第138話 誰とどこまで負うか
朝の卓には昨夜の紙が載ったままだった。
頭書きの一行が空いている。その下に条項の番号だけが並んでいた。
『名は決まりましたか』
「まだです」
『では番号の下から埋めます。頭書きは最後に回します』
ノアの光が硬く灯った。
『申し添えます。主語の空いた条文は、読む側が勝手に主語を入れて読みます』
「一日だけ空けさせてください」
ベルダが下書きを抱えて上がってきた。三枚あった。一枚目に重さ。二枚目に決めごと。三枚目に割らないもの。
「書いてはみたけどね」
束が卓へ置かれる。
「どの紙も一行目で詰まってるのよ。誰が負うのって欄に入れる名前がないの」
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卓は昨日と同じ刻に開いた。壁際にガルムとエルメアとバロスが立った。
隅の椅子は空いたままだった。座る者が来なかった。
「先に一つ出させていただきます」
エイクが薄い綴じを滑らせた。声は小さい。
「暫定の写しでございます。書き換わる行に印を付けて参りました」
開くとほとんどの行に印があった。
「わしの判が押してある紙だぞ」
ハルドレイが頁をめくった。
「一年でここまで足が生えるとはな」
「足が生えたのは街のほうです」
レインは一枚目を卓の中央へ置いた。
「重さから詰めます」
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一枚目には終わりの欄のない列が並んでいた。
治安。衛生。街の費え。中枢の魔力の持ち出し。そして一番下に、夜ごと下へ降りる当番の費え。
「負う側の欄を三つに割ります」
ベルダが墨を足した。
「領。委員会。灰霧。列ごとにどれかを書き入れるの。空欄は残さないから。……残ってたらその列は誰も負ってないってことよ」
「治安は領で構わん」
ハルドレイは即答した。
「兵は出す。常のぶんで十二。有事の触れで足す。……ただし出した兵をどこの誰が動かすかは先に決めておけ」
「そこは俺から言う」
ガルムが壁から一歩出た。
「号令は一つにしてくれ。夜中に二つ声が飛んだら人は止まる。止まったところが穴になる」
「領の兵に、辺境の作業員頭の下へ入れと言うのか」
「街の中ではそうしてもらう」
ガルムは引かなかった。
「土塁の外は好きにやってくれ。中の道と退避線は俺の頭に入ってる。入ってねえ奴が先に走ったら、あんたの兵が真っ先に死ぬ」
ハルドレイがしばらく顎を撫でた。
「……道理よな。街の中は預ける。だが年に一度は領の目で見させろ」
「見てもらえるなら助かる」
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衛生の列でエルメアが前へ出た。
「掃除の頭数を先に決めてください」
指が列の途中で止まる。
「便所と洗い場は建てれば済むものではありません。日ごとに人が要ります。いまは宿の下働きから借りていますが、街の人数ではもう足りません」
「費えは分けられるか」
「分けられます。ただし人は季節で増えます。夏は倍要ります」
「多いほうで書けば、使わぬ年は余るぞ」
「余った年は病が出なかった年です」
ドレファスはそれ以上言わなかった。
バロスが指輪をこすった。
「街の費えの列は俺のほうから出す」
太い指が三本目の列を叩く。
「市の場所代と荷の口銭だ。取り分の何分をここへ落とすかは商いの卓で決める。……ただし毎年見せろよ。使い道が見えねえ場所代は、次の年から誰も払わねえからな」
『数を申し上げます』
セレスの光が並んだ。
『終わりの欄のない列は五本です。うち四本は負う側が一つで足ります。一本は複数で割る必要があります』
『残る一本は、負う側を決めても銭が動きません』
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止まったのはその一本だった。
「科目がございません」
代官補佐が低く言った。
「領の帳面には砦の修繕という科目がございます。ですが街の便所の掃除代も、夜ごとの当番の費えも、その科目には入りません。新しい科目を起こさねば銭が動かないのです」
「起こせばよかろう」
「起こすには名が要ります」
若い代官補佐は言いにくそうに続けた。
「どこへ出す銭かを一行で書かねばなりません。灰霧前砦と書けば、街の掃除代は次の年に削られます。砦に便所はいくつも要らないと必ず言われますので」
「委員会も同じだ」
ドレファスは頁から目を上げなかった。
「国庫から出す先には名がいる。名が古ければ、中身も古いものとして数えられる。……砦の名で街の費えを通すのは無理だ」
「止めれば何が起きるかを書く形は」
「それで筋は立った」
主席評価官は頷いた。
「立ったのは理由のほうだ。宛先は別に要る」
ベルダが墨を置いた。三方のどこからも同じ言葉が出たのを卓の全員が聞いていた。
「頭書きは午後に回します」
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昼に一度卓を割った。
管理棟の階下で石工の頭が待っていた。膝に丸めた紙を抱えている。
「便所の穴の件で。土塁沿いの列を三つ足したいんでさ」
「掘ってください。深さは前と同じで」
「あと、これ」
男は紙をほどいた。荷の受け取りの控えだった。宛名の欄に灰霧の街と書いてある。
「うちの若いのが勝手に書いたんですがね。砦って書くと、外の材木置き場のほうへ運ばれちまうんですよ。あすこがまだ砦って呼ばれてるもんで」
「そのままで結構です」
「いいんですかい」
「困る人が減るならそちらが正しいです」
男は肩をすくめて出ていった。
窓の外では市が立っている。菜と塩魚の声へ、新区画の槌の音が重なっていた。
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「二枚目です」
午後の卓で紙が回った。
