画の端まで届いている。門から端まで歩けば、いまはゆっくりで四半刻かかる。着任した冬は、門の内側だけで足りていた。
守れる場所を作った。次に、開けずになだめ続けられる場所にした。今日からは賑わいと重さを両方抱えたまま回していく場所になる。
器は替わった。替える前に渡さないものを決めておいた。三つの譲れないものと、奥に関わる扱い。三枚目の紙にだけ分担の欄がない。
重さは割れた。中身は割らなかった。
---
谷の刻が回ったのは日付が変わってからだった。札はその晩、当番の手で直に運ばれてきた。
弁の幅。息の数。数字は昨夜と変わらない。変わったのは裏のほうだった。走り書きが一行から二行に増えている。
今夜は俺一人で聞いた。合ってる。明日は半息ぶん早い気がする。
二行目は初めて次の晩のことを書いていた。数えるだけだった手が、読むほうへ半歩動いている。レインは札を綴じ込んだ。帳面の頭には今日から名が入っている。同じ日付で三方の帳面にも載った。
頁をめくると空欄が一つ残っている。ずっと前から空いたままの欄だった。
奥にいる何かの名を書く欄だ。
街には名が付いた。拠点にも名が付き、何十年ぶんの条文の一行目も埋まった。だがその真下でひと息ぶんの水を待っているものには、まだ何の名もない。誰がそれを寝かせ、なぜここを捨てて去ったのかも、帳面のどこにも書かれていない。
卓を去った男の言い残しだけが、名の入った紙の上に残っていた。確かめぬままにはしておかない、という一句だ。
レインは窓を閉めた。
名のない欄が埋まる日が来るとすれば、それはこちらが書く日ではなく、向こうが名乗る日かもしれなかった。




