第134話 握れず渡せず
朝の卓には三組が並んでいた。
先頭は新区画の宿の親方で、筵が足りないと言いに来ていた。二番目は石工の頭。新しい便所の穴をどこへ掘るかを訊きに来ている。三番目がベルダで、両腕に決裁の束を抱えていた。
「穴の位置は下の水の走りに関わります。私が見ます」
レインは外套を取った。石工の頭が先に立つ。背中で声がした。
「先にこっちを片づけてちょうだい」
ベルダが束を持ち上げた。
「洗い場の水量。荷捌きの当番割り。市の場所代。ぜんぶあんたの判待ちよ。昨日から一枚も減ってないの」
「戻ってから見ます」
「昨日もそう聞いた」
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穴の位置は半刻では決まらなかった。
新区画の東寄りは五寸も掘れば湿りが出る。西へ寄せれば宿棟の井戸が近い。結局は土塁沿いの一列へ落ち着いたが、そこまでに石工の頭を三度往復させ、下から上がってきた当番の若者に地下の水位まで確かめさせた。
「これで掘れます。深さは決めた通りに」
「へえ。……こういうのは毎回あんたが来るんですかい」
石工の頭が縄を巻きながら訊いた。
「掘る場所が増えれば、そのぶん増えます」
「あと十四箇所ありますがね」
レインは返す言葉を持たなかった。
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管理棟へ戻ると列が伸びていた。
束の一番上を取ったところでエルメアが入ってきた。手も洗わずに卓の端へ立った。
「洗い場の水を止めて二日です」
「止めて、とは」
「量を三倍にすると決めたのはあなたです。決めた紙に判がないので、外の井戸番は古い量のまま回しています。順番待ちの喧嘩は三件が七件になりました。桶の使い回しが増えました。腹を下した子が二人」
「今日中に判を押します」
「今日はまだ二人です」
エルメアは束を見た。
「明日も二人とは限りません」
入れ替わりにリナが顔を出した。新しく入った家族連れが管理棟の前に集まっているという。
「宿の裏の溝が詰まってて、水が寝床のほうへ来てるんです。……みんな、誰に言えばいいのか分からないみたいで」
「ベルダさんの窓口へ」
「行ったんですけど、そこは採る人と商いの人の窓口ですって。暮らしてる人の窓口はまだ無いって言われて。それで、じゃあ上の人にって、みんなここまで来ちゃって」
窓の外で人影が固まっている。二十人はいた。全員が同じ管理棟の戸を見上げている。
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夕方にガルムの走り書きが上がってきた。返事はその日のうちに返せなかった。
夜の口をどこへ絞るか、材木をどれだけ回すか。判断は難しくない。ただ卓の上には便所と洗い場と場所代と、五日後へ出す見立ての下書きが同時に載っていた。手を伸ばした順に他が沈む。
ガルムは翌朝に自分で上がってきた。
「返事は」
「今から書きます」
「昨夜も来たぞ」
太い指が机を一度叩いた。
「抜けようとはしてねえ。切れ目の手前で職人に酒をおごって、灯りの動く刻限をまた訊いてる。訊かれた職人が答えちまってるんだ。悪気はねえ。灯りの刻限が隠すもんだと誰も教えてねえからな」
「教える段取りを組みます」
「その段取りも、あんたの判待ちか」
答えなかった。答えられなかった。
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その晩、四つの光が卓の上に並んだ。
『数を出します』
セレスが先に灯った。
『昨日あなたの判を必要とした案件は二十七件。処理できたのは九件。溜まりは一日あたり十八件ずつ増えています』
『内訳を分けます。二十七件のうち、あなたでなければ決められないものは四件です。中枢の制御。退避の判断。地下への立入の基準。卓へ出す文面』
『残る二十三件は、決める者を替えても結論が変わりません』
『ならば区画を一気に描き直しませんか』
ミストの光が広がった。
『新区画を三つに割り、暮らす者の棟と商う者の棟を分ける。溝も便所も井戸も、割り直せば迷う場所がなくなります。図面は今夜のうちに』