「負った方に決めごとが伴います。負っていない場所は決められません。この二つを同じ紙に書きます」
「領は何を決める」
「街の門の出入りの取り決め。それと徴募の枠です」
レインは指を折った。
「兵と銭を出していただく以上そこはお決めください。ただし退避の触れが出た晩だけは、門の開け閉めもこちらへ倒れます」
「有事の晩だけか」
「はい。負っている量が違う晩ですので」
「委員会は」
「毎年の検分。それと外へ出す報告の形です」
「灰霧は」
「街の運びと、下の世話です」
「多いな」
ドレファスが短く言った。
「多いです。負っている量が多いので」
ハルドレイが鼻を鳴らして笑った。卓の空気がそれで一度ほどけた。
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「三枚目を出します」
ノアの光が卓の中央へ落ちた。
『割らない項目を読み上げます。中枢の制御。退避の判断。地下への立入の基準』
『三つ目の内側に奥に関する情報の開示の可否を含みます』
『この三つには分担の欄を作りません』
「量ると言うたな」
ドレファスが顔を上げた。
「毎年量れと言ったのはそちらだ。ではもう一つ訊く。物差しは誰が書く」
卓が静かになった。
「握る側が物差しまで書くなら、量りは形だけになる」
「物差しは委員会でお書きください」
レインは即答した。
「……こちらで書かんのか」
「書きません」
三枚目の下へ余白を空けた。
「量られる側が物差しを持っていては外れる日が来ません。委員会が書いて、写しを卓と暮らしの窓口へ置いてください。……書かれた物差しは、私の次の管理者にも当たります」
「次、と言うたか」
「はい」
ドレファスは長く黙った。それから初めて自分の手で頁の隅へ書き足した。
『物差しを外から書かせるのは非効率です』
ルカの光が速く点いた。
『毎年おなじ検分をするなら手順をこちらで組んだほうが早く終わります。委員会の書式は年ごとに変わります』
「変わっていいんです」
レインは首を振った。
「早く終わる量りは量ったことになりません」
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『もう一項あります』
ノアが続けた。
『開く相手の記録を条項へ入れます。渡す側の欄しかなかったところへ、受け取る側の欄を足しました』
『これは先の夜に書き役が先に始めた形です』
「書き役とは」
「暮らしの窓口の子よ」
ベルダが答えた。
「まだ十六。写しをくれと来た男に、受け取る人の名前を書いてくださいって言ったの。それだけで男は帰ったわ」
ハルドレイが低く唸った。
「十六の娘が国家の条項を一つ増やしたか」
「増えたのは欄です」
レインは言った。
「条項が言っているのはずっと同じことです。誰が受け取ったか分からない紙は出さない。それだけです」
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「最後に一つ書き足させてください」
レインは紙の裏を返した。
「この分担は恒久です。ですが永久ではありません」
「どう違う」
「終わりの日付を書かないのが恒久です。書き直しの手順を先に書いておくのが、永久でないということです」
三方のどこからでも申し出られる形にします、と続けた。
「わしが死んだ後の話をしておるのか」
「はい」
ハルドレイは声を上げて笑った。
「気に入らんが正しい」
辺境伯は台帳を指で叩いた。
「わしの孫がこの卓に座る頃には、わしの決めたことはたいてい邪魔になっとる。……邪魔になった時に外せる紐を、いま付けておけ」
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条項は日が傾く前に一通り埋まった。
ベルダの恒久列から空欄が消えた。領。委員会。灰霧。列ごとにどれかが入っている。一番下の列だけは二つ入った。銭が委員会で、人が灰霧だった。
『残るは頭書きのみです』
ノアが灯った。
卓の目が一斉にそこへ集まった。
「名を決めてこい」
ドレファスが立ち上がった。
「委員会は名のないものと約定を交わさん。次の卓には、この紙の一行目を埋めて来い」
「領の帳面も同じよ」
ハルドレイが続けた。
「新しい科目には新しい名が要る。砦の名では街の掃除代は通らんと、そこの若いのが言うたとおりだ」
代官補佐が小さく頭を下げた。
「一つ伺ってもよろしゅうございますか」
エイクが初めて顔を上げた。
「その名は、どなたがお決めになるのでしょう」
レインは答えられなかった。
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卓が散ってから、ベルダが受付の紙束を持ってきた。
「面白いもの見つけたわよ」
三月ぶんの届けの控えだった。
「宛名の欄を見て。灰霧の街。灰霧の窓口。新区画の詰所。……三月で一枚も砦って書いてないの」
「一枚も」
「一枚だけあったわ」
ベルダは束の一番下を抜いた。
「あたしが書いたやつ」
レインは紙を受け取った。見慣れた筆跡だった。
「呼び方が古くなるのはあんたのせいじゃないからね」
ベルダは肩をすくめて出ていった。
夜半に下から札が上がってきた。数字は動いていない。裏の走り書きも短かった。若い当番が一人で書いた晩は、これで六晩続いている。
レインは油の壺と替えの布と耳の薬を数え直した。恒久列の一番下に入る費えは、この三つの積み重ねでできている。国庫から出る銭は、卓を離れた先でこの三つに化ける。
窓の外では新区画に灯が点いていた。数えるのはもうやめている。
頭書きの一行はまだ空いていた。
三方の帳面に載る名だ。何十年ぶんの条文の頭に立つ名でもある。それを卓が決めるのは違う気がした。かといって自分の一存で書けば、この一年やってきたことと逆になる。
レインは紙を綴じ直して立ち上がった。
名を訊きに行く先は、明日いちばん早く戸の開く場所だと決めていた。




