第137話 渡す器と握る芯
聞いて回っている者は三人いた。
棟を訪ねては同じことを訊く。昨夜は眠れたか。子は泣かなかったか。答えれば丁寧に礼を言い、次の戸へ移る。名は名乗らない。
「止めるか」
ガルムが顎で窓の外を示した。下では市が立っている。卓の日でも荷は動き、菜と塩魚の声が新区画の端まで届いていた。
「訊かれて困ることをこちらはしていません」
「困らんのか。年寄りが履物を無くした話がそのまま卓へ出るぞ」
「出ます。出ないほうがおかしいです」
レインはベルダを呼んだ。
「暮らしの窓口に紙を一枚増やしてください。あの晩のことを書ける紙です」
「書かせてどうすんの」
「卓へ持っていきます」
「悪口が並ぶわよ」
ベルダは腕を組んだ。
「もう並んでるけどね。今朝も一人来て、板を叩いた奴を出せって怒鳴ってったわ」
「全部持っていきます」
「都合のいいのだけ抜いたら承知しないから」
「抜けません。抜いた束はあの人たちの束と同じものになります」
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紙は夕方までに三十九枚集まった。
半分は苦情だった。寒かった。並ばされた。病人を歩かせるなと書いた者もいる。エルメアが横から読んで、療治小屋の二棟は動かしていないと短く言い足した。言い足しただけで、その紙を抜けとは言わなかった。
一枚だけ字の整ったものがあった。
次があるなら出ていきます、とだけ書いてある。
名が入っていた。新区画の東で機を織っている女の名だった。
夜にリナが戻ってきた。帳面を胸に抱えたままだった。
「三人、来てくれるって言ってます。宿の親方さんと石工の頭さんと……あと、あの機を織ってる人です」
「出ていくと書いた方ですね」
「はい。私、来てくださいって言っちゃいました。まずかったですか」
「言ってくれて助かりました」
「でもあの人、たぶん怒ってます。卓でも同じこと言うと思います」
「同じことを言っていただくために来てもらいます」
リナは少し黙ってから頷いた。
「じゃあ明日は私が戸のところにいます。三人ともあの部屋に入ったことないので」
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バロスは日暮れ前に来た。卓に着くなり指輪を親指でこすった。
「明日の卓、俺も座らせろ」
「商いの議題はありません」
「あるさ」
太い指が卓を叩いた。
「荷ってのは信用で動くんだ。明日も同じ相手が同じ判で受け取る。だから値が据わる。……その判が遠くへ行ってみろ。帰りを待つ日数がそのまま値に乗るぞ。材木も瓦も麦も上がる。上がりゃ宿代が上がって、人が減る」
「それを卓で言われますか」
「言う。断っとくが俺は灰霧の味方じゃねえからな。安く荷が入るほうの味方だ。今んところそっちが同じ側にあるってだけの話さ」
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卓は前と同じ形で開いた。
右にハルドレイと代官補佐。左にドレファスとエイク。中央にベルダと台帳。隅の椅子には旅塵の落ちた外套。今日は壁際にも人が立った。ガルムとエルメアとバロス。戸口の内側でリナが三人を連れて控えている。
「先に一つお出しいたします」
ヴェッセンが束を卓へ滑らせた。
「街のお方に伺って参りました。百十二人ぶんでございます」
ドレファスが最初の一枚を取った。
「怖かった。眠れなかった。……子が熱を出したとあるな」
「そのようなお答えばかりでございました」
ハルドレイの眉が寄った。領の卓へ持ち帰る顔をしていた。
「同じ紙がこちらにもあります」
ベルダが三十九枚を卓の中央へ置いた。
「三十九枚です。数はそちらに及びません」
「では何が違う」
「書いた人の名が入っています」
レインは束の端を指で押さえた。
「書けない人のぶんは、聞き取った者の名を入れました。どの紙にも必ず誰かの名が一つあります。そちらの束には伺った方の名も、伺った側の名もありません」
「名がなければ正直に申せることもございます」
ヴェッセンの声は柔らかいままだった。
「名を書けと申されて口を閉ざす方は灰霧殿の街にも大勢おられましょう」
「おられます。ですから読みます」
レインはヴェッセンの束を引き寄せた。
一枚ずつ声に出した。寒かった。腹が立った。二度と御免だ。年寄りが履物を無くした。読み終えるまで誰も口を挟まなかった。
「全部こちらの束にも入っています」
束を戻した。
「怖かったと言う人の数で争うつもりはありません。怖かったのは本当です」
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「本人はおるのかね」
ハルドレイが顎を上げた。
リナが戸口から三人を通した。親方が先に口を開いた。
「腹は立ちましたよ。板を叩かれて叩き起こされて、寒い中を並ばされて、朝には宿の客に詫びて回ったのは俺です」
それから一度息を継いだ。
「だが次も同じに起こしてもらう。俺の宿には三十人寝てるんでね。数えられねえまま朝が来るほうが怖い」
石工の頭は縄の握りを持ったままだった。
「俺は穴を掘る側なんで、難しい話は分かりません。ただ便所の穴をどこへ掘るか訊いたら、その日のうちに返事が来ましたよ。歩いて行ける場所に訊く相手がいるってのは、そういうことでさ。……穴の位置を王都まで訊きに行けと言われたら、俺は掘らねえで帰ります」
最後に女が前へ出た。声は低かった。
「あたしは次があったら出ていきます」
卓が静かになった。
「ここが嫌だからじゃありません。次があるってことは、外の誰かがまだ諦めてないってことでしょう。……あたしが怖いのはそっちです」
女は隅の椅子を見なかった。見ないまま頭を下げて下がった。
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「では、そのご心配を私どもで引き取らせていただきます」
