第133話 分けるなら奥もだと言う声
卓を開く半刻前にベルダが椅子を一脚運んできた。
卓の隅。壁際でもなく列の内でもない半端な位置に置いてから腰に手を当てた。
「ここでいいのかね」
「事務の枠を通った席です。隅で結構です」
「隅に座って隅で済むような男には見えないけどね」
ベルダは台帳を三冊積み直した。それから配る写しの束を卓の中央へ置いた。
『本日配る範囲を確認します』
ノアの光が硬く灯った。
『治安。衛生。街の費え。中枢の魔力。当番の頭数と費え。ここまでは配ります。当番の刻限と弁の扱いは配りません』
「刻限はもう外へ漏れています」
『漏れたものを紙で追認すれば、次に漏れたときの出所が消えます』
レインは束の厚みを指で測った。開くと決めたものは全部開く。開かないと決めたものは漏れていても開かない。線はそこにしかない。
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卓が開いた。
右にハルドレイと代官補佐。左にドレファスとエイク。中央にベルダと台帳。そして隅にもう一つ。旅塵の落ちた地味な外套の男が通された順に静かに腰を下ろした。
「持ち帰った結果から述べる」
ドレファスが先に口を開いた。
「重さの列については委員会から異論は出なかった。ここまで開いた例は他にないと評した者もいる」
「ありがとうございます」
「止まったのは最後の一列だ」
主席評価官は台帳の終わりの頁を指で叩いた。
「名のない当番に国庫から銭を出した前例がない。何のための当番かを書けない支出は次の年の卓で真っ先に削られる」
「領も同じよ」
ハルドレイが引き取った。
「わしは兵も銭も出す腹を決めておる。だが領の卓で何のための銭かと訊かれたときにわしは答えられん。答えられん銭は続かん。……お前さんの当番は来年も再来年も要るのだろう」
「終わりの日付はありません」
「ならなおのことよ」
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「隅から一言よろしゅうございますか」
ヴェッセンが手を膝に置いたまま軽く頭を下げた。
「商流の代理として伺っております。街の普請の荷を運ぶ側の話をしに参りました。……ですが、いま伺った話のほうが荷より先かと存じます」
「聞こう」
ドレファスが顎を引いた。
「重さを分けるというお話は、まことに結構でございます。ただ分けるという言葉は、分ける対象を互いに見てはじめて使えるものかと存じます」
男の声は柔らかいままだった。
「灰霧殿は重さだけを天秤の片側へお載せになった。もう片方の中身は手元に置いておられる。それでは天秤が釣り合いません。……分けるなら、奥もでございましょう」
卓が静かになった。
「商流の代理が、なぜ奥の話をする」
「街の下に何が寝ているかを知らずにその街へ銭を出せと申されましても」
ヴェッセンは目を伏せた。
「荷を入れる者にも、寝床を貸す者にも、同じことが言えるかと存じます」
筋は通っていた。通っているからこそ性質が悪い。公平の顔をしたままこの男は奥を卓の上へ引き出そうとしている。
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「天秤の話をなさるなら、載せるものの質を先に見ていただけますか」
レインは台帳の終わりの頁へ手を置いた。
「重さは割れます。夜ごとの当番は頭数で割れます。費えは銭で割れます。……割っても中身は変わりません。十人で担ごうが二十人で担ごうが、垂らす水はひと息ぶんのままです」
「中身は違うと」
「割れば変わります」
レインは指を折った。
「奥に何がいるかを二人が知れば二人ぶんの口があります。十人が知れば十人ぶんです。知る人の数は割ったぶんだけ増えます。増えればそのうちの誰かが確かめたくなる。確かめられることをあれはいちばん嫌います」
「憶測だな」
「はい。憶測です。ですが憶測が外れたときに死ぬのはこの街で寝ている人たちです」
言い切ってから息を継いだ。
「割った瞬間に守りが壊れるものは分担の対象になりません。……載せれば壊れるものを天秤へ載せろと仰るのは公平の話ではありません。天秤を壊す話です」
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『試算を出します』
セレスの光が並んだ。
『奥のなだめ当番を中央の管理へ移した場合に要るもの。谷の刻に現地にいる者が一名。刻限は日ごとに前後します。弁の開き幅に判断の余地があり、これは耳で測ります』
『耳の育成に半年。毎晩座る必要があります。中断すれば数え直しです』
『条件を満たす者は現在三名。育成中を含めて五名。いずれも灰霧前砦の住人です。王都に一名もおりません』
『分担とは負える者が負うことです。負える者が片側にしかいない項目は割った時点でもう片側が空欄になります。空欄のある分担は成立しません』
「……耳、とはな」
ドレファスが低く言った。隣でエイクが小さく頷いている。委員会の卓で当番の頭数を数えたのはこの若い査定官補だった。
『あわせて申し上げます』
ノアが続けた。
『奥に関する情報の扱いは安全基準の条項です。利権の条項ではありません。条項は五つあります。開けない。閉じない。細く通す。一点だけ覗く。言葉は握る』