「土台を敷き直せば、上に建った骨組みを一度崩します」
『美しくはなります』
「崩されるのは今そこで寝ている人たちです」
『規則で締めるべきです』
ノアが硬く灯った。
『暮らす者の窓口が無いなら、暫定として全ての届けを管理者へ集約し、可否を一元で判定します』
「それは今の形です。今の形が詰まっています」
『詰まりの原因は判定の速さです』
『じゃあ速くしましょう』
ルカの光がせわしなく段を刻んだ。
『過去の判の傾向を写せます。似た届けには同じ判を自動で下ろす。あなたは例外だけ見ていただければ済みます』
「私の判を、私に断らずに写すということですか」
『効率のうえでは同じ結果になります』
「同じ結果にはなりません」
レインは段を手で押さえた。
「判というのは、誰が決めたかを残すためのものです。写した判には決めた人がいません。……崩れたときに誰も責めを負えない仕組みは、崩れる前から壊れています」
四つの光が黙った。二十七件の束は卓の上でそのままの厚みだった。
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「ちょっといい」
ベルダが戸口に立っていた。いつから聞いていたのか分からない顔をしていた。
卓の前まで来て、束を上から順に三つへ分け始めた。
「これはあんたが決めるやつ。これは決める人がほかにいるやつ。……で、これ」
三つ目の山を軽く押した。いちばん厚かった。
「これは、そもそも誰も決めなくていいやつ。市の場所代なんか去年の値でいいのよ。あんたが目を通してるから決めごとに見えてるだけ」
「私が抱えているから増えている、と」
「そう。それとね」
ベルダは腰に手を当てた。
「あんたが全部抱えたら、あんたが倒れて全部倒れる。……三日前から寝てないでしょ。倒れるのは自由だけど、倒れたときに中枢へ触れる人が誰もいないの。あんた一人しかいないの、そこだけは」
レインは束の縁を指でなぞった。
「渡せば、渡した先で崩れるかもしれません」
「崩れるわよ。あたしだって崩す」
あっさりと言った。
「でも崩れたら直せばいい。あんたが倒れたのは直せないの。……あんた、下の相手には、全部知ろうとすると起こしちまうから知る範囲を決めてるって言ったよね。上のことも同じじゃないの。全部握ろうとするから、手のほうが先に潰れるんじゃないの」
窓の外は暗かった。新区画の骨組みの下に小さな灯が点々と灯っている。全部で四十を超えていた。砦の頃には数えるまでもなかった数だった。
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翌朝、レインは卓に人を集めた。
ベルダ、ガルム、エルメア、バロス、リナ。下からは当番の若者が一人上がってきた。ドルクは谷の刻の前で降りたままだった。
「今日から決める人を分けます」
レインは三つに分けた束を卓へ置いた。
「街の暮らしの窓口をベルダさんに立てていただきます。溝も筵も場所代も、そこで決めて構いません。私には結果だけください」
「判はどうすんの」
「ベルダさんの名前で押してください」
ベルダの眉が動いた。動いただけで何も言わなかった。
「上物と荷はバロスさんに。職人の割り当ても資材の順も、こちらは口を出しません。ただし土台の敷く順だけは相談してください。掘る場所は下の水に触ります」
「そりゃ元々こっちの領分だ」
バロスが指輪をこすった。
「今まで一々管理人に訊いてたのが妙だったのさ。訊かれるほうも待つぶん高くつく」
「縁と夜の口はガルムさん。材木の数も見張りの頭数も、その場で決めてください。……それから、灯りの刻限は隠すものだと職人へ伝える段取りも、そちらで組んでください」
「引き受ける」
「衛生はエルメアさん。水の量も療治小屋の寝床も、止める権限ごとお願いします。危ないと思ったら私を待たずに止めてください」
「では今日から洗い場を三倍にします。判は要りませんね」
「要りません」
最後にリナを見た。
「暮らしている人たちの声を集めてください。困りごとをまとめて、ベルダさんの窓口へ運ぶ役です。……有事の退避の回し方も、新しく来た人にはあなたが教えるほうが早いです」