ヴェッセンが膝の上で手を組み直した。
「奥の世話を費えごと引き受けます。人もお出しいたします。銭に期限は設けません。……世話を負う者が決めるのが筋だと仰るなら、負ってみせるのが早うございましょう」
筋は通っていた。今日いちばんよく通っていた。
「一人呼んでおります」
レインが言うと、ガルムが戸を開けた。
膝から下が泥のままの老坑夫が入ってきた。卓の誰にも会釈をせずに壁へ寄りかかる。
「谷の刻まで一刻半だ。手短にしてくれ」
「腕の良い者を出すと仰っています」
「腕はいらねえ」
ドルクは鼻を鳴らした。
「天才はいらねえ。要るのは毎晩の耳だけだ」
「では耳をお借りする形でも」
「半年だ」
太い指が一本立った。
「毎晩座る。一晩抜けたら数え直しだぞ。誰が来ようが構わねえよ。王都の若いのでも、そちらさんの腕利きでもいい。ただし合否を決めるのは俺だ」
「その決めごとを、こちらへお預けいただくわけには」
「預けられるかよ。俺が決めてんじゃねえ。川が決めてる。俺はそれを聞き取ってるだけだ」
ドルクは初めて隅の椅子を正面から見た。
「あんたの後ろのお人を半年ここへ座らせな。座れるってんなら明日から教えてやる」
誰も答えなかった。ヴェッセンは組んだ手をほどかなかった。
『五日ぶんを数えます』
セレスの光が並んだ。
『管理者の判を要した案件は五日で十一件。うち九件が卓へ出す文面でした。街の届けは四百六件あり、いずれも管理者を通っておりません』
「重さは決めた日から割れました」
レインは台帳の頁を開いた。
「五日で十一件です。四百六件は私を通っておりません。……奥の世話だけは負える人がこちらにしかいません。半年かかるからです」
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「筋の話へ戻す」
ドレファスが指を組んだ。
「辺境の一存で国家級のものの芯を握るのは筋が通らん。私はまだそこにおる」
「筋なら俺からも一つ出すぞ」
壁際でバロスが指輪をこすった。
「明日も同じ相手が同じ判で受け取る。だからうちの値は据わってるんだ。……その判が王都へ行った日から、俺は帰りを待つ日数を値に乗せる。乗せた値を払うのはこの街の連中だぞ」
「商人の言い分だな」
「そうだ。だから当てになる」
太い指が卓の縁を弾いた。
「俺は明日も荷を入れる側にいる。損が来るのが先に見えるほうへ賭けてるだけだ。……今んところ、それがこちらさんの筋と同じ向きを向いてる」
「一存でなくす形をお願いしたいのです」
レインは頁をもう一枚めくった。
「重さは三方で恒久に分けます。誰が何分をどう負うかは台帳に固定して、毎年この卓へ出します。負っていただく方には相応の決めごとが伴います。……そのうえで、握る側を毎年量ってください」
「量る」
「灰霧が世話を続けているかを、この卓で確かめてください。当番が絶えていれば、鈴が数えられていなければ、握りを外していただいて構いません」
卓が静まった。
「握りを外す条件を、握る側が書くのか」
「書けるうちに書いておきたいです」
『条項として綴じます』
ノアの光が硬く灯った。
『握る三つと奥に関わる扱いは、量る対象であって分ける対象ではありません。量られて外れることはあります。割って半分ずつ持つことはありません』
ドレファスは長く黙っていた。それから写しの束を揃えかけた手を止め、卓へ置いたままにした。
「持ち帰らん」
主席評価官は椅子を引いた。
「委員会には私の名で出す。骨はこれで呑む。条文は次の卓で詰める」
「わしのほうも通る」
ハルドレイが木札を指で弾いた。
「領の卓を通すのは領民の口だと言うたろう。今日その口が三つ喋った。うち一つはお前さんに文句を言うたぞ」
「文句のほうを先に持ち帰ってください」
「言われんでもそうするわ」
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ヴェッセンは卓が散る前に立ち上がった。
「本日をもって商流の代理は終いにいたします。荷の話は別の者を寄越しますので」
「一つだけ伺います」
レインは椅子に座ったままだった。
「なぜ奥なのですか。値のつくものではありません」
「値ならとうについております」
男は薄く笑った。
「ですが私の後ろにおられる方は、値のためにあれを欲しがってはおられません。あれが本当に寝ているのかどうかを、これまでどなたも確かめておられない。……それだけのことでございます」
「確かめれば起きます」
「起きぬかもしれません」
ヴェッセンは外套の裾を直した。
「どちらであれ、確かめぬままにしておくのは私どもの流儀ではございませんので」
戸口で足が止まった。
「灰霧殿。器をお大きくなさるのは結構でございます。ただ大きな器には名がいります。……砦の名で四百人の眠りは括れませんでしょう」
男は返事を待たずに出ていった。
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その晩、下から札が上がってきた。
弁の幅。息の数。脈の戻る間合い。三つとも昨夜と同じだった。裏の走り書きも一行だけだった。
今夜も俺は横で聞いた。合ってる。
レインは札を帳面へ綴じた。窓の外では骨組みの下に灯が点いている。四十を数えたのは先の月だ。今夜はもう数えていない。
『次の卓へ出す条文の頭書きを起こします』
ノアが灯った。
『当事者の名を書きます。灰霧前砦、と書いてよろしいですか』
レインは答えなかった。
四百十七人が寝ている。宿があり市があり、暮らしの窓口がある。その真下でひと息ぶんの水が今夜も細く垂れている。それを砦と書いて、この先の何十年ぶんの条文が通るのか。
『管理者』
「……明日までに考えます」
名の入らない頭書きだけが、卓の上で一晩空いたままになった。