『五つ目だけを外すことはできません。四つ目までが五つ目に寄りかかって立っています』
「寄りかかるとは」
『覗き穴を一点に絞れているのは穴の位置を知る者が限られているためです。知る者が増えれば穴を増やせと言う者が必ず出ます。穴が増えれば退避線が足りません』
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ヴェッセンは慌てなかった。
「では、耳ごと数えてはいかがでしょう」
男は初めて卓の中央へ身を寄せた。
「灰霧殿の当番をそのまま国家の名簿へお載せになればよい。銭は私どもが用立てます。期間の定めは設けません。十年でも二十年でも」
「見積もりも取らずに、ですか」
「私の後ろにおられる方は、そのあたりを気になさいません」
ヴェッセンは懐から一枚の書き付けを出して卓へ滑らせた。
名がない。紋もない。封蝋の痕だけが端に残っている。書かれているのは一行だけだった。奥の保守にかかる費えを期間の定めなく引き受ける用意がある。
ドレファスがそれを長く見ていた。
「委員会はこの筋に乗らん」
主席評価官は紙を指で押し戻した。
「国庫の代わりに素性の知れぬ懐から出させたとなれば、削られるのは次の年の予算ではない。私の首だ」
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レインは書き付けを見なかった。卓を見回した。
「一つだけお伺いします」
卓の目が集まった。
「今夜の谷の刻に、この卓のどなたが下へ降りて弁を垂らせますか」
誰も答えなかった。
「わしは垂らせん」
ハルドレイが先に言った。
「行き方も知らん。行けたとしても、どこまで開ければよいか分からん」
「私も垂らせん」
ドレファスが続けた。声に苛立ちはなかった。
「……そういう問いだったか」
「分担とは負える者が負うことです。負えない者へ割り当てた列は紙の上でしか成立しません」
レインは台帳を卓の中央へ戻した。
「そのうえで一つ、こちらから引き取ります。名前が書けないから銭が止まるのでしたら、名前の代わりに別のものを書きます」
「何を書く」
「止めた場合に何が起きるかを書きます」
ハルドレイの眉が動いた。
「中身は書けません。ですが、止めた晩から何日で上層の水がどう変わり、どの区画の何人が最初に困るかなら書けます。……それは奥の話ではなく、街の話です。街の話なら開けます」
ドレファスがしばらく黙った。
「名のない当番に出すのではなく、止めれば街が壊れるから出す、と」
「はい」
「前例はない。……だが筋は立つ」
主席評価官は写しの束を揃えた。
「持ち帰る。五日後にもう一度開こう」
ヴェッセンは書き付けを懐へ戻した。押し返された紙を惜しむ素振りはなかった。立ち上がる際に一度だけこちらを見た。
「本日は勉強になりました」
戸口の手前で足が止まる。
「失礼ながら一つだけ。……灰霧殿は、いつまでご自分のお手で握っておられるおつもりでしょうか。握る手は一組しかございません。街が大きくなるほど握るものは増えてまいります」
男は返事を待たずに出ていった。
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夕方にバロスが書き付けの写しを読んで指輪をこすった。
「値が書いてねえ」
卓に肘をついた。
「期間の定めなしで銭を出すって紙を商人は絶対に出さねえ。青天井の約束をした側が必ず食われるからだ。……出すのは買う気のねえ奴だ。金を渡すこと自体が目当ての奴だよ。銭で借りを作って返せねえところまで持っていく」
「返せないところまで」
「一度でも受け取ったら、灰霧の当番は誰の当番だって話になる。……それだけ払ってきた俺の当番だ、ってな」
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日が落ちてからガルムが上がってきた。走り書きは昨日より短かった。
「昨夜も来た」
太い指が東の丸を叩く。
「今度は抜けようとしてねえ。切れ目の手前で職人に道を訊いて帰った。……訊いたのは通路の場所じゃねえ。夜に灯りが動く刻限だ」
「灯りが動く刻限」
「下へ降りる奴が提げてく灯りだろうよ。壁を越えるより、その刻限を知るほうが安いと踏んだんだ」
ガルムは走り書きを畳んだ。
「縁は十日で塞がる。だが塞いだところで、口で訊いて回る奴は塞げねえ」
同じ晩にベルダの覚え書きも上がってきた。新区画の便所が二つ壊れた。洗い場の順番で喧嘩が三件。宿の親方から筵が足りないと苦情。どれも小さい。小さいまま重なっている。
レインは卓に三枚を並べた。ガルムの走り書き。ベルダの覚え書き。五日後の卓の日取り。
どれから手を付けるかを決めようとして決められなかった。街の詰まりを放てば腐る。卓を放てば分担が不利に固まる。縁を放てば奥へ手が届く。三つとも今日中に片づく形をしていない。
窓の外では槌の音が止み、代わりに炊事の煙が上がり始めていた。壁のない宿の下で人が眠る。その真下で今夜もひと息ぶんの水が細く垂れる。
握る手は一組しかない。
去り際の一言だけが卓ではなくこちらの手のほうに残っていた。