「私、そんな偉くないですけど」
「教えられる人が足りません。あなたは逃げる側をやったことがあります」
リナは少し黙ってから、頷いた。
『では条項に綴じます』
ノアが灯った。
『決める者の名を届けごとに書きます。誰が決めたかを残さない処理は認めません。……なお灰霧が握る三つと、奥に関わる扱いは今までどおり動かしません』
「それでいいです」
レインは息を吐いた。手元に残ったのは四件だった。中枢の制御。退避の判断。地下への立入の基準。卓の文面。それだけが薄い束になって卓に載っている。
軽くはなかった。軽くはないが、持てる形をしていた。
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昼過ぎに下へ降りた。
保守通路にドルクと当番の若者がいた。若者は管に耳を当てて数を数えている。ドルクは腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「上は片づいたか」
「片づけ方を替えました」
「ふん」
ドルクは若者を顎で示した。
「こいつは四月目だ。あと二月で数えられるようになる。今は俺が横で聞き直してる」
「その二月のあいだ、耳の合否を決めるのはドルクさんです」
「そりゃそうだろう」
「今日からは、その先も含めてお願いします」
レインは正面から言った。
「誰を当番に立て、誰をまだ立てないか。私は口を出しません。……卓で頭数を訊かれたら、ドルクさんの決めた数をそのまま持っていきます」
老坑夫はしばらくこちらを見ていた。
「渡したところで俺の手は増えんぞ」
「増えなくて構いません。決める人が一人でいいことのほうが大事です」
「……まあ、そうだな」
ドルクは壁から背を離した。
「上でどれだけ揉めようが、谷の刻に垂らす奴が一人いりゃ川は落ち着く。その一人を選ぶのが俺だってことなら、俺は明日も明後日もここにいる。それだけの話だ」
若者が管から耳を離し、幅を札へ書き込んだ。昨夜と同じ数字だった。
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夕方、ベルダが自分の名で押した最初の紙を持ってきた。
新区画の溝を掘り直す。人手は宿の親方から六人。費えは市の場所代から出す。レインは受け取って読み、そのまま帳面へ綴じた。何も言わずに済んだ。
「気持ち悪いわね」
「何がですか」
「訊かれないのが」
ベルダは肩をすくめた。それから別の帳面を卓へ置いた。新しい宿帳だった。
「こっちは報告。今日だけで名前が四十一入ったの。市の立つ日でもないのに」
「四十一」
「先の月なら三日ぶんよ。……紹介の欄は八割が空白。書けないんじゃなくて、書かせる相手がいないの。今の街は誰の紹介もなく入って来られるから」
「照らし合わせは」
「ルカに回してある。朝までに、宿の帳面と受付の帳面のずれた人が一覧で出るって」
「では朝に見ます」
言ってから、少し妙な感じがした。以前なら夜のうちに自分で照らしていた。
「それでいいのよ」
ベルダは戸口で振り返らずに言った。
「あんたが朝まで寝るぶんだけ、朝に判が押せるんだから」
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夜半、ガルムが一度だけ上がってきた。走り書きは持っていなかった。
「今夜は来てねえ」
「東の切れ目ですか」
「東も西も、材木の裏も。増やした頭数がまるまる余ってる」
ガルムは灯りを卓へ置いた。炎の芯が細く立った。
「妙だと思わんか。昨夜まで毎晩ちょろちょろしてた連中が、頭数を増やした途端にぱたりと来ねえ」
「見て、やめたのかもしれません」
「やめる奴は下見なんぞ何度もしねえ。……見て、場所を替えたんだ」
外では槌の音がとうに止み、四十を超える灯が骨組みの下でひとつずつ消えていくところだった。
手元に残した四件の束を、レインは灯りの下でもう一度そろえた。握るものは減った。減ったぶんだけ、握り損ねたときに逃げ場が無い。
谷の刻まで、まだ二刻あった。




